Rail or Fly

レールに乗るのか、飛び降りるのか、迷っているきみに届けたい。

心の中の「憎悪」の使い方

早いもので記事も10個目です。って更新頻度はめちゃくちゃ遅いですけどね。

いつもご覧いただきありがとうございます。



「あいつの生き方、別に悪いことしてるわけじゃないんだけど、なんとなく気に食わないんだよな」

「あの人の意見にはいつもなぜか違和感を覚えてしまう」

多くの人がそういった経験を味わったことがあるのではないかと思います。ちょうど今この文章を読んで、特定の知人のどなたかが思い浮かんだ方もおられるでしょう。

たぶん、これは生きていく上で必ず味わう気持ちなんだと思います。

この「なんとなく誰かや何かを嫌う気持ち」を大切にしてみてはどうか、ということを、今回の記事では考えてみたいと思います。



「なんとなく誰かや何かを嫌う気持ち」を、この記事では以下「憎悪」と呼びます。

まずは僕の抱いている憎悪のイメージを読者の方に共有してもらうために、具体例として僕自身に関する憎悪の例を2つあげます。

(僕自身の例をあげるのは、どうしても憎悪の例は誰かが誰かを良く思っていないことが例にあがってしまうためです。こういうネガティブなことはあまり他の人の例をひきたくないので)



まずは他の人から僕への憎悪について。

僕はよく「君って何がしたいのかわからないよね」と言われます。

これは決してプラスの評価ではありません。「良い意味で」と頭につけてもらえた場合は褒め言葉なのですが、むしろ「あいつなんかいろいろやってるみたいだけど自分にはよくわかんないね」という気持ちの控え目な言い方の場合もあり、これはまさに憎悪だと思います。

誰からこのような言葉をかけられることが多いかと言うと、特に、自分の好きなことがはっきりしていて、自分の生き方というものがはっきり定まっている人たちです。具体的には、たとえばプロ並みの技術と思い入れのある楽器の趣味があったり、研究の道をきわめていこうと思っているような人、ですかね。

僕のようなゼネラリスト大好き人間とは真逆を行く、スペシャリストタイプの人と言ってもいいかもしれません。

もちろんスペシャリストを目指す人すべてがそうだというわけではまったくありませんが、傾向としては、僕の生き方になんとなく違和感を覚えるのはそういった人だと思います。



また逆に、僕が憎悪を抱く考え方について述べてみます。

少しややこしいのですが、僕は「他人の生き方に口を挟む人が嫌い」なのです。

「君の生き方は、ここをもう少しこうしたら良くなるんじゃないかな」と言うのはいいのです。なぜならこれは建設的な批判だからです。

しかし、これと言った理由もなしに他人の生き方をあーだこーだ言うのは嫌いなのです。そう、それこそまさに「自分の憎悪の赴くままに人を貶める」ことが嫌いなのです。

その人の人生、その人の経験は、その人にしかわからない。外野がその選択について、あれこれ評論家ぶって論じるべきではない。そう思います。

でも僕のこういった考えも「他人の生き方をあーだこーだ言う人が嫌い」という憎悪ですから、本当は同じ穴のムジナなんですけれども。



憎悪というのは、その人の価値観です。

以前「初対面の人は怖くない」という記事で、3Cという言葉について書きました。

繰り返しになりますが、3Cというのは人の価値観を表す言葉として僕が勝手に使っているキーワードで(ビジネス用語の3Cにひっかけてます)、Curiosity(好奇心)、Concept(概念)、Change(変化)の3つの単語の頭文字です。

つまり、その人が好きなもの、その人が大事にしている言葉や考え、その人が内面的に変化したエピソードについての話が、その人の価値観を表しやすいということです。

憎悪というのも、3Cには入らないものの、そのような人の価値観の一部です。

価値観というのは、それ以上理由付けできないもの。良いも悪いもありません。

ですから、憎悪も自分の価値観だと割り切っていいのです。

誰しもが自分の中に、嫌いな生き方や考え方を持っている。それでいいのです。



大学時代には、自分は将来どんなふうに生きていきたいのだろうかということを少なからず考えるものだと思います。

普段の生活において自問自答するのみでなく、就職活動をする方なら、企業の面接で「あなたはどんな人間で、将来どんなことがしたいのですか?」という質問を何度となく浴びせられることになり、必然的に考える必要が出てきます。

