Rail or Fly

レールに乗るのか、飛び降りるのか、迷っているきみに届けたい。

英語を含めた語学ができるようになるための、たった一つの方法。

いきなり身も蓋もない結論を書くが、語学ができるようになりたければ、「その言語が話せなければ死ぬかもしれない」という状況をつくればよい。

 

 

 

例えばヒンディー語。

 

このブログであまりおおっぴらに書いたことはないが、 僕はインドにいた時、スラムのアパートにインド人8人だか9人だかと暮らしていた。

 

もちろん、僕のアパートを含めて周囲に東洋人は皆無だ。

 

インターン先の上司(もちろんインド人)は上流階級の出身で、 僕の住まいが見たいと言うので連れて行ったところ、 「お前、こんなところに住んでいるのか!?」と呆れられたものだ。

 

どれだけヤバいかというと、こんな感じだった。

 

・シャワーから水しか出ず、それも2日に1度断水する。

 

・夜中にトイレに行くと、便器の中でネズミが溺れている。

 

・雨が降るたびに雨漏りして床が水浸しになる。

 

・ノートパソコンを開くと時々ゴキブリが飛び出してくる。

 

・南京虫が大量にいる。

 

・水道水はもちろん、浄水器を通した水ですらお腹を壊す(らしい。というのは僕は幸運にも問題なかったので)。

 

・隣のベッドのインド人(45)は常にルンギと呼ばれるデカパン一丁で過ごしていて、生タマネギと生ニンジンしか食べない。

 

・隣の隣のベッドのインド人(23)は毎日21時になると腕立て伏せを始める。

  

また、同じ部屋にいたインド人たちこそ、英語がわかる大卒者だったものの、 家賃の集金人や近所の雑貨屋のオヤジ、 いつも挨拶するアパートのガードマンや病気になった時にお世話になった町医者、 出勤途中に立ち寄るチャイ屋や格安レストランのレジを守るターバンを巻いたじいちゃんなど、 身の回りのインド人たちのほとんどが、英語を理解しなかった。

 

だから僕は、ヒンディー語を勉強した。

 

トラブルに巻き込まれて死なないように。

 

何かあった時に、周りのインド人たちに自分を助けてもらうために。

 

実際、道を歩いていて子どもに水でっぽうをかけられたり、リキシャ(三輪タクシー)にぼったくられそうになったり、謎の理由で警察官に交番に連れていかれそうになったりしたが、ヒンディー語が話せたおかげで、いつもなめられずに済んでいた。

 

そのうちに、「あそこに住んでいるジャパニ(日本人)はヒンディー語がわかるらしいぞ」という噂が立って、近所の人の僕を見る目が明らかに優しくなった。

 

言葉がわかるのは、強い武器なのである。

 

 

 

 

例えば英語。

 

僕のインターン先の会社は、ほぼインド人しかいない会社だった。海外からの駐在員を相手にビジネスをしている会社で、不動産仲介やレンタカーの手配、ビザの手続き代行、その他諸々やってる便利屋さんのようなところだった。

 

僕は日本人なので、日本人顧客を担当することになる。インド人である上司や同僚と、日本人顧客との橋渡し役だ。

 

これは自分も日本人だからよくわかるのだが、 日本人は、突発性のトラブルに対する耐性が高くない。 不動産を紹介した後、家具の搬入が遅れるという事態が発生した場合には、「どうしてそんなことになるのか」を徹底的に追及しなければ気が済まない。

 

しかし、インド人はトラブルの理由をきちんと述べることに慣れていない。

 

ただでさえ説明を適当にすませようとする彼らの早口な英語を聞き流してしまうと、 もはや顧客には何の説明もできなくなってしまう。

 

「なぜ顧客はこのトラブルに激怒しているのか」 「その説明のどこが不十分なのか」 そういったことを粘り強く説明すると、インド人たちも理解してくれる。 そのためには、英語力が必要不可欠だ。

 

だから、英語を勉強するしかない。

 

 

 

「なぜ時間通りにいかないんだ!」と顧客から突き上げられ、「なぜ日本人はこうもトラブルについてうるさいんだ!」と上司からやつあたりされる。僕はそんな板挟みのなかでもがき、苦しんだ。死にものぐるいで、解決策を考えた。

