僕は、「おもしろいことをやっている人」という言葉が嫌いだ。憎んでいる、と言ってもいい。
できることなら、誰かをその言葉とともに紹介されたくないし、自分はそんな言葉をかけられたくない。「おもしろいことをやっている人たち」の集団や、それを取材するメディアは、できれば自分から見えない場所にあってほしい。
なぜ、それほどまでにこの言葉を遠ざけたいと思ってしまうのだろうか?
それは、「おもしろいこと」という言葉が、ある特定の要素のみを指し示す、とても閉鎖的な言葉だと感じられるからだ。
「おもしろいことをやっている人」という言葉を、僕は学生時代に散々耳にした。そして、そういうことを言う人は、ある特定の、一定の層の学生だけを「おもしろい人」だと捉えているように、僕は感じた。
それは、いわゆる「意識高い人」の層と若干かぶる。が、「おもしろい人」というのは、「意識高い人」よりも行動面においてさらにポジティブなニュアンスがある。
世界一周とか学生起業とか、そういうキャッチコピーがつく人。キャッチーな何かを持っている人。それが、巷で言われる「おもしろいことをやっている人」。
反対に、尖ったことをやっていない、普通の学生は「おもしろくない」ということになる。
だが本当は、人生の数だけ、その人生の主が思う「おもしろさ」はあるはずだし、またそれを眺めている人の数だけ、その鑑賞者の感じる「おもしろさ」はあるはずなのだ。
就職活動をしていた頃、とある会社の面接で、僕は昔やっていた「さし飲み対談」の話をした。
面接官は、僕にこう聞いた。
「君がこれまでさし飲み対談をして、一番おもしろかった人は誰ですか?」
僕は、答えられなかった。
そんなもん、適当に話せばいいはずなのに、僕はご丁寧に答えに詰まってしまった。
苦し紛れに、頭に浮かんだ過去のさし飲みの話を大げさに話して、僕は面接に落ちた。
本当は、おそらくその面接官や他のおおぜいの人が地味だと思うであろう人の話をしたかった。
彼は、大学までずっと勉強だけをしてきた人間だった。良い成績を取ること。それが彼の生きがいだった。
大学で、彼はギターと出会った。そして、もちろんプロのギタリストなどなれるはずもないけれど、ゼロから地道に努力をして、それなりの演奏をするようになった。
彼は、僕にこう話した。大学を卒業したら、楽な仕事をして、好きなギターを趣味として楽しむ時間を作れるような人生を送りたい―。
僕は彼と酒を飲みながらこのような話を聴いて、とてもいい、と思ったのだ。
この話のどこにも、キャッチーな要素はでてこない。勉強ばっかりの男が主人公だ。大学でギターがプロ級に上手くなったわけでもなく、自分の夢に向かって仕事に打ち込む未来図も描かれていない。
しかしそれこそが、僕が「おもしろい」と感じることなのだ。
人と違う特別なことなど、必要ない。その人が何に幸せを感じるのかさえ知ることができれば、僕は「超おもしろい!」のだ。
さし飲み対談も、ずっとそういう気持ちでやっていたのだ。世の中において「おもしろい人」だとされているイメージに、ドロップキックを食らわせたいという、その一心で。
今となっては、あの面接で、僕はそういうことを語りきるべきだったと思う。就職活動の、唯一の悔いかもしれない。
「おもしろいことをやっている人」と言うのなら、その前に、「自分は何にどんなおもしろみを感じるのか」を語ってくれ。
あたかもこの世には一種類の「おもしろさ」しか存在しないかのように振る舞うのはやめてくれ。
人の価値観に優劣などないって、僕が何度叫んだとしても、届かないのかもしれないけど。それでも。
人の価値観に、優劣などない。そして、人が何をやっているかということにも、優劣などない。
勉学に勤しむ人、サークルを楽しむ人、就活の準備をする人、海外生活を謳歌する人、バイトに精を出す人、学生団体を立ち上げる人、徹夜で麻雀して翌朝の講義をサボる人…全員素晴らしいじゃないか。
「おもしろいことをやっている人」という言葉を使うのなら、自分が何を「おもしろい」と感じるのか、それくらいは自分の言葉で語ってほしいんだ。