英語を含めた語学ができるようになるための、たった一つの方法。
いきなり身も蓋もない結論を書くが、語学ができるようになりたければ、「その言語が話せなければ死ぬかもしれない」という状況をつくればよい。
例えばヒンディー語。
このブログであまりおおっぴらに書いたことはないが、 僕はインドにいた時、スラムのアパートにインド人8人だか9人だかと暮らしていた。
もちろん、僕のアパートを含めて周囲に東洋人は皆無だ。
インターン先の上司(もちろんインド人)は上流階級の出身で、 僕の住まいが見たいと言うので連れて行ったところ、 「お前、こんなところに住んでいるのか!?」と呆れられたものだ。
どれだけヤバいかというと、こんな感じだった。
・シャワーから水しか出ず、それも2日に1度断水する。
・夜中にトイレに行くと、便器の中でネズミが溺れている。
・雨が降るたびに雨漏りして床が水浸しになる。
・ノートパソコンを開くと時々ゴキブリが飛び出してくる。
・南京虫が大量にいる。
・水道水はもちろん、浄水器を通した水ですらお腹を壊す(らしい。というのは僕は幸運にも問題なかったので)。
・隣のベッドのインド人(45)は常にルンギと呼ばれるデカパン一丁で過ごしていて、生タマネギと生ニンジンしか食べない。
・隣の隣のベッドのインド人(23)は毎日21時になると腕立て伏せを始める。
また、同じ部屋にいたインド人たちこそ、英語がわかる大卒者だったものの、 家賃の集金人や近所の雑貨屋のオヤジ、 いつも挨拶するアパートのガードマンや病気になった時にお世話になった町医者、 出勤途中に立ち寄るチャイ屋や格安レストランのレジを守るターバンを巻いたじいちゃんなど、 身の回りのインド人たちのほとんどが、英語を理解しなかった。
だから僕は、ヒンディー語を勉強した。
トラブルに巻き込まれて死なないように。
何かあった時に、周りのインド人たちに自分を助けてもらうために。
実際、道を歩いていて子どもに水でっぽうをかけられたり、リキシャ(三輪タクシー)にぼったくられそうになったり、謎の理由で警察官に交番に連れていかれそうになったりしたが、ヒンディー語が話せたおかげで、いつもなめられずに済んでいた。
そのうちに、「あそこに住んでいるジャパニ(日本人)はヒンディー語がわかるらしいぞ」という噂が立って、近所の人の僕を見る目が明らかに優しくなった。
言葉がわかるのは、強い武器なのである。
例えば英語。
僕のインターン先の会社は、ほぼインド人しかいない会社だった。海外からの駐在員を相手にビジネスをしている会社で、不動産仲介やレンタカーの手配、ビザの手続き代行、その他諸々やってる便利屋さんのようなところだった。
僕は日本人なので、日本人顧客を担当することになる。インド人である上司や同僚と、日本人顧客との橋渡し役だ。
これは自分も日本人だからよくわかるのだが、 日本人は、突発性のトラブルに対する耐性が高くない。 不動産を紹介した後、家具の搬入が遅れるという事態が発生した場合には、「どうしてそんなことになるのか」を徹底的に追及しなければ気が済まない。
しかし、インド人はトラブルの理由をきちんと述べることに慣れていない。
ただでさえ説明を適当にすませようとする彼らの早口な英語を聞き流してしまうと、 もはや顧客には何の説明もできなくなってしまう。
「なぜ顧客はこのトラブルに激怒しているのか」 「その説明のどこが不十分なのか」 そういったことを粘り強く説明すると、インド人たちも理解してくれる。 そのためには、英語力が必要不可欠だ。
だから、英語を勉強するしかない。
「なぜ時間通りにいかないんだ!」と顧客から突き上げられ、「なぜ日本人はこうもトラブルについてうるさいんだ!」と上司からやつあたりされる。僕はそんな板挟みのなかでもがき、苦しんだ。死にものぐるいで、解決策を考えた。
とにかく、顧客にはトラブルの原因を説明するようにした。インド人が何かそれらしいことを話していても、自分の中で「ん?」と思う箇所があればすかさず聞き返した。インド人同士が仲間うちでヒンディー語で会話している時も耳をそばだてて、悪いことが起こっていないかチェックした。
そうやっているうちに、あれほど聴き取れなかったインド英語がわかるようになり、電話でやり取りするのもできるようになり、ヒンディー語も上達した。
死にそうな目に遭えば、語学は勝手に伸びる。
自分の能力不足のせいで大切なお客さんを怒らせてしまい、 挙句の果てに二度と自社のサービスを利用してもらえなくなる。上司からは「お前の説明が悪いから顧客の心証を損ねた」と言われる。
それが嫌なら、勉強するしかない。
自分を守るために。やり返してやるために。
英語ができなければ、新興国の波に飲み込まれ、底辺の生活をする羽目になってしまう…。最近は、そんなふうに怯える人も多いように感じる。
別にいいんじゃないだろうか?
乱暴な言い方かもしれないが、それは要するに「死にそうな事態に直面する」ってことだ。
その時になったら、たぶんあなたは覚醒する。
それが嫌なら、今、死にそうな目に遭ってくればよいのだ。
僕がそうであったように、絶対にその言語を習得できる。そして、そうやって死に物狂いで覚えた言語は、まず忘れない。
極論ではあるが、「語学を習得したければ、死にそうな目に遭えばよい」というのは、一つの真理である。