Rail or Fly

レールに乗るのか、飛び降りるのか、迷っているきみに届けたい。

嫌われるコンテンツを作って、嫌われて生きよう。さもなきゃ無視されるだけだ。

僕は昔から、作文を書くのが大好きだった。小学生くらいの頃はただ漠然と文章を書いて快感を感じていただけだったけれども、高校、大学と大きくなるにつれ、文字を武器にして何かのコンテンツを発信し、生きていきたいと思うようになった。

特に「やりがいある仕事を市場原理の中で実現する」という本を読んでからは、「ウェブサイトを作って自分の興味あることを発信して生きていきたい」と思うようになった。

この本は My News Japan という有料ニュースサイトを立ち上げた渡邉正裕さんの著書で、めちゃくちゃおもしろくて参考になるので、将来ウェブ上に何か作ってそれを収益化したいという方はぜひ一度読んでみてほしい。(My News Japan 自体、ニュースサイトでは有料課金がほとんど成立しないと言われている中できちんと利益を出しているだけあり、とてもおもしろいサイトです)

(やりがいある仕事を市場原理の中で実現する/渡邉正裕

My News Japan



さて、上記のようにコンテンツ発信をしたいと漠然と思っていた大学2年の秋、僕はさし飲み対談というものを始めた。

人と二人でお酒を飲み、なんやかんやと話をする。その話を録音しておいて、後日文字起こしをして対談という形でウェブサイトにアップする。

今まで対談をした人の数は83人。

さし飲み対談を始めた経緯について時々聞かれることがあるのだが、正直そう大した理由はなかった。

僕の尊敬するとある先輩とさし飲みをしていた時に「こういう場でのやり取りってすごくおもしろいよね」っていう言われて、じゃあ録音して文字起こししちゃおうと思って始めた。それだけだ。

大学生同士の対談なんて割とみんな思いつきそうなテーマだったけど(当初はアップするのは大学生同士の対談に限定していた)、たぶん文字起こしに労力が必要なのが障壁になってて、同じようなコンテンツをあまり見かけたことがない。

もちろんネット上に無数に存在するコンテンツには対談っていうジャンルもあるんだけど、学生の対談だといわゆる「意識の高い人」、社会人だと「何か成し遂げている人」たちの対談ばかりで、なんというかそういう対談は僕にとってあまり興味のないものだった。

世の中の大多数の人間は普通の人だ(というか厳密には多数派のことを僕らは普通と呼ぶんだけど)。世界を変えるとか起業するとかそういう大きな夢なんか持たずに生きていく、身近なところに幸せを感じる人たち。幸せな家庭を築いて暮らすとか、一生趣味のギターをのんびり弾き続けるとか、そういった幸せで満足する人たち。僕はそういった「普通の人」の話が聴きたかった。そして願わくば、「こういう一見地味な話にだって、君の起業の話に勝るとも劣らない『人の価値観』が聴けるおもしろさがあるんだぜ」って、世界に示してやりたいと思っていた。

さし飲み対談は、「夢を持て」「成功しろ」と生き方を押し付けてくる人たちに対する、僕なりのささやかなカウンターパンチだった。



しかし最近気付いた。自分で「ささやかな」なんて言っている間は、誰の心にも刺さりはしない。それはただの自己満足にすぎない。

コンテンツを発信して生きていきたい。周りにはそう言い続けてきた。コンテンツ発信には、「自分がそのテーマを愛しているかどうか」っていう問いかけは絶対に必要だ。でないと続けることができず、結局は発信者になれずに終わってしまう。