そんな時に、自分があんな経験やこんな経験をしてみたいと思ったことを思い返すことになります。自分がこれまで辿ってきた無軌道に見える人生の場面場面を紡ぐ「価値観」という名前の糸を、どうにかして選り分けようとします。

これが就活でいう自己分析というものでしょう。



さて、価値観というとどうしても「好き」で表されるものだと思いがちですが、僕は「憎悪」の方が自分の行動をよりうまく説明してくれる場合もあるのではないかと考えています

僕はこれまで、「より広く世界を見たい」という気持ちにしたがって行動してきました。もう少し正確に言うと、相反するとされている世界のどちらにも足を踏み入れてみたいという思いが、僕を今まで動かしてきたのだと思っていました。

具体的には、高校まで6年間続けていた野球をあっさりやめて、大学では音楽系のサークルに入ったこと(運動⇔芸術)、またそのサークルとして、本来自分が好きな軽音(ロックミュージックをやる部)ではなく、クラシックギターを弾く部を選んだこと(ロック⇔クラシック)、

大学で理学部に所属しつつ、古典小説を自分なりにいくつも読んでみたこと(理系⇔文系)、あるいはベンチャーや海外の企業での長期インターン(ビジネス・実学系統の行動)に挑戦してみたこと(虚学⇔実学)、

そもそも大学受験時において、国公立後期の出願時に海洋学を本格的に学べる大学に出願していたにも関わらず、土壇場で後期試験を受けず、研究職だけでなくより広い進路の選択肢がある京大に行こうと決断したこと(スペシャリスト⇔ゼネラリスト)、

こういった行動を見ていただければ、言わんとする僕の価値観がなんとなくおわかりになるのではと思います。

それで前述のように、僕は今まで自分の価値観は「いろんな世界を見てみたい」というものだと思っていたんですね。「いろんな世界を見ることが好きだ」と思っていた、と言ってもかまいません。

しかし今あらためて自問してみると、自分としては「いろんな生き方をしている人たちが作るそれぞれの世界があって、それを最初から食わず嫌いするのは非常によろしくない」という憎悪に突き動かされていた、と言った方が行動原理を説明する際にしっくりくるのです。これはフィーリングであり、数値化できるものではないのですが。

僕は、たくさんの人と2人でお酒を飲みその人の話を聴く「さし飲み対談」というものをこれまでやってきたのですが、これも同じ憎悪に基づいて説明できることです。つまりは「人の生き方を食わず嫌いするべきでない」という憎悪が僕の中にあったんですね。

ですから、自分の行動を振り返ってみる時には、「〜が好きだから・・・をした」だけでなく、「〜が嫌いだから・・・をした」という説明もあるということを頭に入れておくといいのではないかなと思います。



ただ、憎悪を持つのはまったくかまわないのですが、それを誰か特定の個人に宛てて表明するというのは、僕は絶対にやめた方がいいと思います。

特にお酒の席などでは、日頃なんとなくよく思っていない人、あるいはその人自体は好きであってもその人の考えのある一部分がどうにも受け付けない人などに対して、思いっきり自分の憎悪を吐きだしてしまう光景を目にすることがあります。

お酒が入っていたとしても、そしてたとえ表面上はそのようなことを言われた人が楽しそうに受け答えしているように見えたとしても、人は自分のことを理不尽に悪く言う人のことを決して忘れないものです。そしてさらに恐ろしいことに、こういうことは言った方は忘れているものです。

こんなことを書くのも、自分がそういったことを言われた経験があり、「僕は絶対に他の人に対して憎悪をぶちまけるようなことはしないぞ」と固く心に決めてはいるもの3の、もしかするとどこかで同じような罪を犯している可能性もあり、あらためて自分を戒めたいという気持ちからです。

憎悪は特定の個人相手に表明するものではありません。自分の心の中にそっと秘めて、プラスのエネルギーに変えるべきものです。



プラスのエネルギーに変えるとはどういうことなのか?

