インターネットは、自分の仲間を見つけるためのツールだと思う。
昨日はブログで知り合った高校生の方とスカイプで話をしていた。
その中で出てきたのは、「インターネットで知り合った人とリアルで会うことに、どれだけの抵抗があるのか」という話題だった。
「ネットからリアル店舗へ、あるいはリアルからネットへ」ということを意味するO2Oなる用語がマーケティングの世界で盛んに叫ばれるようになった現代においても、個人レベルでインターネットで知り合った人とリアルで会うということに抵抗のある人は、非常に多い。
事実、スカイプをした彼女も「普通は出会い系かと思っちゃいますよね」と言っていたし、まだまだ「ネットで人と会う」というのはハードルの高い行為のようだ。
もちろん僕にも、ニコニコ生放送で人を集めてオフ会をしたり、SNS経由でバンバン人と出会ってネットワークを広げたりしてる友達は、何人かいる。
しかし、これは誰にでもできることではない。何がしかに突出していなければ、「見知らぬ人」という障壁を突破して人を惹きつけるコンテンツをつくることはできないし、「遠慮」や「自分は相手に何が与えられるのか」という点を(良い意味で)無視できる人でなければ、いきなり知らない人にメッセージを送りつけて「会いませんか?」などと言うことはできないからだ。
一方で、ブログを書いていく中で、インターネットが少数派な(あるいは少数派だと思い込んでいた)自分をどれだけ勇気づけてきてくれたか、どれだけ仲間をもたらしてくれたかははかり知れない。
人の生き方や価値観がますます細分化し個別化していくこれからの時代において、「インターネットで仲間を見つけること」の重要性は、どんどん高まってゆくだろう。
生物でいえば、異なる場所にいるということは、たいてい異なる種であるということだ。異なる種に分化する道筋の中で、まず地理的な隔離を経験し、その後生殖的な隔離を経験する(もちろん地理的な要因以外にも生殖的隔離を獲得するケースはあるけれども)。
インターネットは、この「地理的隔離」「生殖的隔離」の話に象徴されるような、離れた場所にいて仲間になるなど想像もつかなかった人同士を、一瞬にして結び付けるのだ。
だから僕は、「インターネットで人と出会う」ということが、もっともっと多くの人にとって普通のことになってほしいと願う。
特別な才能を持つ人や、「出会い系」として使う人ではない、普通の人のために、インターネットは存在しているはずなのだ。
じゃあ、「インターネットで人と出会う」ことが普通のこととなるためには、どんなことが必要なのだろうか?
それは、「相手を一人の人間として捉え、自分を一人の人間として捉えてもらう」ということだと思う。
インターネットを性欲のはけ口として使う人間は、相手など誰でもいいと考えている。
それは、「出会い系」という言葉が象徴している。
「出会い系」という言葉には、相手が誰であるかを気にしているというニュアンスは一切感じられない。本来「誰々と」という目的語が必要となる言葉が、とりあえず「出会う」ことが重要なのだ、というものに変質してしまっている。
その意味では、もっと「相手」を感じさせる言葉を作ってしまえば、「手あたり次第に出会う」というニュアンスが消えるのかもしれない。
「相手のことを一個人として捉える」一方で、「自分のことを一個人として捉えてもらう」こともまた必要だ。
僕がこれまでブログを通して出会ってきた方々に言われるのは、「あれだけ率直に自分の気持ちを書いているから、信用できると思った」という言葉である。
「本名が出ているかどうか」「所属企業が記載されているかどうか」というのが、インターネットで人を信用する時の一般的な判断基準なのかもしれないが、そのあたりの個人情報が書いていなくても、インターネット上で人から信用されることは可能なのだ。
そのためには、自分の価値観をさらけ出すことだ。
正直、一度インターネットに個人情報を書き込むと容易に消せないという現状がある以上、「匿名で発信しながらも周りから信用を得て仲間をつくる」というスタンスは、これからどんどん必要になってくるのではないかと思う。
自分の価値観を表現し、自分という人間を少しでも理解してもらえる準備を整えておくこと。それが、「自分を一個人として捉えてもらう」ことにつながると思う。
