就職活動も後半戦に入ってきた感のある今日このごろ。
みなさんはどんなふうにお過ごしですか?
今日は、論理と直感について書いてみたい。
(この記事では「論理的」という言葉を連呼するけれども、論理学を一切学んだことのない人間が「筋の通った」という意味で使っているので、よろしくね。)
論理と直感。
この2つの言葉は、よく対置されている。
「感覚的な人間」と「論理的な人間」が対になっていて、「自分はこっちのタイプ」「あいつはこっちのタイプ」みたいなことは、友達同士でよく話したりするのではないだろうか。
あるいは、人生の様々な選択の場面(行きたい大学や結婚相手を選ぶといった大ごとから、レストランでどの料理を頼むかといった些細なシーンまで)において、「直感的に」あるいは「論理的に」決める、という決め方もある。
例えばレストランで料理を決める場合、「なんとなく目についたから」「美味しそうだから」という理由で選ぶなら「直感的」だし、「最近食べてないから」「栄養バランスを考えて」という理由で選ぶなら「論理的」となるのではないだろうか。
したがって、何かを選択する時に、僕らはなんとなく「直感的な選び方」「論理的な選び方」の二つが並び立つように思っている。
しかし、実際人が何かを選択する時は、究極的には「直感的に選ぶ」しかありえないと僕は考えている。
もちろん、理由付けはいくらでもできる。だが、一番根本のところまでさかのぼってしまうと、それ以上「論理的に」なることはできないのだ。
例えば、就職活動の面接では、「論理的に」話すことが求められる。
「なんでインドに行ったの?」
「インド人の生き方が知りたかったからです」
「なんでインド人の生き方が知りたかったの?」
「人の生き方を知るのが好きだからです。日本でもさし飲み対談というものをやっていました」
「なんで人の生き方を知るのが好きなの?」
「人生観や価値観はこの世界の捉え方の一つで、僕はそういった『この世界の捉え方』を知るのがすごく好きだからです。理学部で学ぶことも、『この世界の捉え方』です」
(僕の面接の一シーンです。)
こうやって「なぜ?」と問いかけていくと、どこかで「理由はわからないけれどもなんとなく」と言わざるを得ない部分が出てくる。
それは、中学数学で学ぶ「定義」とよく似ている。
自分自身を規定している、その一番核となる価値観や性格というのは、「論理的に」説明することができない。「それはそういうものだから」としか説明できないのだ。
こういった構造を考えると、僕は、論理というものは、自分の直感を他者にわかりやすく伝えるための道具でしかない、と思う。
ブログの記事でも、「この人には共感する!」と思えるものがある一方で、「ものすごくロジカルに迫ってくるんだけど、なんとなく違うんだよなぁ」と感じる記事も、またあるはず。
それは、その記事の書き手が根本に持っている価値観が、自分の価値観と相容れないからだ。
論理と直感を対置するのではなく、直感という核の周りに、それらをつなぐ論理というシナプスが張り巡らされている、そんな構造を頭に浮かべて、人と会話したいと思う。