話題になっていた「嫌われる勇気」を読んだ。
哲人 すなわち、「自由とは、他者から嫌われることである」と。
青年 な、なんですって!?
哲人 あなたが誰かに嫌われているということ。それはあなたが自由を行使し、自由に生きている証であり、自らの方針に従って生きていることのしるしなのです。
青年 い、いや、しかし…。
哲人 たしかに嫌われることは苦しい。できれば誰からも嫌われずに生きていたい。承認欲求を満たしたい。でも、すべての人から嫌われないように立ち回る生き方は、不自由きまわりない生き方であり、同時に不可能なことです。
自由を行使したければ、そこにはコストが伴います。そして対人関係における自由のコストは、他者から嫌われることなのです。
(「嫌われる勇気」 p.162, 163)
「他人から嫌われてもいいじゃないか」ということだけが、この本の言いたいことではないと思うが、タイトルの「嫌われる勇気」からすると、上に挙げた引用が伝えたいメッセージの一つであることは間違いない。
この本に関しては、下のブログの書評が爆発的にヒットしていた。
嫌われる覚悟のある人間は強い - まつたけのブログ
また、かつて同じようなテーマについて、下のような記事を書いたことがある。
嫌われるコンテンツを作って、嫌われて生きよう。さもなきゃ無視されるだけだ。
嫌われたっていいじゃないか、自由に生きていれば嫌われるのは当然のことなんだ―。
この考え方には、おそろしい魔物が潜んでいる。
この考え方をほんの少し敷衍させるだけで、「誰かが自分のことを嫌うのは、自分には落ち度はまったくなく、その人と自分とがどうしようもなく合わないからだ、それはしかたのないことだ」という、悪い意味でのあきらめの境地に達してしまうのだ。
なぜ、このような諦観を持つのが悪いことなのか?
それは、「仲間になるかもしれなかった人を切り捨ててしまう可能性があるから」という言葉に尽きる。
自分の好きなことをやっていると、人から嫌われることもある。それは事実だ。
実際、僕もTwitterで好きなことをつぶやいていてリアルの友達からブロックされたことが何度もある。
だが、だからといって、自分を嫌ってくる人間をすべて「あなたは僕と人間のタイプが違うから僕のことを嫌うんですね」とわかったような顔で受け入れていると、自分の味方をしてくれる人はどんどんいなくなる。
なぜなら、本当は自分のコミュニケーションにミスがあったかもしれないからだ。
嫌われた時は、自分に問い直す必要がある。
本当は、伝え方一つで、相手を誤解させたのかもしれない。自分のコミュニケーションに、落ち度があったのかもしれない。
もしかしたら、自分の意図を適切に伝えられていたら、あの人は今頃、僕と同じ方向を向いて一緒に何かに取り組めていたかもしれない―。
この世の中には、自分と似たような世界の見方をし、自分と似たような言葉の捉え方をする人ばかりが生きているわけではない。
同じ40℃の風呂でも夏は熱く冬はぬるく感じるように、同じものや言葉に対して、それぞれの人がいろんな捉え方をしている。
確かに、言葉は不完全だ。自分の思いを完璧に相手に伝えることなどできはしない。だが、だからといって、自分に反省すべきところがあるにもかかわらず「相手と自分は合わないから」というその怠惰な一言で片づけてしまうと、自分の味方をしてくれる人はいなくなってしまうだろう。
だからこそ僕らには、論理や数字といった武器がもたらされているのではないか。自分と相手が、感覚とか直感とかを乗り越えて、なんとか手をつなぎあうために。
言葉だけでなく、自分の持つコミュニケーションの手段を総動員して、相手に理解してもらえる努力をすべきなのだ。
我々がコミュニケートしなければならないのは、きっとどこかに居るであろう自分のことをわかってくれる素敵な貴方ではなく、目の前に居るひとつも話が通じない最悪のその人なのである。
(渋谷陽一『音楽が終わった後に』より)
「自由に生きていれば、嫌われるのもやむなし」という考え方と、「自由に生きて嫌われたのなら、そんなの構わない」という考え方は、本当に紙一重である。
自由に生きるためには、仲間の存在は不可欠なはずだ。一人ではできないことも、誰かと一緒なら成し遂げられる。
にもかかわらず、「嫌われた」ことに対して自分を省みず、「まあ好きなことやってたら嫌われちゃうよね~」とうそぶくのは、自分にとって大切なことは何かを見誤っているとしか思えない。
好きなことをやっていたら、嫌われるのは、しかたがない。だけど、「これだけやって嫌われたなら、まあしょうがないな」と言い切れるだけの努力を、「嫌われて生きればいい」と言い放つ僕たちは、はたしてやってきたのだろうか。
だから僕は、せめて文章を書く時は、論理や客観性というものを、感覚や主観で語るメッセージと同じように大切に扱いたい。
「コミュニケーション能力」というのを文字通り「双方の意図を共有すること(コミュニス、あるいはコモン)をうまく行う力」だと定義するなら、感覚だけでは通じ合えない人とどれだけ仲間になれるか、すなわち「無駄に嫌われるということをどれだけなくせるか」ということこそ、コミュニケーション能力だと思う。
「嫌われる勇気」も大切だが、その前提として「コミュニケーション能力」があってはじめて、本当の意味で「自由に生きる」ことができるのだ。