「インターネットで仲間を作る」。易しい人にはとことん易しく、難しい人にはどこまでも難しい、この命題。
きっと僕が今日書いたようなことも、ネットで人と出会うのが当たり前の人なら「そんなの言うまでもないんじゃない?」って思うようなことだろう。
だが、僕自身が元々気軽にインターネットで人と出会うようなタイプの人間ではなかったことや、インターネットで出会った多くの人たちから「こんな形で人と出会ったのは初めてです」と言ってもらえたことから、「普通の人」にこそ、インターネットで人と出会うということは必要なのだと僕は確信している。
僕の言葉は切れ味の悪いナイフのようなもので、何度も何度も同じことを世の中に叩きつけ続けなければ、伝えたいことは伝わらないのかもしれない。
それでも、いつかまたもう1人、自分の言葉が伝わることを信じて、今日も精一杯文章を書こうと思う。
仕事で質問をする時に大切だと思ったこと。
新人社員ということで、毎日上司や先輩に質問ばかりしている。
その中で「どんな風に質問すればよいのか」をいつも考えているので、今日はそれについて書いてみたい。
「仕事での質問のやり方」として、大切なことは以下の3つだ。
1、自分で調べたり考えたりしてから質問すること。
2、質問するタイミングを考えること。
3、同じ質問はしないこと。
それぞれ、「質問する前の注意点」「質問する瞬間の注意点」「質問した後の注意点」とも言い換えられる。
これらが守れてさえいるのであれば、質問はどんどんしたらいいと思う。
それでは順に見ていこう。
1、自分で調べたり考えたりしてから質問すること。
わからないことが与えられると、つい「これは何ですか?」「それはどういうことですか?」と、何も考えずに質問をしてしまいたくなる。
だが、そうした質問を投げかけた場合、そもそも相手はこちらが「どういった答えを求めているのか」ということを把握できず、とんちんかんな受け答えをしてしまうことがある。
そういった問題を回避するためには、仮説を立てて「具体的な質問」をすることが大切だ。
究極的には、相手に「イエス」か「ノー」かで答えさせるような質問が、良い質問である。
2、質問するタイミングを考えること。
言うまでもなく、質問したい人が誰かと話している時や、締切ギリギリの仕事をしている場合、その人への質問は控えなければならない。
ただ、そうは言っても、こちらが質問すべきことを質問せずにいて後からそのせいでミスをした、という事態は避けねばならない。
自分が質問したいことと相手の仕事の重要度を比べて、もし前者の方が重要だと感じるのであれば、意を決して質問しよう。
3、同じ質問はしないこと。
これも当たり前のことではあるが、同じ質問は許されない、というくらいの気持ちでいた方がいい(特に業界用語とか単純な知識とかについての質問の場合)。
質問というのは、大げさな言い方をすれば「未来の自分に投資するために現在の相手がコストを支払うこと」である。将来自分がそれを知っておくと良い仕事ができる、そのために今相手が時間や労力をかけて教えてくれているのだ。
メモを持って、暇な時間はメモったことを思い出すようにしよう。学んだ用語や知識はどんどん自分の会話の中に混ぜていこう。そうすると、同じ質問をするという愚は犯さないだろう。
と、仕事上の質問で大切だと思うことを挙げてみたが、これって結局「さし飲み」でも同じことだよなぁ、と感じた。
さし飲みでは、「なんで?」とか「それって何?」とか頭を使わない単純な質問をしても浅い答えしか返ってこないし、飲み始めてすぐに「人生の目標は?」とか聞いちゃうのは質問のタイミングを間違えているし、既に聞いたことをまた質問しちゃうのはちゃんと話聴いてんのかってなるし。
そういう意味では、コミュニケーションというのはどこでも共通なんだな、と思う。
ブログは出会い系サイトじゃない。
僕はこれまで、このブログを介して、それなりに多くの人とお会いしてきた。
ブログに直接コメントをいただいたり、メールをいただいたり、あるいはTwitterやFacebookといったSNS経由でメッセージをもらったり、その経路は様々だ。
僕からすれば、インターネットを介して知らない人と出会うというのは、とても日常的なことだ。