 

とにかく、顧客にはトラブルの原因を説明するようにした。インド人が何かそれらしいことを話していても、自分の中で「ん?」と思う箇所があればすかさず聞き返した。インド人同士が仲間うちでヒンディー語で会話している時も耳をそばだてて、悪いことが起こっていないかチェックした。

 

そうやっているうちに、あれほど聴き取れなかったインド英語がわかるようになり、電話でやり取りするのもできるようになり、ヒンディー語も上達した。

 

死にそうな目に遭えば、語学は勝手に伸びる。

 

自分の能力不足のせいで大切なお客さんを怒らせてしまい、 挙句の果てに二度と自社のサービスを利用してもらえなくなる。上司からは「お前の説明が悪いから顧客の心証を損ねた」と言われる。

 

 

それが嫌なら、勉強するしかない。

 

自分を守るために。やり返してやるために。

 

 

 

 

 

英語ができなければ、新興国の波に飲み込まれ、底辺の生活をする羽目になってしまう…。最近は、そんなふうに怯える人も多いように感じる。

 

別にいいんじゃないだろうか?

 

乱暴な言い方かもしれないが、それは要するに「死にそうな事態に直面する」ってことだ。

 

その時になったら、たぶんあなたは覚醒する。

 

それが嫌なら、今、死にそうな目に遭ってくればよいのだ。

 

僕がそうであったように、絶対にその言語を習得できる。そして、そうやって死に物狂いで覚えた言語は、まず忘れない。

 

 

 

極論ではあるが、「語学を習得したければ、死にそうな目に遭えばよい」というのは、一つの真理である。

グローバル化の時代、英語さえできれば必ず生き残れる理由

以前「英語を話せても代替不可能な人間になんてなれやしないんですよ」 という記事を書いた。

要するに、英語英語と騒ぎ立てても、適性や英語以外の力がなければ、何者にもなれないんですよ、という話だった。

今日は、この記事に一見矛盾するようなことを書こうと思う。つまり、「英語だけ勉強しておけば人生どうにでもなりますよ」という話だ。

しかし、読み進めるうちに、決して矛盾することを書いているのではないことがわかると思う。

どうかお付き合い願いたい。



唐突で下世話な話であるが、インドの企業でインターンしている大学生の僕の給料は、月17500ルピー(昼食代等の手当て込み)。これに交通費を加えて、だいたい月19000ルピーくらいもらっている。2012年6月13日現在、19000ルピーは日本円にして約27000円だ。

(僕の会社は、主に日本人駐在員の方のお世話をしている。レンタカーとか、航空券の手配とか、ビザ手続きの代行とか、アパートの紹介とか、まあそういった「何でも屋」的なサービス業だ。)

これはインド人の平均月給よりもわずかに高いくらいの額である。(参考:世界各国の平均月収

日本人からしてみたら、月27000円の給料などありえない。しかし、インドの物価の安さから考えれば、これは生きていくのに十分な給料だ。清潔とはいえない部屋をインド人たちとルームシェアするのはややハードルが高いかもしれないけど、毎日三食きちんと取り、たまに友人と遊びに出かけても、毎月8000ルピー程度の貯金ができる。

また、僕はあくまで「インターン生」という扱いであり、会社からのお誘いを受けて正社員になるなら、おそらく新卒でも上記の給料+5000ルピーほどが基本給としてもらえることになるだろう。また、だいたいだけど毎年昇給が10000ルピーほどある。

つまり、僕がもしインドで働くなら、大学を卒業してすらいないのに、すでにインド人の平均よりも高い給料を将来にわたってもらえることが半ば約束されているのだ。そしてその給料の額は、インドの発展が続く限り上昇し続けるだろう。

なぜだろう?

僕は別に凄腕のプログラマーでもなければ、法律の専門家でもない。理学部の生物科学系という、世間的には何の役に立たない学部に所属している(しかもその勉強すら今まできちんとやったとは言い難い)。嫌な言い方だが、インドでは日本の大学の序列も関係ない。ただ、英語が少しばかりできて、僕にできることと言えば、それだけなのだ。

僕より英語が上手いインド人はたくさんいる。インドでは、基本的には大卒であれば英語は普通に話せると考えていい。同僚も、僕より英語が上手い。それでも、もらえる給料は僕とほとんど変わらない。だから、英語の能力が大きな要因になっているわけではない。

いったいなぜ、何のとりえもない僕に、会社は平均以上の待遇を用意してくれるのだろうか?



