Rail or Fly

レールに乗るのか、飛び降りるのか、迷っているきみに届けたい。

自分のせいにして物事を考える癖のある人へ。

大学の友達からは「全然見えない」って言われることも多いんだけど、僕は中学と高校で野球部に入っていた。高校は、激戦区の大阪ということもあり、甲子園なんて夢のまた夢の弱小公立高校だったけど、なんとかベスト8レベルの私学にひと泡ふかせてやろうという感じで練習していた。

野球は好きだったし、上下関係や厳しい練習に代表されるような体育会系の雰囲気というのも、あながち嫌いではなかった。また、高校時代の野球部の同期は、今でも集まっては一緒にバカ騒ぎができる、大切な友人たちである。

僕は基本的に人間関係には淡泊だから(大勢で遊ぶより一人で好きなことしてる方がずっと良い)、あの時野球部に入っていなかったら、こんなに気のおけない友人ができるものなんだということを、ずっと知らずに生きていたかもしれない。

体育会系(とひとくくりにするのもアレだけど)の雰囲気が苦手な人はけっこういるだろう。「なんでちょっと先に生まれただけの人間にぺこぺこしなきゃいけないんだよ」みたいな批判はよく目にする。まあ、この批判については間違っているとは思わない。だけど、僕の場合は先輩がみな良い人ばかりだった(怖かったけど)し、少なくとも僕より1年長く練習しているわけだからその分技術的に上だったということもあって、先輩のことは素直に尊敬していた。

ちょっとばかり先に生まれた人間、とは言え、成長期の1年の差は想像以上にでかい。そして、自分より優れている人を見て「ああ、すごいな」って思うのは、人間として自然な感情だと思う。

「上下関係」の他に体育会系が疎んじられる理由としては、もう一つ「必死で練習しなきゃならない」ってのがある。誰だってきついことはやりたくない。30球ノーミスでノックを受けなきゃならないとか、マメがつぶれてその上にできたマメもつぶれるほど素振りしなきゃならないとか、50メートルくらいの急坂をを全速力で何十本もダッシュしなきゃいけないとか、誰もやりたくない。でもやらないと、自信がつかない。試合に勝てないし、おもしろくない。だからやるのだ。

当時は「なんでこんなにしんどいことやらなきゃいけないんだよ」と思っていたけど、大学受験を始めとする試験や対人関係などあらゆる場面において、自分に自信を持つことがどれだけ大切なのかが理解できるようになった今では、弱小なりに自信を持つために、あの練習は必要だったんだなって思う。

「必死で練習する」というのは、勝利に直結する「自信をつける」ということへの最短ルートだったのだ。



さて、必死で練習する中で、副産物として身に付くものがある。

それは、「あらゆる時も、自分のせいにして今の状況を考える」という姿勢だ。

例えば、個人ノックという練習では、監督が打ってくる数十本のノックをノーミスで受けなければならない。ミスしたらその分本数が増える。つまり、ミスしてしんどい思いをするのは自分のせいなのだ。いくら疲れていても、身体が動かなくても、ミスをした分、負荷は増える。自分のせいなのだ。

校内マラソン大会でも、一定の順位に入れなければ、長距離ランニングをさせられる罰ゲームがあった。

もっと極端なことを言えば、試合で打てなければ、守れなければ、走れなければ、投げられなければ、スタメンから外される。自分のせいで、自分が困難な状況に置かれる。逆に、自分ががんばれば、状況は好転する。あるいは、自分がチャンスで打てれば、チームは勝利に近付く。打てなければ、自分のせいでチームは敗北するかもしれない。

自分には現状を良くするために何ができるか。そういった自責の姿勢が、部活を通して身に付く。僕の高校時代の監督はよく、「自分にベクトルを向けろ」と言っていた。



今自分にできることは何かを考えるのは、基本的には素晴らしいことだ。それがなければ、人間は一つ上の段階に行けない。

たとえば居酒屋のバイトをしたとする。居酒屋が一週間で一番忙しくなるのは、土曜日の夜9時頃だ。仲間のスタッフが今どこで何をしているのかを考えて自分の行動を決める。お客さんが一気に帰って大量の空きテーブルができたら、たとえ自分の持ち場がホールではなくてドリンク作成や料理運びだったとしても、残り物のお皿をすべて下げ、テーブルを拭いて新しいお客さんを迎えられる状態を作るのを手伝う。テーブルの用意が遅れてお客さんが別のお店に行ってしまったら、自分が片付けるのを手伝えなかったからだと考え、次はもっとスムーズに手伝えるようにしようと反省する。

