Rail or Fly

レールに乗るのか、飛び降りるのか、迷っているきみに届けたい。

なぜ僕らはサブカルや教養主義にハマるのか。

※この記事に書かれていることは、科学的には何の根拠もありません。

 

 

 

なぜ僕らはサブカルや教養主義にハマるのか。これは、僕の長年の疑問である。

 

何がしたいのかさっぱりわからない現代アートを神妙な顔をして眺め、机に山積みにしたエログロ漫画を朝から晩まで読みふけったり、文豪たちの小説をよく噛みもせずひたすら飲みこんでは「あれ読んだんだけどさ~」を口角泡を飛ばし、日曜日には荘厳なオーケストラの調べを聴いてブラボーと叫んだりする。

 

ここで「サブカルとはなんぞや?」「教養とはなんぞや?」という議論をするつもりはない。そんな議論をするために必要となる知識が僕には圧倒的に足りていないし、足りていたら足りていたで、収拾のつかない議論になることが間違いないからだ。

 

ただ、知識的にはまったくの中途半端人間とはいえ、僕もサブカル的/教養主義的性質を持ち合わせていることは間違いない。

 

その性質は、「役に立たないことを夢中で収集する」というものだ。

 

なぜこういった性質が存在するのかが、僕には疑問に思われる。

 

というのは、「役に立たないこと」というのは、生物の生存や繁殖には、本質的に不必要なもののはずだからだ。

 

 

 

ヒトがサルとの共通祖先から枝分かれして間もない頃であれば、獲物の取り方や異性にモテる方法、外敵から身を守るやり方などが「役に立つこと」だった。

 

それからずっと後になって、ヒトという種は「カネ」というシステムを考え出した。カネは、上にあげた原始的な「役に立つこと」のほとんどを、代わりにやってくれる。カネがあれば美味しいご飯が食べられる。カネが無ければ子どもも残せない。

 

かくして、現代では「カネを稼ぐことに直結すること」が「役に立つこと」だとされている。これが、いわゆる実学である。

 

だからみんな、子孫繁栄を目指して「役に立つこと」を追い求める―。少なくとも、生物学や経済学の一部の領域を一昔前に支配していたのは、「生物は自らの生存や繁殖に役立つことを選択する」という観念であった。

 

 

 

サブカルチャーや教養というのは、本来的に「カネを稼ぐこと」に 一切つながらない。

 

本も映画も音楽も絵画もマンガも、いくら鑑賞したところで一銭のカネにもつながらない。

 

(ビジネス書は別だ、役に立つはず…と書こうとしたが、やっぱり一銭にもならない気がする。まあこれは別の話ですね。ちなみに僕はビジネス書も好きです。)

 

それでは、これらの「役に立たないこと」にハマるのは、生物的におかしいことなのだろうか?

 

しかし、「サブカルチャー」や「教養主義」といった言葉が(後者はもう死語になりつつあるけど)共通言語として認識されており、そこに魅了される層が一定数いるという事実は否定できない。

 

同時代に、これだけたくさんの「役に立たないことを生存に有利なことと感じる」というバグを持った個体が偶然出現しているとも考えにくい。

 

やはり、「役に立たないこと」を追い求める性質が、何らかの点でこれまでのヒトの進化の過程で生き残ってきたと考えざるを得ない。

 

 

 

僕は、こう考える。

 

「役に立たないこと」をたくさん所有していると、「自分はこれだけ足かせがあっても生き残ってこれたんですよ」というアピールができる。

 

その時、「役に立たないこと」をたくさん持っていれば持っているだけ、アピールの説得力は強まる。

 

したがって、「役に立たないこと」を追い求める傾向はどんどん強まっていく―。

 

まさに、「役に立たないこと」が「役に立たない」ゆえに「役に立つ」のである。

 

これは、コミュニケーションを通じて自らの過去を相手に受け渡すことができるヒトという種においてのみ、観察できる傾向ではないだろか。どれだけ「役に立たないこと」を身に付けているかということは、細かいコミュニケーションなしには相手にアピールできないからだ。

 

「教養主義の没落」には、こうある。

 

教養知は友人に差をつけるファッションだった。なんといっても学のあるほうが、女子大生にもてた。また女子大生も教養のあるほうが魅力的だった。

 

(「教養主義の没落」 p. 25)

 

教養主義の没落―変わりゆくエリート学生文化 (中公新書)

教養主義の没落―変わりゆくエリート学生文化 (中公新書)

 

 

 

 

今日は少しばかり妄想チックな記事だったが、いかがだっただろうか。

 

オオツノジカが絶滅した理由として「角が大きすぎたから」と答えるのはいささか時代遅れかもしれないが、サブカルや教養主義が「大きすぎた角」にならないように、適度に付き合っていきたいと思う。