ここまで読んでくれた方は、もうお気付きかもしれない。

会社は、僕が「日本人である」というその一点に、お金を払ってくれているのだ。

日本語ネイティブであり、日本人の気持ちをよく理解できるという点を買って、僕に給料を払ってくれているのだ。

そしてそれは、僕が「とりあえず英語を理解できる」からに他ならない。

つまり、「日本人であること」。そして、「英語がまあまあできること」。この2つが組み合わさると、インドでとりあえずそこそこの暮らしができる程度には、生きていくことができる。

重要なのは、ここだ。

おそらくこの記事をここまで読んでいる人のほとんどは日本で生まれ日本で育った日本人だろうから、英語さえそこそこできるようになっておけば、明日会社が倒産したとしても、インドに来れば、死にはしない。(社会的地位を失った、とか、愛想を尽かされて離婚された、とかで、自殺してしまうというのは除く。)

僕は以前の記事で「英語以外に『伝えたい内容』がなければ、いくら英語ができてもまったく役に立たない」と書いた。

「日本人であること」は、その『伝えたい内容』に、十二分になりうる。

「家具は10日に届くって言ってたけど、別に11日でもいいよね?テヘ☆」なんて言ってくるインド人に、「てめえふざけんな、前送ったメールに10日って書いてたよな?自分の目で確認してみやがれ!」って添付ファイル付きのメールを送りつけるのは、日本人にしかできない。

「ボス、掃除終わったよ!こんなもんでいいだろ?」と得意満面の顔で知らせてくるインド人に、「てめえ、日本人が住むのにこんな適当な掃除でいいわけねーだろ!?やり直し!」と非情にも宣告するのは、日本人にしかできない。

「引っ越しの時に必要な警察署での登録手続きなんだけど、明日の昼1時に待ち合わせでいいよね?」と前日の夜に電話してくるインド人に、「顧客はおめーらみたいに暇じゃないんだよ!!!3日前に知らせろって言ったよね…?」とキレるのは、日本人にしかできない。

それが僕の「日本人としての」価値だ。そして、これは特に僕だけが持つ特性ではなく、日本人として生まれ育ってきた環境の中で自然と身に付いた「日本人としての」常識である。日本人ならほとんど誰でも納得できる符丁のようなものだ。

(一応書いておくと、僕自身は別に多少部屋が汚くても、スケジュールが突然変わっても、気にはしない。だけどこれは仕事なのだ。自分の「日本人」という価値を、存分に生かさなくてはいけない場なのだ。)

この記事を読んでいる誰もが、「日本人である」という価値を持っているのだ。



英語を話すことができれば、自身が持つその「日本人である」という価値を伝えられるようになる。

だから僕は、この記事の題に「英語さえできればいい」と書いた。

もう一つ、僕が見たありのままを書くと、日系企業は他の国から進出してきた企業に比べ、英語が弱い。英語が話せない方もいる。僕はフランスやイスラエルなど他の国の企業のムンバイ支社とのミーティングにも同席させてもらったことがあるけれど、英語ができないというのはそれらの国ではありえない。

僕はここで、「本当に日本の英語教育はダメだ」とか、「社内英語化も徹底できない日本企業はダメだ」とか、そういった批判を行いたいわけではない。

日本という国は、第二次世界大戦でこてんぱんに叩きのめされたところから奇跡的に復活する過程で、英語を必要としなかった。他の国から材料をもらって、自国内で一流の製品を作るのに、英語は要らない。国家的に英語がダメダメなのは、過去うまくいったしっぺ返しなのだ。

だからこそ、日本人でかつ英語ができることが、これほどまでに価値を持つのである。

たとえば僕がインド人だったとしよう。僕がアメリカに行き、インド企業のアメリカ法人向けのサービスを展開するとしよう。

アメリカ法人で働いているレベルのインド人は、おそらく英語を話せる。だから、インド人の僕のアドバンテージはそれほどなくて、英語ができる人間なら誰でも営業をかけることができるだろう。

