僕は小さい頃から活字が好きで、小学生の頃から家にあった本をとっかえひっかえつまみ読みしていた。
特に読書論とか人生論とかを語った本でよく目にしたのが、「大学時代には本を読むべきだ」という言葉だ。
これは本に限らず、高校生が先生や先輩に「大学時代にはどういうことをするとよいと思いますか?」と質問した時にもよく返ってくる答えだし、またネット上のヤフー知恵袋のような質問サイトでもよく目にする回答でもある。
その後にはこう続く。なぜ大学時代に本を読むべきか。それは、大学時代には、社会に出てからとは比べ物にならないくらい時間があるからだ。
僕は幸か不幸か本を読むことが大好きだったので、人生の先輩方の「大学時代には本を読め」という言葉を信じて疑わず、あまつさえそれを自分のやっている読書という行為のお墨付きとして、書いてあることの意味がわからなくても本が国語辞典なみに分厚くても、とにかく最後まで目を通してその本を既読とした。
しかし、「大学時代には(たくさん時間があるから)本を読め」という言葉に対して、もしも僕のような活字大好きではない人なら、「本を読むことにはどんな価値があるのか」「それは大学生活を費やすに値することなのか」という、ごく自然な疑問をぶつけるだろう。
なにせ大学生というのはやるべきこと、やりたいことをたくさん抱えている。勉強も、飲み会も、サークル合宿も、デートも…とやるべきことを積み上げると、ひとやまの本を横に積んでみたところで、「やるべきこと」の大きな山の陰で霞んでしまうだろう。
そのような「なぜ本を読むのか、本を読むことの価値とは何か」「なぜそれを大学時代に行うべきなのか」という二つの疑問に対して、かつて読書原理主義者であった僕が答えてみたい。
なお、この記事における「本」という言葉は、小説を中心とした、ビジネス書やハウツー本でない本、というざっくりとした括りで捉えてほしい。
まず、読書することの価値だが、それは「本にはかつての自分や今の自分が埋め込まれており、登場人物を通じて、それらをアルバムのように鑑賞できること」だと僕は思う。
これはまったくもって実利的なメリットではない。そもそも実利的でない本を読んで得られる価値を考えているのだから当然だ。
(50年ほど前までは、難しい本をうずたかく積み上げ、それらから得た思想を語る学生がモテたらしい。)
教養知は友人に差をつけるファッションだった。なんといっても学のあるほうが、女子大生にもてた。また女子学生にも教養があるほうが魅力的だった。(教養主義の没落 p.25)
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もしこの本に書かれていることが本当なら、昔は実利的でない本を読むことにも実利的なメリットがあったと言えるであろう。しかし、この「教養主義の没落」というタイトルが表しているように、今の時代、本をたくさん読んでいるからといって目に見えるメリットがあるわけではない。
ただ僕が語れるのは、自分の経験とそれを通じて考えたこと、悩んだことなんかが小説の中に見事に描かれていた時にどうしてもニヤニヤしてしまう、ホッと安心する、そういった感情の温かさである。
昔の自分の写真を集めたアルバムを開いた時に感じる恥ずかしさや懐かしさは、確かにきまりの悪いものかもしれないが、それは決して嫌な気持ちではない。それと同じだ。
本を開く。付箋を見ると過去の自分のしおりが挟んであるような気持ちになる。傍線を引いた箇所を集めると、きっと今の自分の使う言葉を集めた辞書ができあがる。あるいは、そんなしるしが無くても、「ああ、ここを読んだ時はこんな気持ちになったなぁ」とか、「この主人公の考えてること、まったく意味がわかんなかったんだよなぁ」とか、ちゃんと覚えているものだ。不思議と。
さて、「本を読む価値」を感じるためには条件がある。それは、その本で描かれているのと似た経験をしていることである。
最近、それを痛烈に感じたのは、宮本輝の「青が散る」を読んでいた時だった。
主人公の大学生の燎平が、梅田の場末の中華料理屋の二階で、ガリバーというあだ名を持つ友人の弾き語りを聴くシーンだ。人間の駱駝という言葉がとてもいい。
生きていたいだけの人間の駱駝という一節が、燎平の心の中で繰り返されていた。端山を隊長とする駱駝たちが、いまも、このキタの盛り場のどこかで、眠たげな目をかろうじて開いたまま、あてどなくうろつき廻っているかと思った。大沢も高末も神埼も、白樺の地下に集まってくる若者たちは、みんなガリバーの歌のように、摩天楼の陽炎にひたって、あてどなく地下に還ってくる駱駝たちだ。そして、自分も。
- 作者: 宮本輝
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大学生たちが溜まりタバコをふかす喫茶店。安くて騒がしい汚らしい定食屋。下手くそで情熱的な弾き語り。まるっきり同じ体験はしていなくとも、頭が勝手に記憶を組み換え、その情景を映し出す。
しかし、体験がゼロであれば、このような「疑似体験」をすることはできない。だから、僕がだいぶ前に(たぶん中3か高1か、それくらい)この本を読んだ時には、別に面白いとも思わなかった。
