さし飲み大好きです、なんてことを日々周囲に喧伝していると、友達と将来についてマジメな話をする機会が多くなってくる。
そうした飲みの場でよく語られるのは、「今こういうことがやりたいと思っていて~」という、ふわふわとした(悪く言えば無責任な)夢だ。
僕が思うに、夢と呼ばれるものの中で一番悪いものは、悪夢ではなく、「無責任な夢」である。
たとえそれが、「風立ちぬ」に出てくる飛行機技師のカプローニの言ったような「美しい夢」だったとしても、誰もその夢の実現について責任を持たないのであれば、それは「悪い夢」である。
飲みの席では、そういった「悪い夢」が、泡沫のように生まれては消えてゆく。
そんな場面をこれまで幾度となく目の当たりにしてきた僕が、必ず相手に問う質問がある。
「その夢は、昔のあなた自身を、救えるものなのですか?」と。
夢、やりたいことというのは、それを通して誰かに何らかの価値を与えることだ。
お店を経営するでも、先生になるでも、なんでもいいけれど、一人ぼっちで完結する夢などありえない。
(とここまで書いて、無人島で孤独に暮らし続けるという夢を思いついたけれども、それは「世の中から消え去りたい」という点で「死にたい」という願望と同じものだと思うので、ここでは割愛する)
大げさに言えば、誰かに何らかの価値を与えるというのは、その人を(ほんの少しでも)救うということだ。
しかし、今の自分に一番近しい存在であるはずの昔の自分すら救えないで、赤の他人が救えるだろうか?
僕は、そんなことは絶対に不可能だと思う。
昔の自分が救えなければ、いくら聞こえのいい、立派な夢を語ったところで、どこかで必ず燃え尽き挫折してしまう。
僕自身、研究者であったり、ライターであったり、様々な「悪い夢」を語ってはそれらを投げ捨ててきてしまったという経緯があるから、これは痛いほどわかるのだ。
僕の場合は、結局、そんな風に何にも将来のことを決めきれない自分自身こそが、救うべき「昔の自分」だったけれども。
夢を語ることは素晴らしいことだ、という風潮が、世の中に満ち満ちているように思う。
その素晴らしさを、僕は否定はしない。
だけど、「それで昔の俺は救われるのか?」と自問し続けなければ、結局はいつもと同じく、飽きたり気が変わったりして、「悪い夢」を投げ捨ててしまうことになる。
昔の自分すら救えないで、赤の他人を救おうなんて、ちゃんちゃらおかしい。
「自分は何がやりたいのか?」と考えるよりも先に「昔の自分を救えるものは何だろうか?」ということを考えた方が、きっと確信に満ちた足どりで、新しい一歩を踏み出せるはずだ。