実際、僕の働いている会社は、日本だけでなく世界各国の企業のインド法人をターゲットにしているが、それらのインド法人に営業をかけているのは、日系企業を除けば、僕の会社のインド人スタッフである。

日本人が英語を苦手としていること、その事実を、逆に自分にとってのメリットと考えるのである。



上記のことをまとめると、日本人であり英語がそこそこできるというのは、「日本人の気持ちを理解して、それをサービス提供者側に伝えることができる」ということにつながる。

これは、最初のうちこそ単なるカスタマーセンターみたいな仕事を任されるかもしれない。ちょうど僕が、日本人の顧客とのメールや電話でのやり取りを任されているように。

だけど、営業職の人が自分の売る商品やサービスを徹底的に知っていなければならないのと同じように、顧客とのコミュニケーション役であっても、働くうちに自社の製品やオペレーションについて知らざるを得なくなってくる。最終的には、何かしらの専門的なバックグラウンドを持つに至るだろう。

たとえば、現地の不動産仲介サービスについて、顧客から何か聞かれることがあったとする。「どの地域の家賃が安いか」「日本人が多く住んでいるアパートはあるか」「毎月家賃はどうやって支払えばいいのか」etc…。最初のうちは、上司や同僚に聞いて対応することになるだろうけど、次第にそういった知識が蓄積されて、誰かに聞かなくても自分で回答できるようになる。

あるいは、会社が利用している地場の不動産業者と仲良くなって、いろんな情報を教えてもらえるようになるかもしれない。あそこの家主はテナントの要望に敏感だ、あの地域が最近よく売れている・・・。

そういった「地域に密着した不動産の知識」「オペレーションの仕組み」「人的ネットワーク」が、仕事をするうちに身に付いてくる。極端に言えば、5年後10年後、不動産業界のノウハウを知って、独立して「日本人専門のブローカー」としてやっていくことも、不可能ではない。

最初は「自分が日本人であること」それだけを取りえに働いていたのが、次第に専門知識を身に付けていくことができる。「日本人であること」だけではなく、他の「武器」が身に付いていくのだ。

僕が今働いている企業でインターンをしようと決めたのは、別に将来不動産業界で働きたかったからではない。そもそも、大したスキルも持っていないうちから、自分が将来やりたいことを任せてもらえると考えるのは大間違いだ。インターン先企業を選ぶのに、そんな上から目線でいては、雇ってくれるところなどありはしない。まず、自分が今できる最善を尽くして、初めて希望する仕事が回ってくるのだ。



やれ中国人やインド人との戦いだ、やれ国産メーカーが大幅なリストラだ…。僕らの未来は、萎びて縮んでいく一方のように見える。天に向かって力強く伸びるインドのそれとは大きく違って。

ただそれは日本という国単位で見た話であって、干からびる草木や朽ちてゆく大木の周囲には、いくつもの青々とした蔓が顔をのぞかせている。

朽ち落ちるかつての大きな樹から脱しその蔓を掴めるかどうかは、あなた自身のこれからにかかっている。

英語さえできるようになっておけば、そして以前「鈍さを武器と捉えてみる」 で書いたような柔軟性さえ失わなければ、これから何が起ころうとも、日本人がいる限り、僕らは生き残っていけるはずだ。

会計士にも、プログラマーにも、法律家にも、クオンツ部隊にも、マーケッターにも、なる必要がない。

「日本人であること」は、日本にいてはなかなか気付けない、大変価値のある武器なのだということを、僕たちはもっと理解するべきだと思う。



余談だが、僕が書いていることは、渡邊正裕氏が「無国籍ジャングル」「重力の世界」「グローカル」「ジャパンプレミアム」と呼んだ4つの世界のうち、ちょうど「ジャパンプレミアム」にあたる部分である。(参照:10年後に食える仕事