(「青が散る」について詳しく書いた記事はこちら→'青が散る' - 宮本輝 / 喪ったものは可能性である。喪失と教養小説について。)
また、村上龍の「限りなく透明に近いブルー」には、ドラッグとセックスのシーンがたくさん出てくる。
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最初に読んだ時は「なんだこの猥雑な小説は…」と、(セックスシーンのエロさ以外は)まったく理解できなかった。しかし今にして読み返すと、主人公をはじめとしたヒッピーたちが、「自分は何者なのか」「どうやって生きるべきなのか」という普遍的な問いから逃げるために、そういった「エクスタシーで自分を忘れさせてくれるもの」を摂取していたのだ、と感じた。
それは、一つには自分もそういった「自分とは何者なのか」ということで悩み続けてきた経験があったからだし、もう一つには、ドラッグやセックスといった昔の自分が「けばけばしく」感じていたものが、そう日常からかけ離れたものでもないんだな、と思うようになったからだ。
(ドラッグ経験はないから本当のところはわからないが、酒を飲んで酔えばそれのごく軽い症状は味わえる。また、ロックにはサイケデリック・ロックという「麻薬による幻覚を表現しようとする音楽」のジャンルがある。ビートルズのアルバム「サージェント・ペパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブ・バンド」はその代表的な作品の一つだ。アルバムジャケットにアヘンの材料となるケシの花が用いられている。)
(Lucy In The Sky With Diamonds/THE BEATLES)
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いずれにせよ、読書だけでは読書の価値を感じることはできない。その本に書かれている内容を「自分の体験で」語れるようになって初めて、その本を面白いと感じるだろう。
次に、「なぜそれを大学時代に行うべきなのか」という疑問に答えたい。
一言で言えば、それは冒頭で述べたように「時間があるから」である。
もっと言うと、「時間のある時に、わからなくてもいいからいろいろな作品を自分の中に貯めておけるから」である。そうやってストックを作っておくと、ある程度経験を積んでその本の価値を感じられる条件が整った時、読み返して楽しむことができる。
同じような青春小説であっても、一つひとつの作品が描いている時代は異なる。小学時代なら湯本香樹実の「夏の庭」を、中学時代ならヘッセの「車輪の下」を、高校時代ならサリンジャーの「ライ麦畑でつかまえて」を、大学時代なら村上春樹の「ノルウェイの森」を、というように、自分がどんなアルバムを眺めるかはその本が描き出すストーリーによって異なる(一応、車輪の下の主人公のハンスは15歳前後なので中学生と呼ぶにはやや年長かもしれないことは付け加えておく)。
先ほど引用した「教養主義の没落」ではないが、「大学生であればこの本を読んでいなければならない」という教養主義が崩壊した今、どんな本を知っているかということは他人と話す際にはあまり意味を持たない。せいぜい、自分と話が合いそうな人を見つける手がかりになる程度だ。(その分、同じ趣味を持つ人を見つけた時の喜びは大きいと思うけど。)
そうではなく、どんな本を知っているかということは、自分の楽しみのためだ。今の時点で「なんだこのわけわかんねー本」と思っている本が、いつ化けるかわからない。その本の存在を知らなければそうした「逆転現象」が起こる余地はない。
しかし、そういったストックを積み重ねるためには時間が必要である。一つ二つ読んだところで、その作品に描かれている情景や主人公の思索の種類などたかが知れている。ある程度量をこなさないと、その中から自分にヒットする物語は見つけられないだろう。
時間のある大学時代に本を読むべき理由は、以上の通りだ。
しかし、上で何度も書いているが、本だけ読んでいればいいというようなものではない。
大槻ケンヂの小説「グミ・チョコレート・パイン」で、山口美甘子は「世界は送る側と受け取る側とに二分されていて、山口は絶対に、前者なんだもん」と述べているが、僕は受け取る側にも二種類の人間がいると思うのだ。
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それは、送り出されたものに自分の経験を重ね合わせ、咀嚼して飲み込むことができる人と、そのまま味わうこともなく丸のみしてしまう人だ。
咀嚼して飲み込むためには、経験が必要だ。
本を読む楽しさというのは、実は、逆説的ではあるが、本を読んでいない時にこそ醸成されるものなのだ。
だから僕がこの記事の最後に言いたいことは、本ばかり読むのではなく、さまざまな経験をしていろんなことを考えて、自分なりの「味」をその本来は無味乾燥なはずのインクのしみに付けてくださいよ、ということなのである。