Rail or Fly

レールに乗るのか、飛び降りるのか、迷っているきみに届けたい。

知らない人にブログの記事を読んでもらう方法

この「Rail or Fly」を書き始めて半年。けっこういろんな方がこのブログを読んでくれるようになった。

リアル世界で会う友人から「読んでるよ」と言われるのはどうにもくすぐったいけれども、同時にとても嬉しい。「こいつは文章を書くのが好きなんだな」と思ってもらえることは、自分の一面を知ってもらえるということだからだ。

もっとも、「ブログであれだけ長文書いてるんだから書けるでしょ」と、文章を書く仕事を無茶ぶりされるシーンもあるのだが…。

そんなふうに自分の文章を読んでくれる人が増えてきたわけで、このブログに搭載しているSNS用のシェアボタンを押してくれる人も増えてきた。「いやいや一ケタやん!」なんて言わないで。昔に比べると、ほんと多くの人が読んでくれてるから。

ブログのアクセス数もGoogle Analyticsを見る限りだんだん増えてる。

しかし、アクセス数が多いからといって、そのブログに人を惹きつける力があると言えるかどうかはわからないと、僕は思う。

本当に見るべきなのは、「知らない人にも自分の発信したものを良いなぁと思ってもらえるか」という、言うなれば貫通力とでも呼ぶべき力だ。



文章でもなんでも、およそ「人が発信するもの」について、それを見た人が発信者に近しい存在であればあるほど、良いなぁと感じるハードルは低くなる。

Facebookに写真をアップすることを考えてみよう。(こんなことはあり得ないが)もしも自分のフレンドが、自分のまったく知らない人ばかりだったら?よほど素晴らしい、それ自体魅力的な写真を載せなければ、like!はつかないだろう。あれは、自分の友人が見てくれているからこそ、しょうもない風景の写真やピンボケした自分の写真に、like!を押してくれるのだ。

あるいは、音楽について考えてみよう。バンドでもピアノでも合唱でも、知っている人がそこで弾いたり歌ったりしているなら、良いなぁと思う可能性は非常に高い。僕は時々バンドをやっている友人のライブを聴かせてもらうけど、普段自分が聴いているジャンルの音楽でなくても、あるいはプロではなくアマチュアの演奏であっても、感動することは多い。

別に「友達だから聴いてやるよ。あれ、意外に上手い…」と思っているわけではないのだ。本当に、良いと思うのだ。

それは、普段のその人を知っているからだと思う。

普段のその人の雰囲気、立ち居振る舞い、考えていること…発信されたもののバックグラウンドとなるそれらの要素を知っているからこそ、「やっぱり、あいつはああいうものを発信するんだな」あるいは「あいつ普段はああだけど、こんな一面もあるんだ」と感じることができ、心に引っかかるのだと思う。

だから、たとえばブログを書いている人で、SNSのフレンド数の多い人なら、ブログの更新情報をSNSに流せば、反応はある程度見込めるだろう。



問題は、その後だ。面倒なので、「発信」という一般論から、直前に挙げた「ブログを書く」という具体例に絞って突っ走る。

リアルの友人は、自分のことをもともと知っている。だからある程度自分の書いている記事を理解してくれる。

友人に見せている段階では、どんな当たりさわりのないことを書いても一定の反応がある。一昔前の話であるが、mixiで何百というフレンド数を持つ友人の日記のコメント欄はすさまじかった。ただ日常を書きつづった日記に集まるコメント。それは、「その人だから」集まるコメントだった。内容は、あまり関係がないのだ。

しかし、Facebookで友人の押したlike!につられてリンクを踏んだ友人の友人は、自分のことを知らない。あるいは、検索エンジンに引っかかって偶然来てくれた人も、自分のことを知らない。ブログに来てくれた見知らぬ人の心をつかまえるのには、どうしたらよいのだろうか?

比喩的に言えば、知り合いでないがゆえに高く設定されている「良いと思ってくれる壁」をぶち壊す貫通力が必要なのだ。



では、その貫通力とはなんだろうか?それは、「心の深いところにおける共感」だと思う。

僕は、ブログの記事の内容というのはある種のトレードオフにあると思っている。それは、「万人に納得してもらえる内容」と、「人に深く共感してもらえる内容」だ。



たとえば、ありきたりなアドバイスや格言、ことわざの類は、「万人に納得してもらえる内容」である。人の話はよく聴けとか、第一印象が大切とか、早起きは三文の得とか、言うなれば「当たり前すぎて『そりゃそうですよね』としか言えない言葉」である。もちろん、その言葉の正しさを示す根拠や切り口がおもしろければ、より受け入れられやすくはなるだろうけれども、基本的には当たり前すぎてつまらない。

