昔こんな記事を書いたことがある。
この記事を書いてから1年半が経ったけれども、いまだに僕は、友達に嫌われるのが怖いという感情を抱きながら、ブログ更新を続けている。
しかし、この記事を書いた時とは大きく変わったことが一つある。
それは、ブログ更新の告知方法にFacebookを加えるようになったことだ。
Facebookは、アカウントを登録して初めてログインした時からずっと、僕が苦手意識を持ち続けているSNSだ。
その理由は、ポジティブなコンテンツで埋め尽くされネガティブな呼吸が許されない、タイムラインのあの独特の息苦しさにある。
Facebookを開くと、誰それがどこどこで誕生日パーティーをした、誰かと誰かが付き合い始めてどこかでデートした、どこかのサークルの追いコンでバカ騒ぎをした…そんなキラキラしたコンテンツで埋め尽くされている。
あるいは、やたらと前向きで自己啓発的な文章がノートにまとめられていて、そこに「いいね!」が100とか1000のオーダーでついていたりする。毎日誰かしらの誕生日がお祝いされていて、そこにはハッピーであたたかいコメントしか書くことはできない。
Facebookを眺めていると、まるで人間は病んだり後ろ向きになったりすることがないかのような錯覚に陥ってしまう。
そして、そんな「前向きで素晴らしい」世界の一員になりきれず、インターネットの辺境でぐだぐだと悩みやコンプレックスを抱えながら書き続けている自分自身に嫌気がさすのだ。
誰かの生活を少し便利にするライフハック的ブログや、誰かを前向きな気持ちにさせる自己啓発的なブログや…要するに「この文章をFacebookで紹介しても別に違和感はないだろう」というポジティブなブログなら、僕は何のためらいもなく更新の告知をタイムラインに投稿できる。
だが、僕が書いていることは、多くの人が共感できることだとは思えない、ごく個人的な悩みとの葛藤である。
だから、冒頭に挙げた記事を書いた頃は、Facebookで更新の告知をすることはなかった。よほど、「この記事なら大丈夫だろう」と確信できる時以外は。
それは、インターネットという「誰かが勝手に検索をして読んで共感してくれる」装置の力を、過信していたとも言えるだろう。
だが、最近思う。
誰かに知られることがないのであれば、共感されることもまた、ないのだと。
たくさんのメディアを用いて広く知らしめるのは、PVを上げるためではなく、知らせた先にいるほんの少しの「本当に届けたい人」に、ちゃんと届くようにするためなのだと。
99%の人に、良くて無視され、悪くて陰口を叩かれdisられたとしても、1%の人に届けばそれでいいのだと。
その1%は、インターネットの検索機能という「自動濾過装置」を通し続ければ、そのうち来てくれる人たちなのかもしれない。だけど、僕の書いたものの存在を知らないまま、来てくれないかもしれない。
その人たちに、少しでも届く可能性を高めるために、僕はFacebookでも告知をするのだ。
自分の持つリソースを目いっぱい使って、半分目をつむりながら、告知をするのだ。
友達に嫌われるのが怖い。
アイツ、また自分の文章の宣伝なんかして、大したことも書いてないくせに…なんてdisられるのが、本当に怖い。
きっとこの感情は、一生なくならない。
しかたない。怖くないなんて思えるほど、僕は自分の中に熱い夢や特別な想いを持っちゃいないんだから。
それでも、伝えなきゃいけない人がどこかに絶対にいるって信じている。僕はそれを、ブログを読んでくれたたくさんの方々から教えてもらった。
だから僕は今日も、半分目を瞑りながら投稿ボタンを押すのだ。