Rail or Fly

レールに乗るのか、飛び降りるのか、迷っているきみに届けたい。

鈍さを武器と捉えてみる

このブログを読んでいただいている方のうちどれほどの方がご存知なのかはわからないが、僕は2011年の10月からインドに住んでいる。滞在期間は11カ月。この4月で7ヶ月目に突入する。

今日は僕のインド滞在を通して、「感覚の鈍さ」が自分の武器になりうるケースについて考えてみたい。



インドに向いている人って、どんな人だろう?

向いているという言葉がちょっと漠然としすぎていると言うなら、インドで長く暮らせる人、と言い換えてもいい。

浮かんでくる答えは、カレーが好きだとか、一人旅が好きそうとか、ちょっと変わってる人とか、まあそういったものだろうか。

これまで半年間の経験を通して僕が思うのは、「鈍感な人」である。



この記事における「鈍感」「鈍い」という言葉のニュアンスをつかんでもらうために、僕の大学の経験を話したい。

僕は大学でクラシックギターの部に3年ほど在籍していた。

クラシックギターに限らず、楽器はすべてそうだと推測するが、人によって奏でる音楽というのは全然違ってくる。それぞれの人の演奏には、その人らしさとでもいうべき何かが確実に存在している。

具体的に言えば、曲中の特定の箇所ではメロディーとベースのどちらを強調するのか、「歩くような速さで」とあるがどのくらいの速さに設定するのか、繰り返しの1回目と2回目ではどのような変化をつけるのか、などなどの要素が無数に絡み合って、その人らしさというものが醸し出される。

だから、同じ曲を弾いたとしても同じ演奏はありえない。「もともと特別なオンリーワン」の世界なのだ。

しかし、各人の演奏がオンリーワンだからと言って各人の演奏がそれぞれ素晴らしいとはいかないのが、音楽のおもしろいところであり、また難しいところでもある。「センスがある」という言葉を嫌う人もいるだろうけれど、僕の実感としては、「センス」は実在する。

「センスがある人」の演奏は、聴いていて違和感がない。スッと耳に入ってくる。なんというか、曲のストーリーが一貫しているのだ。特にクラシックギターで演奏する音楽には歌詞がないから、音だけでどれだけ世界を構築できるかが勝負なのだけれども、センスのある人の演奏はしっかりした世界を聴き手に見せてくれる。

そして必然、一貫した世界を聴き手に見せるためには、誰よりも自分自身が、その世界についてのイメージを強固に持っておかなければならない。

その「世界をイメージできるかどうか」というのは、練習ではどうにもならないのだ。練習でどうにかなるのは、「イメージした世界をできる限りそのままの形で聴き手に伝える力」だけだ。だから僕は、音楽の世界には努力ではどうにもならない「センス」というものが存在していると思っている。

(ちなみにこの、「伝えたいこと」と「伝え方」の概念については、いろんな分野に適応できるものだと僕は考えているのだけれど、これは別の物語、また別のときに話すとしよう)



さて、センスがある人というのは、なんというかすごく繊細な人だと思う。もっと言うと、五感をフルに使える人だと思う。

クラシックギターで言うと、まずは自分の弾きたいと思った曲を聴き込んで、ここは自分ならこう弾く、ここはこう弾く、ということを考える。また譜面を見て作曲者の意向をできるだけ取り入れつつ、自分なりにあれこれ工夫する。弾き方や工夫というのは、強弱やテンポ、音と音のバランス、音色などのことを指す。

そして、実際に弾いてみる。クラシックギターという楽器は、エレキギターとは違い指で直接弦を弾く。さらに弦自体の素材が鉄ではなくナイロンのため、多様な音を出すことができる。柔らかい音、硬い音などを弾き分けることも可能だ。

ざっとこれだけでも、聴覚、視覚、触覚といった五感の中でも代表的な感覚が、いろんなところで使われていることがわかるだろう。ちなみに、脳が何かをイメージしている時というのは、何かを見ている時と同じように視覚野という部分が活性化しているらしいから、自分の中に世界を構築している時も、感覚器官を使っていると言える。



僕はずっと、こういった「センスのある人」に憧れてきた。それはきっと自分がそういった人間ではなかったからだと思う。

僕はどうしても、自分の中に音の世界を構築することができなかった。もしかすると歌詞のある(自分の得意な「文字」の使える)音楽だったらもう少しうまくやれたかもしれないけど、それはわからない。とにかく、僕自身は自分の中の「センスのある人間」の定義には当てはまらなかった。

そして、僕のいたギター部には僕の思う「センスのある人」がかなりいて、自分にとってそういう環境はコンプレックスをもたらすものだった。



さて前置きが長くなってしまったが、インドという国はとにかく五感を刺激する国だ。

暑いし臭いし料理は辛いし、そこらへんに人がうじゃうじゃいるし、路上ではひっきりなしにクラクションが鳴るしで、感覚の休まる時がない。

僕のこれまでの滞在中に日本から何人か友人が来たが、その多くが「刺激だらけでストレスのたまる国だね」と言っていた。そのうちの一人は、おそらくストレスのせいで体調を崩し、ずっと調子悪そうにしていた。

確かに、僕も最初に来た時には「うるせー国だなぁ」と思った。だが、1日か2日すれば、別に気にならなくなった。また、インドの洗礼とも言われる下痢も、今まで一度風邪をひいた時になっただけで、後はいたって健康体で暮らせている。これはもちろん僕を強い身体に産んでくれた両親のおかげということもあるだろうが、精神的に参っていないということも要因としては大きいように思う。

要は、僕は「感覚が鈍い」のである。

鳴りやまないクラクションの音も、道端のいたるところに捨ててある生ゴミの腐臭も、スパイシーの一つ覚えのような料理の味も、ねっとりと絡みつくような暑さも、つねに視界に2,30人の人間がうごめいていても、あまり気にならないのだ。

そういえば昔とある人に、「さけくんは何を食べても美味しいって言うだろうだから、お店選ぶの難しいんだよね」と皮肉交じりに言われたことがあるのだが、辛さに限らず、僕は美食といった言葉に縁遠い人間だと思っている。



あくまで僕の推測ではあるけれども、いわゆる「感覚の鋭い人」、上の方で僕が述べた「センスのある人」がインドに来たら、最初はカルチャーショックを受けて何かしらインスピレーションが湧くかもしれないけれども、そのうちにありあまる刺激を受け止めきれなくなって、参ってしまうのではないだろうか。

これはもちろんものすごく極端なものの見方だけど、あながちそう外れてもいないんじゃないかなとも思っている。

もちろん、すべての人がインドみたいな国に来て長期間暮らす必要なんて少しもない。僕と同じ意味で「センスのなさ」に絶望している人に、「いや、見方を変えればそれって武器になるんじゃないか」って言いたかったのだ。

何事も、とらえかた次第なのだ。




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