しかし、「ブログで知り合った人とリアルで会っている」という話を会社ですると、半分くらいの人にはぎょっとされる。
僕のいる広告業界はそれなりに新しい価値観に寛容な業界だと思うけど、それでもこれだけの人が「ネットで出会う」ことに違和感を覚えるのであれば、全数調査してみたらもっと高い割合でそういった反応が返ってくるに違いない。
時には「出会い系サイトじゃん」みたいなことを言われることもある。そう言われた時は、笑って返しはするけれども、正直言って気持ちは良くない。
当たり前だ。自分が真剣にやっているものを茶化されたら、誰だって気分の良いものではない。
僕は、このブログによって後ろめたい思いをしたことは一度もない。し、人に恥じるような行いをしたことも一度もない。
それは、僕がこれまでこのブログを通して出会った方々が、証明してくれるはずだ。
そもそも、ブログを通して女の子と身体目的で「出会う」という行為は、短期的には肉体的な快楽を与えてくれるかもしれないが、長い目で見れば、自分の人生に何らプラスをもたらさない(むしろ敵ばかり増えていく)、時間や若さを消費していくばかりの刹那的な行為である。
そういうのをよしとする人もいるかもしれないが、僕はそんな下らないことに時間を使いたくない。
インターネットで始まる恋もあるかもしれないが、それは学校やサークルがきっかけで人を好きになるのと何ら変わらないのだ。
「インターネットで知らない人と出会うこと」は、まだまだ変な人や面白い人(この言葉を使うのは嫌だが…)の専売特許になっているように思う。
理由は簡単で、普通の人にとっては、「ネットで人と会うとか、友達に変に思われないかな…」という不安が先に来るからだ。
だが僕は、何も突き抜けたものなど持たない普通の人にこそ、インターネットを自分の武器にしてほしいと思う。
インターネットは、「自分はこれでいいのだろうか」と思い悩む人を勇気づけ、仲間を与えてくれる。
事実、僕はインターネットがなければ、自分と同じように「生き方」に悩む人たちと出会うことはなかったし、こんなふうに文章を書くことでもたらされる「誰かの役に立つ」ことの素晴らしさも、知ることはなかっただろう。
こんなインターネットの素晴らしさを、もっと多くの人に知ってほしい。そして、身近に感じてほしい。知らないからって、「ネットでの出会い」を最初から遠ざけないでほしい。
まだまだ、「インターネットで知らない人と出会う」という行為は、それを必要としているはずの人たちに、浸透していないように感じる。
だからこそ、僕は「普通の人」の一人として、このブログを通して人と出会い続けていきたい。
自分の哲学は、言葉よりも行為で、示すべきものだと思うから。
昔の自分すら救えないで、赤の他人を救うなんてちゃんちゃらおかしいぜ。
さし飲み大好きです、なんてことを日々周囲に喧伝していると、友達と将来についてマジメな話をする機会が多くなってくる。
そうした飲みの場でよく語られるのは、「今こういうことがやりたいと思っていて~」という、ふわふわとした(悪く言えば無責任な)夢だ。
僕が思うに、夢と呼ばれるものの中で一番悪いものは、悪夢ではなく、「無責任な夢」である。
たとえそれが、「風立ちぬ」に出てくる飛行機技師のカプローニの言ったような「美しい夢」だったとしても、誰もその夢の実現について責任を持たないのであれば、それは「悪い夢」である。
飲みの席では、そういった「悪い夢」が、泡沫のように生まれては消えてゆく。
そんな場面をこれまで幾度となく目の当たりにしてきた僕が、必ず相手に問う質問がある。
「その夢は、昔のあなた自身を、救えるものなのですか?」と。
夢、やりたいことというのは、それを通して誰かに何らかの価値を与えることだ。
お店を経営するでも、先生になるでも、なんでもいいけれど、一人ぼっちで完結する夢などありえない。
(とここまで書いて、無人島で孤独に暮らし続けるという夢を思いついたけれども、それは「世の中から消え去りたい」という点で「死にたい」という願望と同じものだと思うので、ここでは割愛する)
大げさに言えば、誰かに何らかの価値を与えるというのは、その人を(ほんの少しでも)救うということだ。
しかし、今の自分に一番近しい存在であるはずの昔の自分すら救えないで、赤の他人が救えるだろうか?
