Rail or Fly

レールに乗るのか、飛び降りるのか、迷っているきみに届けたい。

違うタイプの人に、価値観まで破壊される必要はない

この間、タイでインターンをしているとある大学生とスカイプをしていた。

大学の看護学科で学んでいる彼女だが、4回生時から2年間の休学という選択をし、中国のボランティア施設でインターンをした後、現在はタイの企業で働いている。どちらのインターンの内容も、専門とは縁遠い。

彼女は現地で先にインターンをしている別の大学生から、こんなアドバイスを受けたと言う。

「せっかく看護学科に所属しているのだから、その専門を生かして仕事をすることを考えたらどう?」

話を聞くと、そのアドバイスをしてくれた大学生は院生で、海外人事について大学院で学び、実際に現在インターンしている企業も、人事系のサービスに特化した企業だそうだ。

必然性に満ちたキャリアパスを着々と構築しているその大学院生を見て、自分のことがいまだによくわからないという僕の友人は、考え込んでしまったと言う。



世の中には、人生を貫く一本の糸が背後に透けて見えるような生き方をしている人がたくさんいる。

有名人に限らず、自分の知り合いを思い出してみても、思い当たる人が何人かいるだろう。

その糸の先にはいろんなものがくくりつけられている。「誰にも真似できないようなウェブサービスを開発したい」「生物学の分野で、歴史的な発見を成したい」そういった壮大な夢から、「ギターをのんびりと弾いて暮らしたい」「温かい家庭を築きたい」みたいなほのぼのした夢まで、その種類は多種多様だ。

とにかく、そういう人の生き方は、他者に納得してもらいやすい。「ああ、こういうことがしたくて生きてるんだな」って。



さてこれと対比させるために、僕の大学生活について書いてみる。理学部というかなり浮世離れした学部で学者を目指すのかと思えば違い、クラシックギターとスキューバダイビングという趣味の色合いの強いサークルに入ったけれどどちらも熱中してやりきったとは言い難く、ベンチャー企業でインターンしたけど起業しようとも思っておらず、就職活動をいったん始めたものの、気が変わって海外でインターンをしている。

一見して、何がしたいのかよくわからないという感想を持つのが普通だと思うし、直接あるいは間接的にそう言われたことも多い。とある先輩に「お前、生き方が不器用だよなぁ」というかなりキツイお言葉もいただいたことがある。

実際、夢があってそれに向かって努力できている人を見ると、とてつもなくうらやましく思う。

しかし僕はもう「他人から見てすぐわかるような、人生を貫く一本の糸を持つこと」など諦めている。だってそんなもの、持てるわけないからね。



僕は、自分の特性や好みというのは帰納法でしか判断できないんじゃないかと思う。

帰納法というのはどういうことかというと、

「ネコaはネズミを追いかける」「ネコbはネズミを追いかける」「ネコcはネズミを追いかける」という事例が幾つかあるので、「全てのネコはネズミを追いかける」と結論を下す(帰納/Wikipedia

というように、いくつかの個別的な事実から、一般的な法則を見つけようとする推論方法のことである。

一度は研究者になろうと思ったけれども、理学部に入って実際の研究というものを垣間見て、それはやっぱりちょっと違うなと思うようになった。

ダイビングのインストラクターに一度は憧れたけれども、ダイビングショップでアルバイトをしてちょっと違うなと思うようになった。

起業したいと思ってベンチャー企業でインターンしてみたけれど、やっぱりちょっと違うなと思うようになった。

このように経験を重ねてきた結果、「僕には大きな人生の目的など持てそうにない」と推論したわけである。

もちろん、ネコの例をとってもネズミを追いかけないネコが見つかる可能性だってあるし、それと同じように、もしかしたらいつかは自分にとって人生を賭けてもいいと思えるような夢が持てるかもしれない。その可能性を、否定はしない。だからこそ帰納

だけど今のところ、僕は自分が将来何を成し遂げたいのかという問いを、カッコに入れたまま放置している。



僕のような人間にとっては、自分が本当は何が好きでどんな人間なのかということを確定するのは、とてつもなく難しい。これまでに確定させようとしていろんなことに取り組んだけれども、やっぱりどうにもわからないのだ。