そういう意味で、さし飲み対談は少なくとも、「自己満足」という項目は満たしていた。

だけど、本当に自分のやりたいことをやって生きていきたいなら、もう一つ超えなきゃいけない壁があると思っている。

それは、「人に嫌われてもいいと思えるかどうか」という壁だ。



僕はずっと、人に嫌われることを恐れて生きてきた。

と言っても「人に好かれたい!」と思って何か特別なことをしているわけではない。ごくごく普通程度に「人に嫌われるのは嫌だなぁ」という感情を持つ人間だと思う。

普通だからこそ、気付かなかった。なぜ自分のウェブサイトやブログの更新をmixiFacebookで告知することになんとなく抵抗があったのか。なぜ人から「もっとさけの主張が感じられるサイトにしなきゃつまらないんじゃない?」と言われても、そのアドバイスを受け入れられなかったのか。

僕は、これからの人生であと何度会うかといった間柄の人たちから「変な人」と思われ、嫌われることを恐れていたのだ。

それに気付けたのは、意外にも現在取り組んでいるインターンの仕事をこなす中で、だった。

僕のやっている仕事の一つに、日系企業の顧客に現地の不動産を紹介する、というものがある。

不動産を見学する際に、訪れたアパートの鍵が、家主の急な不在によって手に入らず、顧客に大変な迷惑をかけることがある。誠心誠意、謝るしかない。

自分にはどうにもできない突然の出来事によって、自分が誰かに迷惑をかけることを強いられた時、僕はものすごく申し訳ない気持ちになる。「嫌な感情を抱かせてしまったなぁ」と思って、それがどうにも受け入れがたい。場合によっては夜も眠れないことがあった。

そして僕は気付いた。「僕は、人に嫌われるのを恐れているんだな」と。



誰だって人に嫌われるのは嫌だと思う。

だけど、何かおもしろいこと、人と違うことをしようと思った時に、誰かから嫌われることは決して避けられない。

というより、嫌われるというのは一方でそれだけのインパクトを持っているということで、その分自分のやっていることを好きになってくれる人もいるはずなのだ。



物質と反物質の話を、聞いたことがあるだろうか。

物質の定義って難しいのだけれど、簡単に言えば、重さを持っていてそこらへんにあるモノだ。そこらへんに見えるパソコンとか、机とか、あるいはあなたの手とか、そういったものはすべて物質である。

反物質というのは、電気的に物質と反対の性質を持つものの、重さなんかは完全に同じモノだ。たとえば水素と反水素というものを考えてみると、重さは完全に同じで、電気的な性質だけが異なる。

物質と反物質を合わせるとお互いが消滅して、後にはエネルギーだけが残る。逆にエネルギーのものすごく高いところでは物質と反物質が生成される。これらは有名なE=mc^2の式にしたがう。

僕たちの目に見える宇宙は、すべて物質からできている。

その昔、物質と反物質は生成してはお互い消滅を繰り返していたのだけれども、実は物質の方が消滅までにかかる時間が少しだけ長く、そのため生成と消滅を繰り返しているうちにこの宇宙は物質だけで埋め尽くされるようになった、らしい。

宇宙のどこかに反物質だけで構成された星があるとかいうことも言われている。物質と合わさると消えてしまうから、反物質でできた星には反物質しか存在しない。

とにかく僕らの目に見える範囲では、反物質は存在しない。

(物質・反物質の話について、おもしれ〜って思った方は以下の本がおすすめです。2008年に、南部陽一郎さん、益川英敏さんとともにノーベル物理学賞を受賞した小林誠さんの著書です。)

消えた反物質―素粒子物理が解く宇宙進化の謎 (ブルーバックス)

消えた反物質―素粒子物理が解く宇宙進化の謎 (ブルーバックス)




説明が長くなってしまったけれども、「好かれる」「嫌われる」というのは、物質と反物質の関係に似ているように思える。

僕らが何かを発信する時、そこには主張がある。その主張が確固としたものであればあるほど、引き起こす反応も大きくなる。主張が尖っていると、ファンもアンチも増える。

主張がどれだけ尖っているかが、物質・反物質を生み出すエネルギーとなる。主張が曖昧だったらエネルギーはゼロだ。

自分のやっていることで世の中に何らかのインパクトを与えようと思うなら、嫌われることは必然なのだ。何かを発信するということには、自分の主張を受け入れてくれる人、反対の意を唱える人の双方がつきものなのだ。