僕は、そんなことは絶対に不可能だと思う。
昔の自分が救えなければ、いくら聞こえのいい、立派な夢を語ったところで、どこかで必ず燃え尽き挫折してしまう。
僕自身、研究者であったり、ライターであったり、様々な「悪い夢」を語ってはそれらを投げ捨ててきてしまったという経緯があるから、これは痛いほどわかるのだ。
僕の場合は、結局、そんな風に何にも将来のことを決めきれない自分自身こそが、救うべき「昔の自分」だったけれども。
夢を語ることは素晴らしいことだ、という風潮が、世の中に満ち満ちているように思う。
その素晴らしさを、僕は否定はしない。
だけど、「それで昔の俺は救われるのか?」と自問し続けなければ、結局はいつもと同じく、飽きたり気が変わったりして、「悪い夢」を投げ捨ててしまうことになる。
昔の自分すら救えないで、赤の他人を救おうなんて、ちゃんちゃらおかしい。
「自分は何がやりたいのか?」と考えるよりも先に「昔の自分を救えるものは何だろうか?」ということを考えた方が、きっと確信に満ちた足どりで、新しい一歩を踏み出せるはずだ。
なぜ「作者の気持ちを考えること」には意味があるのか。
いわゆる「文系」の学問を煽るセリフとして、「文系は作者の気持ちでも考えてろよ」というものがある。
特に、医学や薬学、工学といった「実学」を学ぶ理系サイドから、浴びせられる嘲笑のように思う。「俺たちは世の中の役に立つものをつくってるけど、『作者の気持ちを考える』ことは世の中の何の役にも立たないんじゃないの?」って。
もちろん、もともと「作者の気持ちを考える」ことは、世の中に何らかのわかりやすい(=カネという指標で測れるような)価値を提供するためにやっていることではない。そうすることで、作品のよりよい味わい方を見つけ、自分が気持ち良くなるためにやっているはずだ。
だが、あえて「作者の気持ちを考える」ことに意味があるとするなら、それは「人がなぜこのような行動をしたのかを考える」ことと同義だから、と言える。
そして、「人がなぜこのような行動をしたのかを考えること」は、マーケティングという「カネを生み出す活動」に必要不可欠な姿勢なのだ。
そもそも、「作者の気持ちを考える」という行為は、ただ単純に、悲恋の小説を呼んで「これを書いた時、作者は悲しかったんだろうなぁ」などと勝手に想像することではない。
それは、物語の構造、キャラクター、表現手段や技法、間の空け方、何を描くかなどなど、作品を構成するすべての要素から、「どうしてこの作品はこのような表現であらねばならなかったか」ということを問うていくことだと思う。
例えば、最近僕が観た「パルプ・フィクション」という映画。
これは、物語の時系列をわざとバラバラにして構成された作品だ。
時系列をバラバラにするという行為は、一見、現代で最も長い時間受け手を拘束し自分の思い通りの時間軸を見せつけることのできる、映画監督という表現者の特権を、投げ捨てているかのように思える。
表面的にこの作品を捉えれば、マフィアがいろんなところでバカをやっていて、しかもその時系列がめちゃくちゃな、よくわからない映画だ、という評価になるだろう。
しかし、僕は別のことを思った。
時系列をシャッフルしていても、この映画はそこそこおもしろい。
そこから読み取れるのは、本作も含めた世の中にあふれる下らない映画のほとんどは、映画という「長時間作者の思い描く時間軸で受け手を拘束する」芸術の形を取らなくても、順番をツギハギにして観衆に見せてやっても、作品の価値なんてそう変わらないものなんですよ、という辛辣なメッセージだ。
(もちろん、「パルプ・フィクション」については、ここで僕が書いたこととは違う解釈ももちろんあり得るし、それらを否定するものではないことは、一応書いておく。)
あるいは、音楽を例に出そう。
ロックの場合、歌のメッセージ、つまり言語的な部分と、メロディーやコード、リズムやサウンドといった非言語的な部分がリンクすることは、非常によくあることだ。
the pillowsの「Please Mr.Lostman」という曲は、「たとえ聴いてくれる人たちがたった1人でも、俺たちは俺たちの音楽をやり続けるんだ」という、彼ら自身への応援歌的な曲である。
その曲の最後の部分、「Please Mr.Lostman それがすべてだろう Please Mr.Lostman I need you so....」と歌うところのコードに注目してほしい。
ここでは、そのうち忘れられてしまう音楽を奏でる人たち、すなわち自分自身たちのことを、Mr. Lostmanという言葉で表現している。
彼らは迷っている。本当に自分たちの音楽をやっていていいものかと。