あるいは、お店の売り上げがどうにもよろしくないということを聞いたら、売り上げを上げることに自分はどうやったら寄与できるかを考える。僕の場合は「宴会トーク」とよばれる飲み放題トークの練習をして、団体のお客さんが来たら「お前行って飲み放題取ってこい!」と店長に言ってもらえるようにした。(飲み放題にすると、基本的に客単価が上がることが知られている。)本当かどうか知らないけど、僕がシフトに入る時は、お店の売り上げが5%くらい上がると店長が言っていた。

自分が手持ちの武器で今何をすれば状況を改善できるのか。野球部を通して僕はそれを学び、これまで生かしてきた。



ただし、もしも自分にはどうにもできないことまで「自分のせいにして解決しよう」としてしまうと…。けっこう、きついんじゃないかなぁと思う。

それを痛感したのが、今回のインドでのインターンだった。

もう何度かブログで書いていることだけど、僕はインドで日系企業の方に不動産を紹介するサービスに関わっている。何月何日に引っ越すので、それまでに掃除や家具・家電の配送を済ませておく…日本だと当たり前のことなんだけど、ここでは全然思い通りにいかなかった。掃除をしたと言われていざ行ってみると、到底きれいだと言えないクオリティ。家具や家電が何日も遅れてようやく届く。当然、顧客は怒る。

掃除の状況とかなら、最悪でも自分がチェックしに行けるからまだマシだ。現場で指示を出すこともできる。だけど、家具・家電の配送だけは、僕がどうこうできる代物じゃないのだ。いついつまでに配送しますと家具屋が言っても、僕は信じられなかった。だけど、いつまでに配送されるかがわからなければ、顧客は引っ越しの予定を立てられない。できるだけ早く引っ越しがしたいと言われてしまえば、僕には家具屋に言われた通りのことを伝える以外に道はない。そして…ほとんどの場合、淡い期待は裏切られるのだ。

僕の会社が家具・家電屋と提携関係にあったり、僕が配送人ときちんと話ができるくらいヒンディーが話せたなら、おそらく僕がこの問題を解決することもできたと思う。ただ、言い訳になってしまうのだけど、1年弱のインターンでは、僕はそこまで到達することができなかった。

僕ができるおそらく唯一のことは、いかに非常識的なことがこの国では起こるのかをあらかじめ顧客に説明することだ。少なくとも、何が起こりうるのかを知っていれば、人間はそれに耐えることができる。(それだって、たくさんの方に迷惑をかけてようやく気付いたことなんだけど…。)

僕や、僕の会社だけががんばってどうにかなることなら、「あらゆることを自分のせいにして考える」というのは良い方法だと思う。だけど世の中には、自分のせいにしても結果が変わらないことだってあるのだ。それを、このインターンを通して身体と心で感じられたのは、悪くないことだと思う。

たぶん、自分にはどうにもできないことを自分のせいにして考え続けると、どんどん「自分はダメなやつだ」という考えが頭を支配するようになり、最終的には鬱になってしまうのだと思う。僕の親しい人に鬱になった人間がいたのだけど、やはり同じように、すべてを「自分のせいに」してしまって鬱に陥ってしまったと言っていた。

自分にはどうにもできないことも、世の中には存在する。マッチョになろうと意気込むだけでは、打ち倒せない相手がいる。僕の場合、それはインドだった。



今自分が取り組み、解決しようと思っていることは、いったい自分あるいは自分の手の届く範囲の努力で解決できることなのだろうか。

それとも、他人や環境のせいにしてしまって問題ないことなのだろうか。

究極的には、どんなことも自分のせいにして解決することはできると思う(「7つの習慣」で、インサイド・アウトっていう言葉が出てくるけど、それと同じ)。ただ、能力、権力、あるいは経済力などが、あまりにも多く(大きく)必要になってくる場合がある。僕のインターンで言えば、僕がヒンディー語を話せたら(能力)、あるいは僕が家具・家電屋に協力を持ちかけるという意思決定ができる立場にあったら(権力)、自分の力でなんとかできたのだと思う。だけど、限られた時間内ではそれらの能力や権力を手に入れることはできなかった。そういう時には、諦めも必要なのだろう。

自分が悪いのか、あるいは環境が悪いのか。簡単な問いではないけれども、「どうやったら解決できるのだろうか」と悩みすぎてしまったら、一度自分を客観視して、この問いを投げかけるようにしたい。

直感的にわかると思うけど、「この前のあれ、あいつのせいなんだよね」とあっさり言える性格の悪い人間は、たぶん一生鬱なんてならないだろう。そういった図太さ、厚かましさだって、生きていく上では時として必要なのだ。

自分がこうしていればよかった、こうするべきだった、そう考えるのは全然悪いことではないのだけれども、少しだけ立ち止まって、たまには他人のせいにして、悪態をついたって良いと思うんだ。