Rail or Fly

レールに乗るのか、飛び降りるのか、迷っているきみに届けたい。

「次世代の凡人」に告げる、これからの生き方。

先日、上司から「新卒1年目で会社を辞めてしまった先輩」の話を聞いた。

 

その人は、「こんな仕事は自分のやる仕事じゃない」と言って、次第にやる気を失い、フェードアウトしてしまったそうだ。

 

こういった理由で会社を辞めたり精神を病んでしまったりする人の数は、これから確実に増えてゆくと僕は考える。

 

その理由は2つある。

 

1つは、就職活動で「やりたいことはなんですか」と聞かれる以上、学生は必死になって「自分のやりたいこと」を明確化せざるを得ないからだ。

 

本当は、志望動機をきちんと考えておいた方がよい理由は、志望動機が魅力的か否かで入社の是非が決まるからではなく、そうしてきちんと自分のやりたいことを語れる人間の方が「企業のことをよく調べていて」「熱意があり」そして何より「自信のある」人間に「見える」からなのだが、就活生からすれば、「志望動機が明確でないと入社できない」と思いこみ、せっせと志望動機に磨きをかけるのは、まあ当然と言えるだろう。

 

しかし、OB訪問を繰り返し先輩や友人にダメ出しをされながら練り上げた、死ぬほど思い入れのある志望動機も、就活が終わってしまえばただのたわごとに過ぎなくなる。新卒の配属を考える人事や、それを受け入れる部署の上司には、内定の決まった新卒の志望動機など、その新卒のモチベーションを削りかねない、重い足かせにしかならないものだと思われていることだろう。その構図は、『就活エリートの迷走』という本に鮮やかに描かれている。

 

就活エリートの迷走 (ちくま新書)

就活エリートの迷走 (ちくま新書)

 

  

志望動機は、目的ではなく手段だ。よりよく生きていくためには「何がやりたいのか」を問うことは目的になる。だが、会社に入る上で「何がやりたいのか」を問うのは、手段でしかないのだ。

 

さて、容易に会社から飛び出してしまう人が増えるであろういま1つの理由は、世の中的に「やりたいことをやること」こそが正義だ、という風潮があるからだ。

 

巷にあふれる自己啓発書にも、Twitterで何百、何千とRTされている著名人のありがたいツイートにも、「とにかくやりたいことをやりなさい」と書かれている。「そのためには今働いている会社を飛び出すことも辞さないように」とまで。

 

そうした言説を真に受けた結果、「ここは自分のいるべき場所じゃない!」と言い切り、せっかく入った会社を辞めてしまう。あるいは、辞めないまでも、今目の前にある仕事に全力で打ち込むことなく、異業種交流会や週末起業に精を出し、社内で使いものにならない人間になってしまう。

 

 

 

僕は、こんなふうに気軽に会社を辞めてしまうことは、決してその人のためにならないと確信している。

 

やりたいことがきちんとあって、そのためにリスクも全部引き受ける覚悟がある人なら、辞めたって構わない。(本当は、やりたいことを実現できる能力も、持ち合わせていた方がよいとは思うけど。)

 

だが、そうではない99%の人、僕を含めた凡人は、そんなふうに今いる場所に即刻見切りを付けてしまうべきではない。

 

なぜなら、今いる場所で全力を尽くし、そこから得られるものをすべて学びとる方が、今の場所から逃れてどこか別のもっと自分に合った場所に行くよりも、ずっとずっと有益だからだ。

 

 

 

もう何度も書いているが、僕はインドのとある不動産仲介の会社でインターンをしていた。正確に言うと、不動産仲介だけではなく、カーレンタルや航空券の購入代行、ビザの手続き代行など、海外からのインド駐在員のためなら何でもやる、という会社だった。

 

僕はそのインターンで、幾度となく辛酸をなめた。何度この会社を辞めて、日本人のいる、きちんとした会社を探そうと思ったかしれない。(辛酸の具体的な内容については、働きはじめて改めて感じた、海外インターンに行くべき理由。でも触れている。)

 

しかし、僕は辞めなかった。辞めて新しい会社でインターンをしても、必ずどこかに不満を抱く。また、今よりも楽な会社なら、そこで学べるものは今の会社よりも小さいはずだ。それなら、少しは勝手のわかってきた今の会社で、キツイ壁を乗り越えて大きな収穫を手にしてやろう、と。

 

実際、1年弱という長い期間、インド人しかいない会社で不動産を売り続け、インド人しかいないスラムのアパートでインド人たちと雑魚寝した経験によって、僕はどこででも生きていける自信がついた。英語も話せるようになったし、就職活動で納得のいく結果を出すこともできた。今は広告代理店で、日本人とインド人の「お金」や「モノ」に対する欲望の違いを、仕事の中で実感できてもいる。そういった学びや力は、楽な道を選んでいては得られなかった。

 

