広告代理店、というと、服装はカジュアルでフラットな人間関係で―みたいな想像をされることが多い。
だがそれはあくまで部署や所属するチームによるのであって、中には伝統的な日本企業の雰囲気そのままの部署も存在する。
特に僕が今いるメディアの部署や、それから営業の部署などでは、服装もきっちりスーツだし、上下関係もしっかりしていることが多い。
それは、日々相対している社外の方々の雰囲気や価値観に合わせる必要があるからだ。
メディアの部署が日常的に接するマスメディアの社風は(特に新聞社は)やっぱり堅実なところが多いし、営業がコミュニケーションを取るお得意様の中にも、トラディショナルな雰囲気を残しているところは多い。
僕はそうした「体育会系的な価値観」「年功的上下関係」が色濃く残る部署で日々仕事をしているわけだ。
こうした価値観に対して、苦手意識を持つ人はけっこう多いのではないだろうか?
事実、友達と話をしても「体育会系な雰囲気は苦手だわ~」という話になることは多いし、Twitterではそれをさらにストレートに表現した「体育会系クソ食らえ」みたいな意見をよく目にする。
だが僕は、それが可能であるなら、体育会系的な価値観をぜひとも自分の中に飲み込み、そうした雰囲気に合わせられるキャパシティを持つことを勧める。
なぜなら、そうすることで自分が理解できる人の幅が広がるからだ。
体育会系的な価値観というのは、それが苦手な人たちから「合理的でない」などと忌み嫌われる傾向にある。
しかし僕が思うに、体育会系的な価値観というのは宗教と同じなのだ。
相手が信じているものがあり、そうした相手を尊重して自分が相手に合わせる、といった点において、体育会系的な価値観と宗教との間には何ら違いがない。
例えば、僕はインドでヒンドゥーやムスリムの友人たちとよく一緒にご飯を食べていた。
ヒンドゥーにとっては牛が、ムスリムにとっては豚が、それぞれ禁忌の食べ物とされる。
一緒にレストランに入った時に、相手がヒンドゥーだったらビーフは頼まないし、ムスリムだったらポークは頼まない。ヒンドゥーとムスリム両方の友人といる時なら、チキンかマトンかフィッシュを頼む。それくらいの配慮はする。
もっと言えば、ヒンドゥーの中でも厳格な人たちはベジタリアンだから、彼らと同席した時には肉料理は一切頼まないことになる。
「異なる宗教を信じる人に対し、その人を嫌な気持ちにさせる行動はしない」ということは、比較的受け入れやすいことだと思う。
これは、体育会系的な価値観においても同じではないだろうか?
相手が「上下関係は大切だ」と信じているのなら、それを尊重して上の方を立てる振る舞いをするのはごく自然なことではないだろうか?
上座・下座の概念やエレベーターの乗り降りの仕方を覚えるのが「非合理的だ」と言うのであれば、同席したヒンドゥーの友人のためを思って食べたかった牛肉を食べないのも「非合理的だ」となるのではないだろうか?
「あるものの価値を信じる人がいるのなら、その人を尊重し自分もそれに合わせた振る舞いをする」という点で言えば、宗教も体育会系の雰囲気も何も変わらないのだ。
もちろん僕だって、年齢や役職が上だからといってなんでもかんでもやっていいとは思わない。暴力や暴言なんてもってのほかだ。
だが、誰かがやらなければいけない仕事がある時に「下がやるのが当然」だと思われているのなら、つべこべ言わずにやればいいのではないだろうか?
そうして体育会系的な価値観にいったん従って物事を見ていると、それと同じ基準で物事を見ている人たちの考え方や感じ方が理解できてくる。こういうことが好きで、こういうことが嫌い。そういったことだ。
「他人を理解する」というのは、「他人の価値判断基準が何かを把握する」ということだと僕は思う。
「ブランド」が価値判断基準の人もいるし、「年収」が価値判断基準の人もいるだろう。「幸せな家庭」が価値判断基準の人もいれば、「どれだけ変わったことをやっているか」が価値判断基準の人もいるだろう。
その中に、「体育会系的雰囲気が実現されているかどうか」が価値判断基準の人もいる。
僕は、それらの価値判断基準に、一切の優劣がないと思っている。
それぞれの人が、それぞれの価値判断基準に従って物事を判断し、自分が今幸せかどうかを決めている。そこに僕が口出しをする理由もないし、口出しできるわけもない。
であるから、「その人の価値判断基準を知りたい」と切に願う僕としては、体育会系的な価値観も自分の中に飲み込んで、その人を理解したいと思うのだ。
体育会系的な価値観は合理的ではない、悪だ、と言うのであれば、宗教だって悪だし、他のすべての価値判断基準が悪だということになってしまう。しかし、そうではない。
体育会系的な価値観は、あくまでその人が信じている一つの価値判断基準に過ぎない。
それに合わせて世界を眺めてみれば、また一つ、自分が知らなかったものの見方が手に入るのではないだろうか。