そもそもそれは、確定できるものなのだろうか。自分の感覚では、その都度その都度やりたいことを仮決めしては生きていくというのが精一杯な気がする。

実際、人間の身体というのは200日くらいですべての細胞が入れ替わってしまうものなのだ。ものすごく乱暴な理屈だけど、それだったら自分のやりたいことや好きなことが変わったところで、別におかしくもなんともないように思える。(細胞が入れ替わる話については下の本をどうぞ。とてもおもしろい本です)

生物と無生物のあいだ (講談社現代新書)

生物と無生物のあいだ (講談社現代新書)

だからもう、「起業したいから〜をするんです」ということを無理やり作った笑顔で言うのはやめにしよう。胸の奥に苦く広がる、違うんだというかすかな声を押し潰すのはやめにしよう。将来やりたいことなんてわからなくてかまわないのだ。

やりたいことがすでに見えている人に「将来何したいの?」と聞かれた時、見栄を張りたい気持ちはものすごくわかる。だけど、虚勢を張ったってどうせ伝わるし、その場でバレなくても自分の行動を見られてしまえば一目瞭然だ。

自分が何になりたいかがわかっている人には、所詮僕らのようなタイプの人間の気持ちなど共感してもらえない。だからこそ胸を張って言おう。今自分が直感で進みたいと思う方向に行くんだと。

そういえば、光の射す方へっていう曲があった。

僕らは夢見たあげく彷徨って 空振りしては骨折って リハビリしてんだ 

いつの日か君に届くといいな 心に付けたプロペラ 時空を超えて 光の射す方へ

(光の射す方へ/Mr.Children

こんなスタンスでゆるく生きればいいと思う。

(ちなみに僕の好きなアルバムは、深海、DISCOVERY、Q、IT'S A WONDERFUL WORLDと中期の作品が多い。基本1stアルバムから全部聴いているので、ミスチル好きな人はコメントかメッセージをくれれば語れます)



自己啓発の本を読んだり、学生団体なんかがよくやっているアツいセミナーに参加したりしても、生涯を賭ける価値のある夢など、決して見つかるものではない。一時的な興奮や全能感は得られるかもしれないけど、それは所詮一過性のものだ。

ではそういった本を読んだり、セミナーに参加したりするのは無意味なのだろうか。そうではない。その熱が続く間に何かに挑戦できたなら、意味がある。

僕は人が何か新しいことに取り組んでみるのは素晴らしいことだと思っている。挑戦には立派な理由などいらず、ただ「おもしろそうだから」で十分だとも思っている。それは、どんなことに挑戦するにせよ一つだけ得られることがあるからだ。

挑戦によって、少なくとも自分は何が嫌いかだけは、知ることができる。

一番好きなものが何かはなかなか決められない。だけど、「あ、これは俺には向いてないな」っていうのは割と簡単にわかるのだ。

ただしそれは、実際に何かに取り組んでみないとわからない。

例を出そう。

僕が昔、「サイエンスのおもしろさを世の中にわかりやすく伝えるということをテーマに起業しよう」と考え、とある小さな企業でインターンをした時のことだ。

ネットショップを開業するという新規事業立案のインターンをやらせてもらったのだけど、R&Dと呼ばれる商品開発の部分から、商品名やキャッチコピーなどを考えるコンセプト的な部分、SEOやサイトデザインなどウェブ集客に関する部分、さらにはお試し品の飛び込み営業まで、本当にいろんなことを経験させてもらった。

その中で、自分には起業するほどこの世の中に不満がないことがわかった。

だから、今後自分がお金を稼ぐとしたら、すでに存在している仕組み(企業とかね)に自分の能力を買ってもらうやり方が自分には合っていると思う。もちろん、金儲けが得意な人(起業したい人)と組んでもいいだろう。

こういうふうに、自分の過去の経験からわかった「苦手なこと」「できないこと」を、自分の未来に生かすことは、誰にでもできるはずだ。その結果、生きたくもなかった人生をいつの間にか誰かに押し付けられているということだけは避けられる。

自分探しという言葉はなんだか批判されてばかりだけど、自分探し、大いにけっこうではないか。好きなことではなく嫌いなことを見つけることができただけでも、挑戦には価値があるのだ。