その迷いが、「Please Mr.Lostman I need you so...」のところのコード進行にしっかりと現れている。G→Aときたコードは、普通最後はDに着地して終わるはずだが、もう一度ためらうようにGに戻っている。
西洋音楽的なルールでいえば、G→A→Gという進行は、ルール違反である。
それでも最後はDにいって、曲は終わる。
教科書通りならば「起承転結」といくところを、「起承転(足踏み)結」となっているところに、彼らの迷いや、「それでもやるんだ」という決意を、読み取ることができるのだ。
前置きが長くなってしまったが、「作者の気持ちを考えること」は、かように「作品のさまざまな構成要素を手がかりにして、作者がなぜそのような表現に至ったのかを考えること」である。
そしてここからが本題だが、「表現された(=発信された)様々な要素から、発信者がなぜそのような行動に至ったのかを考えること」は、マーケティング、特に最近やかましく言われている「データから生活者の行動を読み取ること」と同義である。
アクセス解析データやPOSデータ、あるいはテレビの視聴データなど、マーケティング活動には種々のデータが用いられる。
それは、僕が何度かこのブログでも書いている、「人が生きていると自然に周囲に発信される痕跡」である。(参考:生きることは、発信すること。コミュニケーションの未来とは。)
ある人が今、僕のブログにアクセスしている。その人はまずトップページに5分間滞在して、それから「生き方」のカテゴリーに飛んだ。
このような「発信の痕跡」から読み取れるのは、おそらくこの人はトップページの中でも「生き方」にカテゴライズされている記事を5分で読み、それで気に入ってくれて同じカテゴリーの記事を読もうとしてくれた、ということだ。
もしこういったアクセスの経路を辿る人が多いようであれば、僕は「生き方」にカテゴライズされる記事を必ずトップページに出てくる最新記事のどこかには入れるように更新したり、「生き方」カテゴリーのボタンをもっと目立つ場所に設置したり、といったことを考えるだろう。これは、立派なマーケティングの一つだ。
このように、「発信されたものから、発信者がどうしてそういった行動に至ったのか」を考える姿勢が、マーケティングには不可欠である。
「作者の気持ちを考えること」は、確かに、それを繰り返せば確実に何かリターンがある(例えばマーケティングの能力が上がる)、というものではない。
その点では、プログラミング言語を学べばプログラミングができるようになるとか、簿記を学べば会社の財務状況が把握できるようになるとか、そういった類のわかりやすい能力ではないだろう。
なぜなら、「作者の気持ちを考えること」は、姿勢だからだ。
表現されたすべての要素から、どうしてこのような表現になっているかを考えること。
「作者の気持ちを考えること」というのは、そうした「細部も全体も見渡した上で表現者の気持ちを考えること」に他ならない。
しかし、姿勢がなければ結果は出ない。
単にデータがたくさんあって、データを数学的にあれこれいじれる研究者がいたとしても、そこから新しい商品につながるマーケティングは絶対にできない。
これまでの広告代理店のプランナーがやってきたことは、これからのデータマーケティング時代でも活かせる。(中略)
その理由の一つは先にも述べたように定性調査をベースにした仮説設計力が求められるからである。いくらビッグデータが存在しても単にたくさんのデータがあるだけでは意味がない。そのデータの大海原からどういう切り口での分析をするとよいのか、という仮説立ての能力がない限りデータの洪水に溺れてしまうだけだ。
(「広告ビジネス、次の10年」p. 202, 203)
鳥の目と虫の目で人の心を捉え、「どうしてこんな表現になったのか」を作者の気持ちになって紐解いていくという姿勢は、必ずマーケティングの世界でも役立つのだと、僕は確信している。
雲のむこう、約束の場所 / 新海誠作品の映像美は、思い出の美しさである。
「雲のむこう、約束の場所」を観た。
この作品は、いわゆる「セカイ系」に分類される。主人公たちの身の周りの小さな人間関係の綻びが、世界の破滅とか終焉とかに直接つながっているような作品、Wikipediaの同名の項の言葉を借りれば、“主人公たちの行為や危機感がそのまま「世界の危機」にシンクロして描かれる”作品である。
はっきり言って、ストーリーは直線的だし、登場人物も純粋無垢すぎて感情移入できない。
僕個人の意見だけど、新海誠氏の作品のすごさは、ストーリーやキャラクター造形にあるわけではないと思う。
では何が素晴らしいのかというと、その神がかった映像美である。
