天井に吊るされた扇風機が、夕暮れ時のぬるい空気をゆっくりとかき混ぜる。
僕の隣のベッドで、冷蔵庫のない台所で調理したベジタリアンカレーをおかずに、インド人のルームメイトがチャパティ(インドの庶民的パンの一種)をほおばっている。お腹いっぱいになるのに、50円もかからない夕食だ。
開けた窓から、時折強い風が吹いてくる。風に乗って、どこか遠くで行われているお祭りの音が聞こえる。
僕らは、毎月毎月一日違わず集金に来るくせに冷蔵庫やテレビを購入してくれない強欲な家主の文句を言って盛り上がる。
「あいつ、今月は一日早くやって来たから追い返してやったよ。下手したら真夜中でも構わず起こしに来るもんな」
「まーでも、ここの家賃はまだ安いから、今は我慢してやるよ。一生懸命働いて、大金持ちになって田舎に帰るんだ」
彼は24歳のコンピュータプログラマーで、月に約5万円を稼ぐ。平均月給が約3万円のムンバイにおいては、すでに成功者と言える部類に入る。(参考資料:世界各国の平均年収)
「俺の田舎なら、このレベルのアパートの家賃は半分もしないんだけどな」
彼はそう言って、開けた窓から遠くを眺める。自分の故郷を懐かしむかのように。
ここムンバイは、インド中から富を夢見て若者たちが集う場所だ。
地価も高いが、給料も高い。聞いた話では、ムンバイで得られる月給は平均してインドの他の地域より1万円ほど高いとも言う。また、大卒で英語が話せる者であれば、毎年月給がだいたい1万円ほど上がっていく。ピンとこないかもしれないけど、僕の感覚で物価はだいたい日本の10分の1だから、毎年120万円の昇給があるようなものだ。
この場所で僕が出会ったインド人たちの典型的な将来像は、上のエピソードで書いたようなものだ。自国の揺るぎない経済成長をテコに、とにかく働いて稼いで幸せになるという物語。
強烈なデジャヴュに襲われる。
いつか来た道。僕は歩いたことはないけれども、誰かが昔歩いていたのだと、社会の教科書に載っていた。
「高度経済成長期」という時代。
僕は平成元年に生まれたから、高度経済成長どころかバブルすら記憶にない。
だけど、知らないなりにその頃の日本と今のインドがダブって見える。
昔、父親の部屋に転がっていた「三丁目の夕日」という漫画をぱらぱらとめくった時、僕は実際にはその時代を知らないはずなのに、なんとも言えない郷愁で心がいっぱいになったことを覚えている。
幸せだったんだ。みんなでがんばって幸せになるって、信じていられた時代だったんだ。思い出は美化されるものだけど、きっとその幸せな時代は、確かにあったんだろう。
そう、「大きな物語」が存在していた時代だったのだと思う。
インドの人たちは幸せそうに見える。こう書くと、「新興国や発展途上国の人は貧しくても心が幸せで、日本人は裕福でも不幸なのだ」というありがちな感傷だろうと捉えられるかもしれないけど、そうではない。
この記事では、日本とインドにおける、同じくらいの年齢の若者たちの生き方と考え方を比べることで、少なくとも「その世代の」幸福度、人生への納得度について比較をしてみたい。定量的なデータがあるわけではないからどうしてもエピソード中心の論になるけど、そこはご了承いただきたい。
僕は日本にいた頃、およそ80人の大学生たちと「さし飲み」をした。さし飲みというのは、二人でお酒を飲みつつあれやこれやと話をすることだ。
僕が所属する大学の学生だけでなく、いろんな大学の学生と話をさせてもらった。僕が所属するサークルの人たち、学部のクラスメート、中高の友人、インターンをともに経験した友人、アルバイト先の人たち、就職活動で出会った人たち、SNSを通して出会った人たちなど、それぞれの学生が所属するカテゴリーは全然違っていたから、僕が話をした大学生たちには、「大学生である」という偏りはあるにせよ、ある程度サンプルとしての分散が認められる。
その多くが抱いている悩みがある。自分は将来何がやりたいのか、自分にとってどう生きるのがよいのか、わからないという悩みだ。
以下、とある農学部生との対談。