インドに行く前からずっと、僕はそんなふうに生きてきた。高校の野球部や沖縄の離島のダイビングショップのアルバイトからは体育会系の価値観を飲み込んでしまうことを覚えたし、現在ブラック企業と名指しされている某居酒屋のアルバイトからは、人に「営業する」ということの難しさや楽しさを知った。

 

だから思うのだ。

 

生半可な気持ちで今いる場所から退出することは、自分自身にとって、大きな機会損失になりかねないのだと。

 

 

 

僕は今、本当に危惧している。

 

人の価値観がさまざまになり、「自分の幸せってなんだろう?」と考えざるを得ない時代になった。特に、これからもらえる給料がグングン伸びてゆくインドのような国、「お金を稼ぐことが幸せだ」と信じられる国ではいざ知らず、日本のように経済成長がある程度頭打ちになっている国では、多くの人が「自分の幸せ」について考えることになるだろう。

 

自分の幸せについて考えるのは、無条件にいいことだ。

 

だがその結果、「今いる場所で精進し、その結果予期していなかった学びを得る」という姿勢が失われることになるのなら、それはいいことだとは思えない。

 

スティーブ・ジョブズの"connecting the dots"の話を聞いたことのある人は多いだろう。一応下に引用する。

 

You can't connect the dots looking forward you can only connect them looking backwards. So you have to trust that the dots will somehow connect in your future.

将来を見据えていろんな経験をつなげていくことはできない。後から振り返ってそうすることしか。だから、あなたがたはその経験が自分の将来に何かしら結びついていくであろうと信じる必要があるのです。

Steve Jobs、訳はブログ筆者)

  

今直面している経験を大切にせよ、とジョブズは言っている。それがどう自分の将来に役に立つのかはわからなくても、役に立つと信じることで、それは役に立つようになるのだ、と。

 

会社を辞めるかどうかということについても、同じではないだろうか?

 

スティーブ・ジョブズはとかく「自己実現」や「夢を叶える」といったキーワードを好む人に深く影響を与えているようだが、そういった人が明確にやりたいこともなく「会社を辞めよう!」「起業しよう!」と言うのであれば、それは皮肉なことだと言わざるを得ない。

 

なぜなら、ジョブズが言っていることは「今目の前にある"ココ"が、いつか未来の自分のキャリアと接続されることを信じて、コミットしてみよう」ということだからだ。

 

「今ココ」から退出し「別のドコカ」に夢を求める人たちがスティーブ・ジョブズに憧れるというのは、控えめに言って、滑稽である。

 

 

 

僕がもし、「誰にも負けないことを一つだけ挙げてください」と言われたら、それは「点(dots)を線につなげる力です」と答える。

 

理系でも文系でもなく、体育会系でも文化系でもなく、引きこもりでもグローバル人間でもない。ただその両者をひっきりなしに行き来し、人からは「お前は何がやりたいんだ」と何度となく指摘される中で鍛えてきた「今いる場所を正解にする力」だけは、誰にも負けないと感じている。

 

それは別に、誰もが身に付けるべき力ではない。初めからやりたいことが明確で、ゴールに向かってこのステップとこのステップを踏んでいけばいいと思える人には、僕のような考えは、むしろ邪魔だ。邪教といってもいい。

 

だが、多くの人は凡人であり、「やりたいことはこれです!」なんて、言い切れやしないのだ。

 

 

 

そんな僕たち凡人が、納得できる人生を生きるために大切なことは、下の二つだ。

 

自分がどんな場所にいてどんな人と話しどんなことに取り組んでいれば幸せなのか、きちんと理解していること。

 

その上で、たとえ今いる場所が自分の幸せと相容れない場所のように思えても、がむしゃらに踏んばれば必ず幸せに近づいていくと信じていること。

 

この相矛盾する二つの哲学を、しっかりと自分のものにしている人は、どこへ行っても何をやっても、必ず納得のいく人生を送ることができるだろう。

 

派手な人生でも、おもしろい人生でもないかもしれない。

 

だけどそれは、納得のいく人生だ。

 

 

 

これが、僕が思う「次世代の凡人の生き方」だ。

 

「世間のレールから外れ、入った会社を辞めても、『これだけはやりたい!』と言い切れるものがある」という"超人"には、ほとんどの人は、なることができない。

 

ニーチェは、「超人」とは、キリスト教というそれまでの西洋を支配していた価値の根拠を徹底的に捨て去り、新たな価値の根拠を創出する人のことだ、と説いている。

 

ツァラトストラかく語りき 上巻 (新潮文庫 ニ 1-1)

ツァラトストラかく語りき 上巻 (新潮文庫 ニ 1-1)

 

 

ニーチェ入門 (ちくま新書)

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僕が上で使った"超人"も、およそ似たような意味を持つ。要は、世間的に当たり前だとされている価値観から軽やかに身を翻し、自分の信念に従った価値体系を打ち立てられる人間のことだ。

 

「超人にはほとんどの人はなることができない」という言葉に対して「最初から諦めるな!夢は叶う!」と叫ぶのはお門違いだ。なぜなら、「なることができない」というのは「能力がなくてできない」という意味ではなく、「はじめからそういった価値観ではないからできない」という意味だからだ。