興味がある方は、以下の本を読んでみることを勧めます。

10年後に食える仕事、食えない仕事

10年後に食える仕事、食えない仕事

英語を話せても代替不可能な人間になんてなれやしないんですよ

今日は英語について書いてみようと思う。



インドに来て半年が経った。日々の業務での同僚・上司とのやり取りはすべて英語のため、必然的に僕の英語能力は向上していると思う。

試験を受けていないからなんともいえないんだけど、主観的なエピソードでいいなら変化は以下こんな感じ。

  • 話す:英文を頭の中で組み立ててから話すのではなく、話したいとなんとなく思ってることがそのまま言えるようになった
  • 聴く:相手の言ってることを、タイムラグなく英語のまま理解できるようになった
  • 書く:10行程度までのビジネスメールなら上司に書きなおされることがほとんどなくなった
  • 読む:読むスピードと理解度が以前の2倍くらいに、知らない単語の出現率が半分くらいになった

    ちなみに僕のもともとの英語力だが、TOEICを指標とするならばインドに来る直前のスコアが820だった。820っていうスコアが高いのか低いのかは人によるけど、少なくともインドに来てすぐの頃の自分は、ろくに英語を使えていなかったと思う。

    僕の上司のインド人は、「君と初めて会った時には、『なんと英語のできないインターン生が来たもんだ』って絶望したけど、今は歴代のインターン生とくらべても一番うまいんじゃない?」と言っている。…うん、まあ、リップサービスかもしれないけど。

    とにかく、英語については僕はかなりできるようになった。

    英語圏に長期滞在しなくても英語が身に付く!」みたいな話があるけど、僕はむしろ「長期滞在くらいで英語が身に付くならやればいいんじゃない?」って思う。いろんな世界を見ながら、勉強や仕事をしながら英語の能力を上げられるなんて、めっちゃいいじゃないって思う。



    …と、ここまであたかも「英語力」なるものが最初から存在しているかのように僕はふるまってきたけど、本当はまず考えなきゃいけないことがある。

    英語力ってなんですか?

    簡単だ。英語を読めて書けて聴けて話せて…それが一通りできれば、英語力はあると言っていいんじゃないか。

    うん、そうだね。じゃあ、英語力はなんのために鍛えなきゃいけないんですかね?

    それも簡単。もはや陳腐すぎて口に出すのに嫌悪感すら感じられる「グローバル化」という現象の中で生き残るために、英語は必須だからだ。代替可能、コモディティな人間になってはいけないのだ。

    なるほど。確かに英語を話せたら、西暦2026年の日本で、こんな感じに何の希望もなく暮らすはめに陥ることはないかもしれない。

    しかし、「とにかく英語やっときゃいいよね」と安易に英語ばかり勉強していても、何者にもなれずに人生が終わってしまうのではないだろうか。僕はそんな恐れを抱いている。



    「英語を勉強する」ということについて安易に考えてはいけないと言う理由は二つある。

    一つは、日本人がもともと英語学習を苦手としているから。

    もう一つは、英語は何かを「伝える」ための力だから。



    1、日本人がもともと英語学習を苦手としていること。

    この英語話者に対する言語習得難易度表の記事にあるように、アメリカのかなり優秀な人たちにとっても日本語は他の言語に比べてなお難攻不落の言語だとされているが、ごく単純に立場を逆転させてみれば、僕ら日本人にとっても英語を学習することはかなりしんどいことだと理解できるだろう。

    これは僕がインドに来て感じたことであるが、幼少期を英語圏で過ごしたのでもない限り、日本人が英語をネイティブなみにできるようになるには、途方もない努力が必要である。

    たとえばインド人たちと会話していると、彼らは自分の言いたいことをぺらぺらと話す。僕はそれに対して答えるのだが、明らかに言葉の出が遅いし、また言いたいことのうち80%くらいしか表現できていないと感じる。

    つまり日本人は、英語を勉強するのには向いていないのだ。パワプロで言えばサクセスの初期状態で特殊能力にセンス×がついているようなものだ。そこから英語の能力を一定以上高めるには、かなりの努力が必要なのだ。

    アジア圏を中心として、すでに英語を身に付けた安い労働力がわんさか渦巻いている。インドでは安い人件費で英語を話せる人間が雇えたため欧米企業のコールセンターが作られ、それが経済成長の一因となってきた(インドでも人件費が高くなったというので、コールセンターは次第に撤退しているらしいけど)。そういう人たちに、あなたは日本人に不向きな英語を勉強して英語の能力で勝てるんですか?っていう話になる。