いわずと知れた「秒速5センチメートル」、モノクロで展開されるショートフィルム「彼女と彼女の猫」など、彼の作品はいずれも映像面においてずば抜けている。
その映像の美しさを一言でいえば、「思い出の美しさ」になるのではないだろうか。
僕たち一人ひとりの心の中には、それぞれがこれまで過ごしてきた人生の思い出が存在する。
それらは、時間という目の粗いふるいにかけられて、次第に純粋な輝きを放ちはじめる。
僕は高校時代、野球部に所属していた。死ぬほどきつい練習も、先輩から理不尽に怒鳴られる経験もたくさんしたが、今覚えているのは、とても楽しくノスタルジックな思い出ばかりだ。
辛いことも嫌だったこともきっとその思い出の一部には含まれていただろうに、何年も経てば、そういったネガティブなことは抜け落ちて、ただ「あの時代は良かったなぁ」という思い出として、心に記憶されるのだ。
映像美が「思い出」的なものであることの象徴として、新海誠作品には「過去」を振り返る体裁になっているものが非常に多い。
「雲のむこう、約束の場所」でも、冒頭の5分間程度は主人公のヒロキの現在の描写があり、そこから次第に過去へとさかのぼっていくという構成になっている。
これはある意味、非常に小説的な映画だとも言える。
音楽、小説、映画などはその構造上「時間芸術」と呼ばれるが(対義語としては「空間芸術」がある。絵画や彫刻など)、その中でも小説は、ほぼすべての作品が「過去形」で語られており、「この作品は過去のできごとについて書いています」ということが極めて鮮明に読者に伝わる。
「美しい思い出」のような映像美と、そういった小説的な「過去形で語られる物語」とを目の当たりにして、新海誠氏の作品を観る人は感傷に浸ってしまうのだ。
いつもは自分の内側でしか感じられなかった思い出という風景を、視覚を通して外側から味わうことができる。
僕たちが新海誠氏の作品を観て「いいなぁ」と思うのは、そういった「思い出」を、もう一度自分の中に思い起こせるからではないだろうか。
「市場価値の高いスキルだけが身に付く仕事」なんてありえない。
昨日 インターンシップの説明会に、社員として参加して思ったこと。 という記事を書いたが、それ以外でも、ここ最近は大学生の方とお話しする機会が多い。
その中で少し気になるのは、「英語は身に付きますか?」とか、「転職に必要なスキルは学べる環境ですか?」といった質問をされることが多いことだ。
もちろんこれは、時代の流れのせいでもあるのだろう。一つの企業に勤めあげることが美徳だと捉えている学生は今の時代あまりいないだろうし、逆に「どこに放り出されても通用する力を身に付けたい」と考えている学生も多いだろう。
書店のビジネス書の棚を見ていると、一昔前に大前研一氏が唱えていた「英語、IT、会計」に関する本は言わずもがな、昨今では「統計学の力」といったものも、「市場価値の高いスキル」としてカウントされている。
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ただ、「どんな会社でも通用する、市場価値の高いスキル」だけを求めているとしたら、それはあなたが間違っている。
なぜなら、仕事というのはそう簡単に「美味しい部分」と「不味い部分」を切り分けられるものではないからだ。
僕はテレビの部署にいて毎日視聴率をチェックしている。
視聴率というのは一定数を上回ったサンプル数から取られている。その数字が出てきたわけを(相関を見たり、サンプルの強度を考えたりして)あれこれ推測して、じゃあ次回はこのテレビ局を使おうとか、今回は深夜にCMを流してみようとか考えるわけである。
これも初歩的ではあるが、統計学を使っていることになるだろう。
だが実際には、机上で進めた推論をそのまま現実に落とし込めるわけではまったくない。
例えば、そうやってプランしたものに対して、テレビ局からは「どういった時間帯や番組にCMを流すか」という情報が来るわけだが、全国キャンペーンの場合、100をゆうに超える局から次々とそういった情報がもたらされてくる。
どの局からは情報が来ていて、どこからは来ていないのか。どの局の情報は質が良くて(つまりはゴールデンタイムとか人気のある番組とかにCMを流してくれて)、どの局のはよろしくないのか。そういったことを逐一目視で確認しなければならない。
非常に手間のかかる、それでいて無味乾燥な作業だ。
しかし、こういった地道な作業をきっちりとこなして初めて、最初に組んだプランが計画通りに実施されるのである。
「僕はメディアプランをするためにこの会社に入ったのであって、どこの局の情報が来ていないかチェックする雑用みたいな仕事はやりたくありません!」と言っても、そもそもその「下らない仕事」ができなければ、自分の設計したプランニングという理想論を現実世界に着地させることはできないのだ。
