前のエントリーから1カ月以上間が空いてしまったが、とりあえず僕は無事に日本に帰った。
インドで過ごしたあの10ヶ月はどこか異世界での出来事のようにも感じられるけれど、未だ片付ける気にならない半開きのトランクや、ズボンのポケットに入っていたインクのにじんだローカル電車の切符などは、まぎれもなく僕がインドで生きていた証である。
しかし、思い出にふけっている時間はあまりない。僕は3年生の後期から、大学に復学することになる。
大学生というモラトリアム期間の中の、そのまた長い中休み、1年半の休学期間がもうすぐ終わろうとしている。
それを振り返るという意味も込め、今日は「休学とは何か」について書いてみようと思う。
先日、東京大学が「数年後の秋入学の実現」を本格的に導入する、というニュースがあった。
東京大学が全面移行に動き出した「秋入学」のメリット・デメリット
(すでにリンク切れのソースが多いので、NAVERまとめのページを載せています。)
秋に学期の始まることが多い海外の大学にならうことで留学生を取り入れることが目的であり、また日本の大学生に対しては高校卒業から大学入学までの半年間というまとまった時間(ギャップイヤーと呼ばれるらしい)を使い、なにか有意義なことに取り組んでほしいという。もちろん、入学前のみならず卒業後も半年間の空白期間ができる。
また、友人がSNSでシェアしていたこのような記事がある。
いずれからも、長期間のまとまった時間を使い、自分のやりたいことにどんどん取り組んでいこうよ!というメッセージが読み取れる。
休学なりギャップイヤーなり(呼び方はなんでもいいが)、まとまった時間を使って何かに挑戦することは素晴らしい、そんなキラキラしたメッセージが透けて見える。
なんというか、息苦しさを感じる。
「自分のやりたいことをやろうぜ」と背中を押すメッセージのはずが、逆に「やりたいことをやらない人間は悪だ」というメッセージに、すり替わってしまっているように思える。
その息苦しさは、「みな自分が何をやりたいのかをはっきり自覚しているはずだ」という前提から生まれる。
休学は、やりたいことをやるための手段である。その意見は正しい。正しいからこそ、「やりたいことのない人が休学しちゃだめなの?」と無邪気に問うことができない。
実際、休学をして〜をやった、という人のブログを読むと、その人がいかにはっきりした夢や目標を持ちそれを叶えるために休学をしたかということが痛いほどわかって、「ああ、こんなにしっかりした夢がないと休学なんてしちゃいけないのか」と、自分の卑小さが嫌になる。
でも、僕は決してそんなふうに思う必要はないと思う。
休学なんて大した理由がなくてもやればいいと思う。ユメ、ココロザシといった大そうなキーワードを振りかざす必要なんてない。
自分が将来何をやりたいのかわからない、それを当たり前のことだと受け入れたらいいんじゃないか。
「違うタイプの人に、価値観まで破壊される必要はない」をはじめ、何度もこのブログで書いているように、飛び込む前に水から上がった後のことをあれこれ考える必要はない。
そして、今なんとなくやってみたいことがあったり、大学生活がこのまま4年で終わってしまうのはもったいないなぁなんて思ったりしている人が、気軽な気持ちで休学という選択肢を選ぶということも、あっていいんじゃないかと思う。もちろん、自分にそれを許してくれるような環境かどうかということを考える必要もあるだろうけど、それも参考程度で良いと思う。自分の人生だから、ワガママ言えばいいのだ。
そんな人にとって何かしら参考になるように、この記事では「休学をして〜をやりました」という、目的ありきで休学をして何を成し遂げたかということを書くのではなく、休学をすると自分にどんなことが起こるのかという、「休学それ自体の影響」について書いてみたい。
実は、「休学それ自体の影響」というのは、一つしかない。
それは、大学に〜年に入学した、という横並び一線の同期の流れから外れるということだ。