    なおこのあたりの世界の状況を知るには、鉄板だけど以下の本がおすすめだ。

    フラット化する世界 [増補改訂版] (上)

    フラット化する世界 [増補改訂版] (上)

    フラット化する世界 [増補改訂版] (下)

    フラット化する世界 [増補改訂版] (下)



    2、英語は何かを伝えるための力だということ。

    たとえば僕のインターンでの業務内容を挙げてみよう。

    何度か記事で書いてもいるが、僕のインターン先のインド企業は、日系企業の駐在員の方を中心に、不動産を仲介したり、車を貸したり、ビザの手続きを代行したりといったサービスを提供している。

    特に僕がよく関わっているのが不動産仲介のサービスである。

    インドの不動産の仕組みはなかなか複雑かつunbelieavableで、日本の常識では考えられないようなことが平気で起こる。たとえば家主がいったんこれこれの家賃で家具付きのアパートを貸しますよと言ったくせに、後になってやっぱり家具は揃えられない、揃えてほしいならもっと家賃を出せ、などと言ってきたりする。

    そういったイレギュラーな事態に、僕は家主と渡り合って元のさやにおさめるという芸当ができない。まさに、英語ができても、英語を使って伝えられるだけの何か(ここでは交渉術とでも言おうか)がなければどうにもならないことの好例だ。

    通訳や翻訳家といった英語のプロ中のプロを目指すのでもない限り、英語力「だけ」を鍛えても、あなたは何者にもなれやしないだろう。そしてそういったプロ職を目指すには、気の遠くなるくらいの努力が必要だ。

    「英語力」を測るための試験は日本では豊富に用意されていて、あたかも英語力はそれだけで一つの独立した能力のように思える。だけど、英語力というのは何かを「伝える」ための力なのだ。その何かがなければ、いくら英語を鍛えても何にもならない。めちゃくちゃ歌が下手な人が、めちゃくちゃ性能の良いマイクを使ってもどうしようもないのと同じように。



    と上で述べたように、英語だけ勉強してもグローバル化する世界の中で生き残るどころか、アジアの活気ある若者たちにすら負ける可能性は高い。

    もはや日本人が日本人というだけでリッチな生活を謳歌できる時代は終わった。それは多くの人が言っていることだけれど、インドに来て改めて実感している。そして、英語だけ生半可に鍛えたところで、たぶん何にもなりはしないのだろうなということも。

    じゃあどうすりゃいいんだ、っていうことだけど。僕がそれに今答えられるのであれば、こんなボロいフラットでゴキブリやネズミと一緒に暮らしたりしていない。だけど、方向性はなんとなく見えている。

    自分のやるべきこと、やりたいことに英語はどれくらい必要なのかを考え、その必要量に応じて英語を勉強する傍ら、自分が武器とするものを同時並行でしっかり磨いておくことだ。



    たとえば僕は将来、外国の人たちと対談ができたらいいなぁなんて考えている。

    僕がさし飲み対談と称していろんな人たちとお酒を飲みながら話をしてきたことはすでにどこかの記事で書いたけれども、それを外国人ともやってみようということだ。

    ただしそれには、現状の英語力をもっとパワーアップさせる必要がある。

    もちろん今の段階でも「あなたの好きなことは何ですか?」とか、「あなたの夢を教えてください」って聞くことはできる。ただ、それはただのインタビューだ。対談っていうのはインタビューと違う「生きた会話」なのだ。何時間というまとまった時間の中で相手とさまざまなことを話しているうちに不意に立ち現われてくる相手の像みたいなものがあって、そこに向かって目いっぱい具体的な質問を投じる。タイミングと想像力がめちゃくちゃ重要になってくるのだ。細切れになったテンプレの質問では、相手の価値観を深くまで掘り下げることはできない。

    なんだろう、すごく直感的に言えば、ピッチャーが何度もきわどいコースをついてバッターの体勢を崩しておいて、最後にど真ん中のストレートで勝負する、みたいな感じだろうか。(野球の比喩がよく出てくるかもしれないけど、実は元野球部なので勘弁してください。)