同じことは、僕のインドでのインターン経験にも言える。
インド人100%の会社でインターンを1年弱やって、得たものは英語力と営業力、それから生命力です!などと言えば、いかにも「市場価値の高いスキルが身に付いた」ように聞こえる(生命力が市場価値が高いかどうかは知らないが)。
だが、インドで僕がやっていたことと言えば、ひたすらチェック、チェック、チェックだった。
引っ越し先のアパートに家具が時間通り搬入されているか電話してチェック。水漏れがないか、電球が切れていないか目視でチェック。クライアントに同行する不動産業者が時間通りに現れるか、3時間前から1時間おきに電話してチェック。
めちゃくちゃ地味な作業である。
しかし、その地味な作業があってはじめて、クライアントに納得してもらえるサービスが提供できる。「俺の役目は日本人駐在員とインドをつなぐコミュニケーターだから、家具が来ているかどうかなんて知らないぜ」などとのたまうものなら、たちまちインドと日本との常識の違いを思い知り(つまり何のチェックもせずいようものなら家具はいつまでたっても届かないことを知り)、クライアントから大目玉を食らうだろう。
かように、「市場価値の高いスキルだけが身に付く仕事」など、ありはしないのだ。
今の日本の就職活動では、自分のやりたいことや身に付けたい力をきちんと語れなければ、選考に残れないシステムになっている。
その一方で、会社に入ってから与えられる仕事というのは、今も昔も変わらず「その内容につべこべ言わず、任されたものを精一杯やる」といった性質を持つものだ。
そこで新卒が「市場価値の高いスキルが身に付く仕事がしたいんです!こんな雑用はやりたくないんです」と言っても、「ハァ?」と言われるのがオチだ。
そもそも、どのような仕事であれ、「市場価値の高いスキルだけが身に付く仕事」というのはあり得ない。どんなにかっこよく見える仕事であっても、その95%は、泥臭く、地味な作業なのだ。
「どこででも生き残れるスキルを身に付けたい」と考えることは、決して悪いことではない。
ただし、世の中の仕事というのはほとんどが無味乾燥なものであって、それを食わず嫌いするのではなく、そこから何が学べるかを考えるということが、社会人に求められる資質であることは、心しておくことが必要だと思う。
インターンシップの説明会に、社員として参加して思ったこと。
今日は、2016卒の学生のみなさんのためのインターンシップの説明会に、新卒1年目として出席させていただいた。
前に出てプレゼンをする、という形ではなく、円卓を囲んでざっくばらんに質疑応答に答える、といったものだった。
僕がなぜ京大の理学部というガチガチの理系から広告会社に来たのか、どんな人が広告業界には向いているか、僕の思う広告ビジネスの限界とこれからとは、などなど、新人なりに今考えていることをいろいろと話した。
思っていたよりも話が弾んで、いい意味で「対等に」たくさんの人と話せたように思う。
前にも書いたけれど、学生と社会人との間に何か人間的に大きな違いがあるのかというと、そんなことはまったくない。どちらも、楽しい時には笑い、悲しい時には悲しむ、一人の人間である。
だが、就職活動という場は、時として社会人をスーパーマンに仕立て上げてしまう。
ともすれば内定者ですら、「一流の」企業の関係者、未来の社員という目で見られ、就活のイベントでは崇めたてまつられる。
僕は、就職活動のこういった「選民意識」のようなものが、本当に嫌だった。
どこに所属していようと、どんな肩書きを持っていようと、人と人とは対等だ。
仮に僕の勤めている企業にあなたが行きたいと思っているとしても、僕が話すことは王の勅命ではないし、呪術師のお告げでもない。
目を必要以上にキラキラさせて、「そうなんですか~」などと言ってもらわなくていいのだ。
そういう「社会人の無意味なスーパーマン化」を、今日は感じなかった。一人ひとりと、短い時間ではあるが、とても良い対話ができたと思う。
逆に学生(という言葉が便利なので使う)視点で見れば、面接でもOB訪問でも「今話している相手も一人の人間なんだ、対等の立場なんだ」ということを感じながらできているのなら、就職活動はうまくいくと思う。
あくまで僕個人の評価の基準だが、自分の内をさらけ出さない人は信用できない。いくら僕の話に相槌を打って感じ入るふりをしていても、自分の話ができない人はダメだ。
小さくてもいいから自分なりの哲学を持ち、それでいて狷介固陋に陥らず、周りとうまくやっていくことができる。そういう人が、自然と自分の進みたい道を選び取れるように思う。