Rail or Fly

レールに乗るのか、飛び降りるのか、迷っているきみに届けたい。

尖らせたタイトルやロジックの確かさだけでは、気持ちの良い文章は生まれない。

毎日文章を書いていると、今日は気持ちよく書けたとか、どうもいまいちだとか、いろいろな日がある。

 

作文というのは半ば無意識的な行為であって、規格化された商品を工場のラインに乗せて生産していくのとはわけが違う。ムラが生じるのは当然と言えるだろう。

 

おもしろいのは、書き手の抱くそういった気持ち良さと、読み手のその文章への共感のしやすさとが、かなりの部分シンクロしているように思えることだ。

 

つまり、僕が「今日は気持ち良く書けたなぁ」と思った時は、読んでくれた人もすっとその記事に入っていける。そこに書かれているメッセージへの賛否は別にして、違和感を感じることなく読み進めることができるのだ。

 

 

 

このような「気持ちの良い文章」を書くために必要なものはなんだろうか?

 

文章指南の記事などでは、「文章は端的に書け」とか「論理的に書け」とか書いてある。

 

あるいは、「タイトルに数字を入れろ」とか「一般論を否定しろ」とか、そういったテクニックが書かれていることもある。

 

だが、「気持ちの良い文章」は「わかりやすい文章」とは違うし、「おもしろそうだと思わせる文章」とはさらに遠い関係にある。

 

ロジカルに書く。あるいは、極端な切り口で書く。そうやって書けば気持ちの良い文章になるのか…。答えはノーだ。

 

 

 

文章を書く際には、ロジカルさとかキャッチーさとかよりももっと大切なことがある。

 

それは、「適切な温度感」である。

 

文章に「温度」がある、と言うと、奇異に聞こえる人もいるかもしれない。

 

だが、「温度」は確実に存在している。マクルーハンではないが、これは熱い言葉、これは冷たい言葉というような感覚は、文章を読んでいくうちに直感的に人の心に想起される。

 

ただ、実際の温度の感覚が人によって異なったり(僕の祖父は僕にとって非常に熱いと感じられるお風呂の温度を好んだ)、あるいは鈍かったりするように、同じ文章でも感じられる温度は人によって異なるし、文章の温度というものをあまり感じないという人もいるだろう。

 

 

 

書き言葉でいう「温度」は、おそらく話し言葉でいう「声色」に近い。

 

なぜそうなるのか?書き言葉でも話し言葉でも、例えば「ブログを書く」と書いたり言ったりした時に、その文章を構成する単語や、構文それ自体は変わらないではないか?同じ言葉が書き言葉にも話し言葉にも使えるのだから、その単語や文章そのものに「温度」が内在するのであって、書くのと話すのとで違いはないのではないか?

 

そんな疑問が思い浮かぶかもしれないが、違うのだ。

 

話し言葉において、話し手の想いの強さ、気持ちの状態というものを、僕たちは声色から察知する。「今、怒ってるな」「今、悲しんでるな」そういった気持ちを感じ取る。

 

「本当に腹が立つ」とか、「父が亡くなって悲しい」とか、そういった言葉そのものよりも、とげとげした高い声とか、涙まじりの嗚咽とか、そういったものの方が、相手の感情を判断する材料になりやすい。

 

さて、書き言葉においては、そういった「声色」という情報が失われてしまうのだが、だからといって書き手の感情が感じ取れなくなるわけではない。先ほども書いたが、「今は怒りながら書いているな」「今は幸せそうだな」ということが、読み手にはしっかりと伝わっている。

 

書き言葉における「温度」はすなわち話し言葉における「声色」である、といったのは、そういうことだ。

 

 

 

では、この「書き言葉の温度」というやつはいったい何者なのだろうか?

 

あくまでそれは、言葉であることは間違いない。文章を読む時に読み手に影響を与えるのは、そこに書かれている言葉以外にありえないからだ(もう少しキザなことを言うと、行間や余白というものも重要だ。これは、書かれている言葉が作りだすものだ)。

 

僕が思うに、「温度」というのは「言葉の強さ」である。

 

先ほど「ブログを書く」という一文を例に出した。しかし、これに似た文章はたくさん挙げられる。「ブログを細々と書いている」「ブログを書きなぐる」「ブログを書き連ねてゆく」…いくらでもある。

 

おそらく話し言葉であれば、今挙げた3つの例文の違いを、「ブログを書く」という文章の単語や構文自体は変えずに、声色だけで表現できるはずだ。

 

しかし、書き言葉においては声色という二次的な情報は失われ、文字そのものから書き手の感情を判断せねばならない。

 

その時に、微妙な語末の変化や点の打ち方、単語の選択のしかたなどから、僕たちは書き手の感情を想像するのである。

 

 

 

書き手自身が自分の感情を把握し、それに合った温度の書き言葉を選択してくれないと、読み手側は混乱する。

 

直前にめちゃくちゃ怒りのこもった文章を書いておきながら、いきなり冷静で落ち着いた言葉を選択されると、不可解な気持ちになる。

 

例えば、「くだらない飲み会は本当に嫌いだ。一服しようと外に出ると、穏やかな夜風が頬をなでてくれた」という文章はどうにも違和感がある。「くだらない」「本当に」「嫌い」という強烈なキーワードを散りばめた前半と、「穏やかな」「夜風」「なでてくれた」という沈静的なキーワードが並ぶ後半とでは、温度差がありすぎるのだ。

 

同じような文章でも、「くだらない飲み会は本当に嫌いだ。我慢できずに抜けだすと、打って変わって静かな夜に風が舞っていた」とした方が、自然ではないだろうか。前半の流れを継ぎ、「我慢できずに」「抜け出す」というネガティブなニュアンスを持つ言葉を用いながら、「打って変わって」と雰囲気が変わることを宣言しつつも、最後は「風が舞っていた」とやや波乱のある表現を用いている。

 

温度差のある文章を読むと、あたかも大泣きして掠れた声で「すごく楽しい」という言葉を発する人を目の前にした時のような違和感に襲われてしまう。

 

 

 

いくらタイトルを尖らせ、内容を論理立てたとしても、言葉それ自体の持つ「温度」を無視した文章は、受け手の心にすっと入っていかない。

 

人の心を惹きつけるキャッチコピーの書き方や、ロジカルに文章を書くコツなども、確かに勉強にはなるだろう。実際、僕もそういうことを考えながら日々文章を書いている。

 

しかし、文章を書く上で何より大切なのは、自分の感情を把握することと、それに見合った適切な書き言葉を選択することだ。

 

自分の「声色」を可能な限り文章に落とし込んで初めて、書き言葉によるコミュニケーションが人間味を帯びてくるのである。