    対談について語るとそれだけで記事が書けちゃうのでこのへんにしておくけれども、とにかく僕の場合、「外国人との対談」のために「より高い英語力」が必要になる、ってことだ。

    自分のやりたいことは何かを考えるのはすごく難しいけれども、以前「違うタイプの人に、価値観まで破壊される必要はない」でも書いたように、とにかく興味を持ったことに取り組んでみることだ。必ず、なんらかの手掛かりが見つかるから。



    次に英語以外に武器とするものの話。

    さっきインドの不動産がいかに不条理かっていう例を出したけれど、僕にもっと知識と経験があれば、あの手この手で家主を言いくるめ、彼を納得させることができるだろう。たとえば「この借主は大企業の駐在員だから、彼がインドを去った後も別の借主が見込めるよ」と家主の欲求をくすぐってやるとか、「急に意見を変えるなんてルール違反だろう。もうお前にはビジネスを紹介しないぞ」と脅すとか、いろんな手が考えられる。

    それは、英語とは直接関係のない力だ。だけどそういう「不動産業界での知識と経験をひっくるめた交渉術」みたいなものがあれば、英語ができるだけでなく、他に代替するのが難しい人間として、世界で戦っていける。

    「英語を勉強しなくちゃ」っていう気持ちはよくわかるけれども、英語よりも先に、自分の武器を決めておかなくちゃならないんじゃないかっていう話だ。

    どんなものを武器にしたらいいかを考えるとなかなか難しいけれども、ヒントになりそうな本を挙げておく。

    ハイ・コンセプト「新しいこと」を考え出す人の時代

    ハイ・コンセプト「新しいこと」を考え出す人の時代

    この本は大前研一氏によって翻訳がなされていて、著者は他にも有名な本を出しているダニエル・ピンク。著者は、これからの時代には左脳だけでなく右脳を鍛えることが重要だとし、デザイン、物語、全体の調和、共感、遊び心、生きがいが大切になってくると説く。詳しいことは読んでみてください。

    ちなみに、左脳によって司られているものの代表が、言語。ここからも、英語だけを鍛えることはナンセンスだということがわかるだろう。左脳によってできることは、機械で代替できることが多い。極端なことを言えば、完璧な自動通訳機がいまにもできるかもしれないのだ。英語を勉強する加減は、きちんと考えなければいけないだろう。

    同じようなことが、この本でも述べられている。

    思考の整理学 (ちくま文庫)

    思考の整理学 (ちくま文庫)

    グライダー人間ではなく自ら飛翔できる飛行機人間に、なりたいところである。この本は軽いので、すぐに読めるだろう。

    また、最近話題になった本としては、僕も以前講義を受けた京大の瀧本哲史氏による以下の本がある。コモディティ(代替可能)とならないためにはどうすればよいのか、それについて書いた本である。

    僕は君たちに武器を配りたい

    僕は君たちに武器を配りたい

    どれも定評のある本で個人的に間違いないと思われるので、おすすめである。



    ちなみに、最終的にはやりたいことと武器っていうのが一緒になってくるのが理想だと思っている。

    僕だったら、他の誰にも真似できないようなおもしろい話を引き出せる人間になる、とか。

    結局のところ、代替不可能な人間になるっていうのは、自分というブランドだけでメシを食っていけるということだ。たとえばスカイプで相談に乗る代わりにお金もらいますよっていうことをやっている人もいる。これなんか、このelm200氏だからこそ相談するっていう人がいるわけで、誰にも彼の代わりはできない。素晴らしいと思う。

    「自分だから」お金を出してモノやサービスを買ってくれる人がいる。そんな人になることが、これからの世界における究極的な目標になるだろう。



    グローバル化だ、全世界との競争だと浮足立つのはまだしも、就活で勝ち残るためにTOEICを勉強するなどというのは、近視眼的はなはだしい。もっと遠く、広く、そしてすぐそばにある自分というものの特性を考慮しつつ、何をなすべきかを考えていきたい。





    関連(?)記事:

    グローバル化の時代、英語さえできれば必ず生き残れる理由