将来を考えるのは難しいですね。 見えてきてるようで、見えてきてないようで。(やりたいことは何かという問いに対して)研究者かなぁ。(中略)いろいろ目移りしながら、 「あれもかっこいいな、これもかっこいいな」って思ってしまう。 そういう現状ですね。
(やりたいことを思うままにやりきる異端児にはならないのかという問いに対して)異端児になったらなったでそれを誇りに思う自分もいると思うんですけど、 どこかでみんなと違っていたいと思う一方で、 どこかでみんなと一緒でありたいと思う気持ちもあるんです。
(People Interest「僕らのガチ飲み」より)
日本では、新卒一括採用という制度のもと、学部で学ぶことと就職先が一致しないケースは非常に多い。この自由さは他の国から見ればとてもうらやましいことなのかもしれないけど、当人たちにとっては悩みの種ですらある。以下はインドでインターンをしていた、とある法学部生の話だ。
日本の教育システムだと、(大学に)入るのに必要な知識と入ってからの勉強がマッチしてないし、さらにそれらの知識は就職先とも関係ない。 まぁ、だからこそ新卒採用ってのがあるんだろうけど。僕ら日本の学生は、他の国と違って自由に(就職先を)選べるんやからね。 それがどれだけ変なことか。
(People Interest「僕らのガチ飲み」より)
大学で学ぶことと就職先とが接続されていないから、つまりは将来の可能性が限定されていないから、「自分が将来やりたいことは何なのか?」ということについて悶々と悩み続けるという問題が生じるのだ。
可能性の扉が広く開け放たれているのは、決して悪いことではないけれども、人がいつかは一つの道を選ばなければならない以上、難儀なことでもある。
なお、そんな日本の大学生がアイデンティティを確立していく舞台となるのが就職活動であるということを鋭く指摘したのが、「就活エリートの迷走」という本である。この記事では詳しくは触れないけれども、「就職活動を完璧に乗りきってやる!」という意気込んでいる人に、ぜひ読んでみてほしい。皮肉ではなく、自分がこれから経験することが、メタな視点から理解できると思うから。
- 作者: 豊田義博
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さて僕は、ここインドでもルームメイトたちといくつか対談を重ねた。冒頭に書いた隣のベッドに寝る彼は、僕がこのアパートに住み始めてから3人目の隣人だ。なかなか入れ替わりの激しいアパートなのである。
冒頭で紹介したような「一生懸命お金を稼いで、お金持ちになって暮らす」という価値観は、彼らの中に深く根をおろしている。
実は彼らは大学入学の時点で、すでに「どの学部を出れば一番稼げる職業に就けるのか」ということを考えている。インドで一番稼げる職業はやはり「医者」や「弁護士」、それから「プログラマー」も人気の職業だという。
たとえばジュベルというルームメイトと対談した時、僕が「その学部(コンピュータサイエンス)を選んだきっかけってあったの?」と聞くと、「決まってるだろ、お金を稼げる仕事に就くためだよ」と、さも当たり前のように言われたものだ。
僕にとって、それは衝撃だった。
日本では、「幸せって何ですか?」という問いの答えは千差万別だ。趣味を一生やり続けることができれば幸せだっていう人もいるし、仕事を通して自分のやりたいことができれば幸せだっていう人もいるし、一握りの気の合う人たちとずっと楽しく過ごせたら幸せだっていう答えも、温かい家庭を持つことが幸せだっていう答えも、世界を変えるような何かを成し遂げるのが幸せだっていう答えもありだろう。
「偏差値の高い大学に、そしてゆくゆくは大企業に入り、家庭を持って老後はのんびり暮らす」という価値観は、20年くらい前まではロールモデルとしてあったと思うけど、僕がいろんな大学生と対談して感じたのは、少なくともそういうモデルを「世間の当たり前」として捉えている学生はもういないんじゃないかということ。(自分の個人的なモデルと見なしている人はいる。)
