Rail or Fly

レールに乗るのか、飛び降りるのか、迷っているきみに届けたい。

風立ちぬ / やりたいことを信じてやり続けることの難しさ。

※以下、ネタバレ注意です。



















一月ほど前に「風立ちぬ」を観て、今さら感想を書こうと思う。

僕は普段あまり映画を観ない。もっと言うと、映像系のエンターテイメント(ドラマやアニメなどを含む)をあまり鑑賞しない。それは、物語のゆくえや登場人物が映像を通してはっきりと描写されるため、頭の中で好き勝手な世界や解釈を作り上げることができないからだ。

これと対比されるのが小説や音楽である。それぞれ、活字や音といった限定された表現であるがゆえに、その作品の受け取り方にある程度の幅が持たせることができる。僕はいろんな受け取り方ができるモノの方が好きだから、映像表現をあまり好まないのだろう。

それでも、ジブリ作品は新作が封切られるたびに観に行っている。まあ、特に理由はない。単なるミーハーだ。

もちろんそこで良い作品と出逢えたらいいな、という淡い期待はあるけれども、そもそも映像表現をそこまで得意としていないため、ハードルは高い。実際、ここ最近は、「絶対に、もう一度観たい」と思える作品と出逢えていなかった。

しかし、「風立ちぬ」は久々に僕の期待の遥か上をいってくれた。



この作品には、「やりたいことをやること」の難しさが描かれていると思った。

主人公は、ただ純粋に、良い飛行機を作りたかった。

しかしその夢を叶えるために必要な環境は、所属している会社にとって主人公が役に立つ人間である間だけ、与えられるものだ。(主人公が特高警察に付け狙われた時に上司が言い放った「会社にとって役立つ人間である間は全力で守る」という言葉が重い。)

あるいは、飛行機は飛行機でも、国にとって利益となる、戦争に勝てる兵器としての飛行機以外は、生み出すことが許されない。

また、病弱な恋人の、自分の命を削ってまで一緒に暮らすという決意に、仕事を辞めて共に過ごすというせめてもの行為で応えてあげることもしない。上司の「早く(彼女を)療養生活に戻してあげなければ」という言葉に「飛行機を辞めて(療養に)付き添うことはできません」と返す主人公は、僕の目には非情とも映った。

ラストシーン。すべての力を注ぎこんで作り上げた零戦も、わがままを言わず自分の仕事を応援してくれた恋人も、主人公のもとに生きて帰ってくることはなかった。

この10年は、なんだったのか?自分の選んだ道は、間違っていたのか?

おそらくそう自問し続けていたであろう主人公に、夢の中の盟友・カプローニがワインでもどうだと声を掛けて、物語は終わる。(カプローニは、写実的なこの作品を通じて唯一といってよい、ファンタジックな色彩を帯びた登場人物である。)

ワインというところに、主人公が「生きねばならない」意味がある、と僕は思う。本格的なワインは長期間の熟成によって美味しくなる。この10年間の経験は、たとえその意味がどこにも見出せないように見えても、やはり意味のあるものであったはずだ。あるいは、意味のあるものにこれからしていかねばならないはずだ。そういった意味合いが、ワインという飲み物には込められているのだろう。



それがどんな犠牲を伴い、どんな手段が用いられ、どんな結果がもたらされようと、良い飛行機を作るという夢を叶えるために奮闘した主人公。

果たして、僕は彼のような夢を持てるのだろうか?立ち並ぶハードルをなぎ倒してでもゴールに辿り着こうとする陸上選手のような執念を抱けるだろうか?

映画を観ながら最も考えたのは、そのことである。

答えは、ノ―だ。

多くの人が、ノーと答えるのではないだろうか?

現代日本では、(建前上は)どのような役割も担おうと思えば担えるような、自由な社会になっている。

しかし、視野が広がれば広がるほど、人は何かを選ぶことができなくなる。自分はどんなことがしたいのか、それを確信できないということが、僕が多くの大学生との対話を通して気付いた、現代の若者の抱える課題である。

そう考えると、「風立ちぬ」の舞台である20世紀前半から現代にかけて、若者の抱く葛藤の形は、変わってきていると言えるだろう。

いや、それどころか退化しているとさえ言えるかもしれない。「やりたいことをやり続けることは正しいことか?」という問いは、「やりたいこと」が無ければ、そもそも心に浮かばないものだからだ。



僕がやりたいことは、進むべき道に途方に暮れている人が、少しでも自分の生き方に確信が持てるように応援することである。それは、昔思っていたような具体的な「やりたいこと」とは少し違うけれども、僕がやりたいことであり、またやれることでもある。

もう一度、「風立ちぬ」で描かれたような葛藤が、自分のあるいは身近な人のものとして感じられるようになれば。それは、ある意味幸せなことなのだと思う。



(最後の一文は、決して戦争を賛美しているものではないことを、念のため付け加えておきます。)