嫌われることを目的として発信するわけではない。嫌われてもいいという覚悟を持って尖った主張をぶつけられるかどうかが、問題なのだ。



僕はこれまで「いろんな人の生き方を知ってほしい」と願い、さし飲み対談を続けてきた。

さし飲み対談はいわば、僕の生き方の根底にあるゼネラリスト志向をギリギリまで目に見える形にしたものだ。

いろんな人のいろんな生き方を知りたいという欲求は、「こう生きなければならない」という主張とは、どうしてもトレードオフになってしまう。これは、僕と同じようにいろんなものを知りたいって思ってる人には、とても共感できる気持ちではないだろうか。

それを言い訳に、僕はこれまで「主張することなんてないよ。誰のどんな考えだって受け入れるよ」とうそぶいてきた。

ものわかりよく、人に嫌われないように、「ちょっと変わったことしてるんだぜ」って言える程度には体裁を整えて。

ウェブサイトのアクセス数はちっぽけなものだった。一つ目に作った「大学生ナウ」というサイトは、一日20もアクセスがあれば御の字だった。二つ目に作った「People Interest」で一日に40〜50のアクセスを集めるようにはなったけど、それだって世の中から見れば、無視されているも同然だろう。

本当は僕にもあったのだ。

「誰かの生き方を、その人ときちんと話したことがないにも関わらず、見下したり陰口を叩いたりする人たち」に対する、強烈な憎悪が。

「もっといろんな人の生き方を知ろうよ」という主張が。

だから、ある意味「人に嫌われてもいい」と思えるのは、自分の中にある世の中に対する憎悪や不満を、きちんと認められるということだとも思う。



コンテンツを発信して生きていきたいなら、あるいはもっと広く、自分のやりたいことをやって生きていきたいなら、スキルの問題とか環境の問題とか、いろいろな要素が関係してくるだろう。例えばウェブサイトという形でのコンテンツ発信なら、アクセシビリティとか、SEO対策とか、そういうスキルを学べる企業や役職にいるかどうかとか。

だけどそんなものより、「そのテーマは自己満足できるものなのか」「人に嫌われてもかまわないと思っているか」の方が、めちゃくちゃ大切だと思う。

僕と大して関わりのないどこかの誰かが、僕のやっていることを見てどう思うかを考えるのはやめよう。

ためらわず、SNS上で自分のプロジェクトの告知を行おう。

もっと言えば、インターネットによって一億総表現者となった現代においては、人の存在そのものがコンテンツに近くなっていると思う。「7つの習慣」では、あなたの人格は常に周囲に向かって発信されていると書いてあったけれど、それがわかりやすく目に見える形で示されているのが、SNSやブログの発達した現代なのだ。

だから、自分のやりたいことをやって生きていると、きっと過去の知人の誰かしらからは嫌われるだろう。僕もTwitterをやっていて過去それなりの関係を持っていた人からブロックされたことが何度かある。それでいいのだ。

「お前が嫌いだ」というメッセージは、それだけ自分が何か尖ったものを世の中に叩きつけている証拠と考えればいい。何か変な宗教とか変なビジネスとかをしているなら、話は別だけどね。



僕は、自分が誰かに嫌われることを恐れているのだということを自覚してから、今のインターンがとても楽になった。

このブログにおいても、「旧ブログ」カテゴリの記事と今の記事を読み比べると、個人的にかなり書き方が変わってきたなぁと思っている。

それはすべて、「嫌われてもいいんだ」と思えるようになったからだ。

「敵を作れないやつは、味方も作れないんだぜ」

Twitterでいつか目にした、僕が今とても大切にしている言葉である。

これからも、このブログや新しいウェブサイトを通して、僕の心の中にある憎悪を、思いっきり世の中に叩きつけていきたい。





関連記事:

友達に嫌われるのが怖くて、発信ができない人へ。