この手の言葉が影響を及ぼすかどうかは、だいたい発言する人の社会的な存在感によるところが大きい。たとえば以下の一文。

始まりと呼ばれるものは、しばしば終末であり、終止符を打つということは、新たな始まりである。終着点は、出発点である。

これはイギリスの大詩人、T・S・エリオットの言葉。まあ、そうだよねという感想以外言えないような名言である。「始まりは何かの終わりであり、終わりは何かの始まりである」…僕にかかるとどうしようもなく陳腐な言葉になってしまうけれども、言っていることはつまりはそういうことだ。同じような趣旨のセリフを世界中でいろんな人が言っていると思われるが、それは歴史には残らない。有名な人だからこそ言葉に重みがある。



対して「人に深く共感してもらえる内容」というのは、「そうそう、(表だって言いにくかったけど)実は俺もそう思っていたんだよ!」と、人の心の深い部分でつながりあう感覚を人に与えるものである。

たとえば僕の過去の記事に「違うタイプの人に、価値観まで破壊される必要はない」というものがある。このブログを書き始めてから1カ月もたたないくらいに書いた記事だったけど、書いて半年以上経った今でも、Twitterで「すごく励まされた」という感想を見知らぬ方からいただくことがある。

この記事は要するに「やりたいことが変わってもいい。その過程で、自分という人間の好き嫌いがだんだんわかってくるから」ということを主張していた。

どちらかというと、「やりたいことが変わる」というのは、一般にはネガティブに受け止められることである。「君はどうして生きているの?」と聞かれた時、自分の生き方にわかりやすい一貫性があれば、胸を張ってそれを言える。一見、世の中には「自分の人生のゴールを見つけられた人」ばかりに見える。

ただ、案外そういう人は多くなくて、「自分の生き方に無理やり一貫性を持たせようとしている人」(せっかくこの大学のこの学部に入ったんだからこういう勉強をしなきゃ、と思っている、等)や、「新しいことに挑戦してみることをためらっている人」(挑戦しようとしていることが、本当にやりたいことじゃないかもしれなくて、それだったら時間の無駄になっちゃうかもと思っている、等)がけっこういる。今なんとなくやりたいことに踏み切れない、そんな人たちだ。

そういう人たちに向けて、僕は「一貫性は必ず後から見えてくる。だから今は、直感的にやりたいことを優先したらいいんじゃないか」と書いた。誰よりも僕自身が、そうやって「生き方に一貫性を求めてしまう」人間だったから。

そうすると一歩を踏みきれず悩んでいた人は、「そうか、やりたいことが変わってもいいんだ。俺が今やりたいと思っていたことをやってみよう!」と大きく頷けるわけである。

しかしこれは、限られた人にしか共感を呼ばない。自分が人生で何を成し遂げるかすでにわかっている人は、「いやいやゴール決めずに何かをやってみるのはダメでしょ」と感じるかもしれない。万人に納得してもらえる意見ではないのだ。



こうやって見ると、「万人に納得してもらえる内容」と「人に深く共感してもらえる内容」がトレードオフなのは当たり前である。人に深く共感を与えるには、えてして狭く個別的な(実存的な)物事の解釈にならざるをえないからだ。

「賭博黙示録カイジ」の鉄骨渡り、カイジと佐原が死にものぐるいで鉄骨を渡りきろうとするシーンで、こういうナレーションがある。

繰り返される通信、その言葉のやり取り

通信は基本的に一方通行だ、返信があったとしてもどこまで理解しての返信やら・・・

たぶん半分も理解していないだろう。しかしそれで仕方がない、通信は通じたと信じること。

伝達は伝えたら達するのだ、それ以上を望んではいけない・・・理解を望んではいけない・・・・!!

そう、この世の中では、自分の言いたいことを、たぶん相手はきちんと理解していない。

そんなふうに心が一方通行な状態でもまだ理解されやすいのが、先ほど述べた「万人に納得してもらえる内容」、格言やことわざ、ありきたりなアドバイスなのである。

さらに言えば、人が人の言っていることに「心から共感する」ことなど滅多にない。

であるがゆえに、人は「たまたま」誰かと自分の考えていることが一致していた時に、深い喜びを覚えるのである。

これが、「見知らぬ誰かが自分のブログの記事を良いと感じるかどうかの壁」をぶち壊す貫通力の正体である。



「どうやったらブログにアクセスを集められるか」ということは、アフィリエイターのみならず、多くの人が関心を寄せていることだと思う。

もちろん、「需要と供給を考えて」、今世の中に足りていない情報を書くという方法はある。(たとえばこの記事はとても参考になると思う。読まれる記事を書くために、文章技術よりもはるかに有効なこと

しかしそんなふうに誰かの機嫌を取りながらブログを書いても楽しくないではないか。

どうせ文章を書くなら、僕は自分の好きなことをテーマに気持ち良く書きたい。

その時に、表面的なことだけでなく、自分の内面をぐっと掘り下げてみる。そして見つけた自分のごく個人的な価値観を、怖がらずにさらけだしてみる。

インターネットという海のうまい使い方は、投網ではなく、一本釣りだと思う。(鮎の友釣りと言った方が正しいのかもしれない)

マーケティング的な考え方とは真逆に位置するかもしれないけど、少なくとも僕は、これからも自分の価値観を思いっきり叩きつけていきたい。