1、2年生で遊び、3年生で就活あるいは院試勉強を始め、4年生で就職先や大学院を決め、理系の人はさらに2年後に、就職するか学問を続けるかの選択をする。一見いろいろな人生があるように見えるんだけど、それはヨコから見た時の話で。タテから見ると、同じくらいの歳の人が同じタイミングで同じ行事に取り組んでるにすぎない。
休学を経験するということは、その横一線の並びから周回遅れにされるということなのだ。
横一線の並びから周回遅れにされるというのは、経験上とても辛いことだ。
「そんなの大したことじゃない。自分にはやりたいことがあるから」と言える人は、休学を完全に手段として利用できる人。ものすごく強い人だ。そして、僕はそういう人はこの記事の対象にしていない。
僕も「休学してインドに行くなんてすごいよね〜」とよく言われるんだけど、自分の中では、休学を手段として捉えている人と自分との間には、大きな違いがあると思っている。
どちらもわが道を突き進んでいるようにも見えるかもしれない。しかし僕の場合、それは人から見た印象にすぎない。
内面では、すでに社会に出て働いている同期と自分とを比べて焦っているし、インドにいた時は毎日日本に帰りたくてたまらなかった。それでも生きるために毎日仕事をする。オンボロアパートでやっと暮らせるだけの薄給をもらうため、今目の前にあることを一生懸命やる。やるしかないのだ。
SNSでも、学生時代に忙しく写真や日記をアップしていた友人を、この4月からめっきり見かけなくなった。たまにメールをやり取りすれば、その背後にある厳しい世界がうかがい知れる。
そして僕は悟るのだ。自分はもう、彼らと同じ集団に属してトラックを周っているわけではないのだ、と。
適切な人間がポジションに就くということはなくて、ポジションがそこに就いた人間を見合った人間にする、とはよく言われることだけど、休学を経験すると、否応なく「自分の人生を他人と比べること」ができなくなる。
僕はもともと「人と比べてどうか」ということを気にする人間だった。大学の選び方も、浪人したくないという気持ちも、3年の夏に就活を一生懸命やったのも、全部その気持ちが原動力になっていた。
今だってそうだ。「自分の夢を叶えるために、たった一度きりの人生を好きに生きるぜ」なんてかっこいいこと言えない。生きるためにある程度のバランス感覚は必要だと冷やかに呟く、世俗的で小市民的な一人の人間でしかない。
それでも、周回遅れになってしまったトラックを眺めつつ、人生の楽しみは集団の先頭でゴールテープを切るだけじゃないんだなと思うようになるくらいには変わった。
休学を経験したことで、僕は「他人と比べなくても良いのかもしれない」と思うようになった。それが良いのか悪いのかはわからない。徹底的に同期の中から抜きん出てエリートコースを突き進む、そういうルートだってあるだろうし、そこでしか得られないものもあるだろうから。
だけど、「人と比べてナンバーワンになること」よりも「誰もやったことのないおもしろいことがしたい」という気持ちの方が強い自分としては、休学を経験し周りと比べる必要がなくなったことは、プラスだったかなぁと思う。
それについては、前に書いたこの記事の通りだ。
「ストレートで新卒入社するのは、ある種の人にとっては負け癖を付けることに他ならない」
そう考えると、インドに行ったことではなく休学をしたことそれ自体が、自分にとっては視野を広げてくれたと思っている。
「インドの若者は、『自己実現』の夢を見るか」でも書いたように、僕ら日本の若者は、どこかで「これをやっていたら、こういう状態なら、自分は幸せだって言い切れるような何か」を、見つけなきゃいけない。
それは、決して先頭でゴールテープを切ることだけに限らない。
ならば、人生のどこかの時点で、誰かと比べることをやめ、自分がどう感じるかを絶対の価値に置けるようになる必要がある。
休学だけじゃない。浪人、留年、就職浪人、大学や会社を辞めた…誰かと比べる必要などないことを感じさせてくれるイベントはたくさんある。
誰かと同じであることに慣れ、歳を取るごとに短くなっていく時間の感覚に押し流されてしまう前に。
加速する人生にディレイをかけて、舵を再び見つけ出すのだ。