僕は別にジョブスとかザッカーバーグみたいになりたいっていう大それた欲望はないんだけど、ジョブスの有名な言葉にこういうのがあるので、引用しておく。

You can't connect the dots looking forward you can only connect them looking backwards.(訳)将来を見据えていろんな経験をつなげていくことはできない。後から振り返ってそうすることしか。(Steve Jobs、訳は筆者)

僕は基本的に、こういう楽観論を信じている。

今まで経験してきたいろんなことが、確かにつながってきている感覚はある。IT企業でインターンしたからこそ今ウェブサイトを立ち上げて発信しているというのはその一例だし、たとえばこのブログなんて、僕のこれまでの経験が一つでも欠けていたら、書けていなかったんじゃないかな。

だけどまだまだ、これからだ。

直感で取り組んで、後から意味付けをして、それでけっこうオリジナルなものができるんじゃないかなと、僕は思っている。

英語を筆頭にヒンディー、仏語といった語学を継続して学んでいきたいし、ウェブ方面のスキルでは、HTML/CSSPerlの力を向上させつつJavaScriptにも手を出していきたい。帰国したらいよいよ長年の夢だったバンドを組もうと画策中。一方で、インドで何かしらのビジネスを始めようと考えている。さし飲みは在学中に150人を目標にしたい。本をたくさん読もう。就職までに、もう一社、できればウェブ関連の企業でインターンがしたい。就職活動はとてつもなく楽しみである。そして、自分のウェブサイトで、おもしろいコンテンツを発信していきたい。



夢があってそれに向かって努力してる人って素晴らしい。

だけど、本当に夢を持ててる人なんて、僕はほんの少ししかいないと思っている。

夢があるんだなって他の人から思われている人の中にも、現実を見て、妥協して、その結果そういう結論に落ち着いたっていう人は多いんじゃないだろうか。

妥協したくないなら、もっと自分探しをしたっていい。別に生き方に芯が通っていなくたってかまわない。

僕はあまり、周りの人から自分の生き方を承認されたことがなかった。日本において「将来何がしたいのかをはっきりさせていること」はかなり重要だとみなされている気がする。

だからこそ、同じようなタイプの人がいたなら、その背中を少しでも押したい。



その頃私は二十歳で、思想が強大な力を持っていることを信じていた。

そして自分が存在していると同時に存在していないのを感じることで奇妙な工合に苦しん でいた。

ときに私には何でもできるように思われ、その自信は何らかの問題に当面するや否や失われて、

実際の場合における私のかかる無能さは私を絶望に陥らせるのだった。

私は陰鬱で、浮薄であり、外見は与しやすく、それでいて頑固で軽蔑するときには極端に軽蔑し、

また感動するときは無条件で感動し、何事によらず容易に印象を受け、

しかも誰にも私の意見をかえさせることはできないのだった。

(Paul Valery)

大学生っていうのはこういう時期なのだと思う。いろんな人の言葉に影響を受け、時に自分を過信し、あるいは絶望し、なんとか生きていく。その時に、何かに向かって邁進している人の生き方を、追い求めてしまうこともあるかもしれない。だけど、もともとそういう人とはタイプが違うんだって割り切れば、もっと楽になれる人がたくさんいると思う。



最後に、昔僕がとある人とさし飲みをした時の話をする。

彼は将来貧困に苦しむ海外の子どもたちを救う学校を建てるという夢を持っていると僕に語ってくれた。

僕が「じゃあ、ボランティアとか海外に長期で行ってみるとか、したらいいかもね」と言うと、彼は「そうだねーでもやっぱり、何か違う気がするんだよね」と笑い、結局何かに挑戦することはなかった。

彼が心からそういった夢を抱いていたかどうかについて、僕は定かではない。

だけど夢の確かさなんてどうでもいいのだ。僕が残念だったのは、彼はきっと「貧困」や「海外」や「教育」といったキーワードのどれかには興味があったはずなのに、それを確かめることなくすべての挑戦を諦めてしまったことだ。



今から自分がやろうとすることが、本当に自分のやりたいことかどうかなんてどうでもいい。

それを確かめに行くのだから、違うタイプの人から「もっと考えて行動した方がいいんじゃない?」なんて言われても、躊躇する必要なんてない。

ただ、自分の興味に沿って、飛び込んでいくだけなのだ。





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自分探しは大いにやるべしという意見。あるいは、僕の好きな音楽の遍歴。