 

世の中には、守るものがあって無茶なことはできなかったり、どこまでいっても中途半端で振りきれた生き方ができなかったりする人もいる。それは、決して悪いことではない。むしろ、守るべきものを守ったり、中途半端に帰ることのできる場所を残したりすることが、好きだからそうしているという場合もあるのではないだろうか?例えば、家族がいるから会社を辞めることはできない、という言葉は、僕には諦めではなく、ずしりと重い、前向きな決意のように感じる。

 

 

 

また、"超人"になれない人の全員が、なんとなく昔の仲間となじみ深い故郷でダラダラ過ごしていられれば幸せ…という「マイルドヤンキー」的な価値観に馴染めるわけもない。

 

ヤンキー経済 消費の主役・新保守層の正体 (幻冬舎新書)

ヤンキー経済 消費の主役・新保守層の正体 (幻冬舎新書)

 

 

これは、僕が昔 'デミアン' - ヘルマン・ヘッセ / 「自分の進む道に確信を持っている人」なんていない。 という記事で書いたことと近いけれども、「自分の幸せとは何なのか?」ということを、自問せずとも幸せに生きていける人たちがいる。僕はそれこそが、『ヤンキー経済』で書かれている「マイルドヤンキー」的なマインドに他ならないと思う。

 

むしろ、「自分の幸せってなんだろう?」 と考え込まざるを得ない人は、少数派だ。だからキツイ。身の周りを見渡しても、「そんなこと考えなくても酒飲んで楽しいヤツらと過ごしていれば幸せじゃん」と言う人間か、「自分の幸せ」をとことん突き詰めた結果、素晴らしい人生を過ごしている"超人"しか見当たらない。前者は数の多さゆえに、後者は突出度合いゆえに、それぞれ目立ってしまうのだ。

 

 

 

だが、「次世代の凡人」は確かにここに1人存在する。そして、これからその数はずっと増えていく。

 

あなたは1人ではないのだ。

 

あえて「次世代の凡人」がどんな人たちなのかを先人の書から描写してみると、梅田望夫氏の『ウェブ時代をゆく』に出てくる「総表現社会参加層」というのがそれにあたるのではないか、と思う。

 

「エリート(一万人)対大衆(一億人)」という二層構造ではなく、この二つの層の間に、多様で質の高い人たちの第三層「総表現社会参加層(一千万人)」つまり「あるレベルの知を持った人たちの層」をイメージすべきだと主張した。

(『ウェブ時代をゆく』梅田望夫著) 

 

ウェブ時代をゆく ─いかに働き、いかに学ぶか (ちくま新書)

ウェブ時代をゆく ─いかに働き、いかに学ぶか (ちくま新書)

 

 

確かに、このブログを読んでくれる人はそれなりのネットリテラシーと文章読解能力を有しているはずだし(でなければこんな長い文章は読まない)、「次世代の凡人」である僕自身、こうしてブログを書き、「総表現社会」の恩恵に多分に与っている。

 

ただ、梅田氏の想定している「第三層」というのは、僕が述べている「次世代の凡人」よりも革新的で、インターネットをうまく使いこなしている人たち、という印象を受ける。

 

僕はもう少し、「普通の」(という言い方を許してほしい)人たちに向けて、メッセージを書きたい。

 

実際、僕がブログで出会い、そして「あなたの文章を読んで少しだけ勇気が出ました」と言ってくれた人たちの大半は、「これまでインターネットで人と知り合うことなんてなかった」「ブログにコメントするとか、メッセージを送るとか、やったことがなかった」という人たちだった。

 

糸井重里氏はこう書いている。

 

ホームページを始めた頃、ぼくが感じていたジレンマは、何かを伝えたり、語ったり、あるいは伝えられたり受け取ったりすべき相手は、最大でも二〇〇〇万人といわれるインターネット経験者ではなく、むしろ残りの八〇〇〇万人のほうではないかということでした。

(『インターネット的』糸井重里著)

 

インターネット的 (PHP新書)

インターネット的 (PHP新書)

 

 

僕が広告代理店で学んだことを活かし、メッセージを伝えていくのは、きっとそういう「普通の、でもどこか『普通』では終わりたくない」人たちなのだと思う。

 

 

 

SNSで「隣の青い芝生」をいともたやすく覗けるようになり、自己啓発書は先行きの見えない社会に「夢を持て!会社に依存するな!」と高らかに叫ぶ、そんな時代。

 

僕は「次世代の凡人」の1人として、人がどう生きれば幸せになれるのか、ずっと模索し続けていきたい。

 

会社に勤めながら、こうしてブログを書き続けたい。少人数で、好きなことや下らないことやマジメなことについてずっと話し続けられる場所をつくりたい。そうした姿勢それ自体が、「次世代の凡人」的な生き方を応援することだと信じて。

 

おもしろい人生も、ユニークな人生も僕にはいらない。

 

ただ「納得のいく人生」だけを、僕は歩んでいきたいのだ。