しかしインドでは、「お金を稼げば幸せになれる」という価値観は「世間の当たり前」として機能している。ジュベルを始めとする僕のルームメイトたちからそういう話を聞くことはよくあるし、インターンとしてインドの企業で働く中でも、それを実感することがある。
求人広告を見て僕の企業の面接を受けに来るインド人たちは、決まって「前の企業の待遇が不満だったから」と言い、「これだけの給料を寄こせ」と言い張る。面接を担当する僕の上司が「いや、それはちょっと…」と言うと、さっさと帰っていく。次はいくらでもあるのだ。「なかなか仕事の内容自体に興味を持ってくれる人がいないからなぁ」と上司は嘆いている。
もちろんインド人の中にも、お金という判断基準とは無縁で、自分のやりたいことをやる、という人はいるだろう。ただそういった強い気持ちが自分の中になかった場合、世間一般で承認されている価値観があれば、それに沿って生きていけばいいやと割り切れる。
自分が生涯賭けて何かをやりたいと思えるかどうかっていうのは、親の教育とか環境とか出会うモノやヒトに大きく影響されるもので、割と自分ではどうにもできない部分がある。(僕は個人的に、運だと言ってもいいと思う。)
インド人たちは「自己実現」を追いかけるということはしない。手に入らないなら、それとは違う割り切り方で生きていくだけ。
人間は、生き方に指針が必要なんだろうなぁ。そんなことを、日本とインドの若者を比べながら思う。
その指針を、どこから見出すかの違いだけ。
何も指針がない場所に放り出されて「さあ決めろ」って言われるのは、とてもしんどいことだ。ついつい後回しにしてしまう。そして、いつの間にか「今さら生き方なんて考えても手遅れじゃない?」って思ってしまうような年齢になっている。
僕はインターンの仕事上、30〜50歳くらいの日本人の駐在員の方々とお話しすることが時々ある。「今の若者は大変だよね。僕らの入社の時なんて、何も考えてなかったからさ」とおっしゃる方は多い。謙遜されていることを割り引いても、きっとある程度は本当のことなんだと思う。
でも、僕らは時を遡って生まれ変わることはできない。
この時代の日本に生まれた以上、誰かが「幸せのテンプレート」を用意してくれるなんてことはありえない。
自分の道は、自分で決めるのだ。
日本の大学生にとって、「大学は、自分の将来の選択肢のほとんどを捨てる覚悟を決める場所」だと、僕は思う。
と言っても、僕は何も「日本はこれからヤバイ、みんな海外に目を向けていこうぜ」とか「全員が、社会に問題意識を持って変えていかなきゃ」とか言うつもりはまったくない。そういう生き方はやりたい人がやればいいことであって、強制するものではない。
ただ、これをやっていたら、こういう状態なら、自分は幸せだって言い切れるような何かを、手に入れる必要はあるんじゃないだろうか。インドのように「世間の当たり前」とされる生き方が存在しない以上、そういった小さな幸せ、「一隅を照らす」ような幸せを、自分なりに考えなきゃいけないんじゃないだろうか。
そのためには、自分で考え、行動していくこと。
参考になるかわからないけど、生き方について書いた記事がいくつかあるので、下に載せておく。
「ストレートで新卒入社するのは、ある種の人にとっては負け癖を付けることに他ならない」
学生時代という最も自由で責任のない時期にレールから降りることができなければ、きっと一生レールの上ですよ、ということを書いた記事。この「Rail or Fly」というブログタイトルの解説であり、一番最初に書いた記事でもある。
やりたいことが一つに定まらない人は、後からやってきたことの関連性が見えてくるから、とりあえず直感に任せてやりたいことをやればいいんですよ、という記事。
気になった人は、読んでみてください。
大きな物語などなくても、みんなが立派な人にならなくても、それぞれが幸せだと思うことを好き勝手にやっている世界。
僕はとても、素敵だと思うよ。