それは、憎悪の対象を人からモノ、そしてさらには建設的な批判へと変えていくことです。

つまり、「あいつの考え方は気に食わない」という個人的な人への憎悪があるとすれば、まずは「こういった考え方が気に食わない」と、考え方に対する憎悪へと変化させ、さらに「こういった考えをしているとこういう部分が問題になるからこのようにしてはどうか」と、代替案を示しながら批判するようにします

この過程で、憎悪の対象は個人的な一人の人間からだんだんと抽象度の高い問題へと変わっていくことになります。そういう意味では、「憎悪する対象の抽象度を高くしていく」というのも、プラスのエネルギーに変えるための方法と言えます。

僕はPeople Interestというサイトで「僕らのガチ飲み!」というコンテンツを運営しているのですが、このコンテンツを例にとって上記のことを具体的に説明してみます。

まず簡単にこのコンテンツの概要を書くと、僕が知人・友人と2人でお酒を飲み、そこで交わした対話を録音し、文字に起こして発信するというコンテンツです。

先ほども書いたように、僕の憎悪は「人の生き方をよく知りもせず自分の憎悪に任せて攻撃する行為」に向けられるものでした。この時点で憎悪する対象はすでに人ではなくモノになっていますが、もちろん最初は誰か特定の個人の考え方への違和感から自分の憎悪を見つけたのだろうと思います。

それが「人の生き方を食わず嫌いしていると、自分にとっても勉強になる他の人の生き方を切り捨ててしまうことになる。それは非常にもったいないので、相反するように見える世界の両方を見てみた方がいいのではないか?」という建設的な批判に変わります。それを体現しているのが「僕らのガチ飲み!」なのです。

コンテンツの理念は、「身近にいる、いろんな生き方をしている人の考えはどれもおもしろいよ」というものです。これは非常にソフトな言い方になっていますが、この記事をここまで読んでくださった方なら、コンテンツ理念の向こう側に僕の憎悪が見え隠れしているのを感じることができるでしょう。

こうして憎悪をプラスのエネルギーに変えてやることができます。

(宣伝になりますが、もし興味を持たれた方がいればぜひ一度People Interestをご覧いただけると大変嬉しいです。数人の大学生が、それぞれの好奇心を大切に、おもしろいと思うことを世の中に発信していくウェブサイトです)



僕たちはすべての人に好かれることはできません。自分のやりたいことに忠実に日々何かを発信し続けていればいるほど、自分に対して「合わないなぁ」という気持ちを持つ人はどんどん多くなります。

でもその分、味方もどんどん増えるのです。

僕が好きな言葉に「敵を作らないやつは、味方も作らないんだぜ」という言葉があります。

嫌われてもいいという覚悟さえ持てれば、自分に共感してくれる人が次々に現れ、人生は加速度的に楽しくなっていきます。

ただ間違ってはならないのは、嫌われてもいいというのは、個人的な憎悪をめったやたらにぶつけてもいいんだと開き直ることではないということです。

そんなことをする権利は僕らにはありません。その人にはその人なりの価値観があるのです。

自分と合わない人もいる。その事実を静かに受け入れ、もしも相手に対して言いたいことがあるのなら、代替案を示しながら憎悪を建設的な批判に昇華させていく。

それが「嫌われてもいいという覚悟」なのです。



生きていく中で、ある人の考え方がどうしようもなく受け入れがたいものであることを発見するというのは、往々にしてあることです。

そんな時、どんなふうにその事態に対処していくのかが、人間の器を決めるような気がしなくもありません。

願わくば、自分に対して憎悪を持つ人からさえも、自分にとってプラスになる何かを吸収して生きていきたいなと思います。