以前、イケダハヤトさんの下のようなエントリーを読んだことがある。
僕もこの4月から晴れて社会人となり、インターネットの片すみで「会社員ブロガ―」として文章を書いているわけだが、この記事に対して思うことがある。
それは、「会社員"だから"つまらない」というわけではない、ということだ。あたかも左から右に因果の矢印が流れているかのような記事内容になっているが、会社員であることはブログのコンテンツのおもしろさを左右する要因にはならない。
そもそも、「つまらなさ」(あるいは「おもしろさ」)というのは完全に個人の「主観」に従うものであって、それを記事のタイトルにあるように「客観的に」見ることは不可能だ。AさんにはAさんの「おもしろさ」のツボがあるし、BさんにはBさんのツボがある。
おそらく、イケダハヤトさんが「客観的に」という言葉で伝えたかったニュアンスというのは、「アクセス数が多い」ということか、あるいは「平均値あるいは最頻値から突出している」ということだと思う。アクセスが多いことや、他の大多数と比べて突き抜けているかどうかということなら、「客観的に」見ることは可能だ。
つまりここでは、「人と違ったことをやっており、その結果衆目を集めている」ことを「おもしろい」と形容しているのだ。
さて、僕はこのブログを2年以上書き続けているわけだが、最近思うのは「どうやら自分には"おもしろい"文章を書くことはできなさそうだな」ということだ。
諦観と言ってもいい。
時間が腐るほどあった学生時代にすら大したアクセスを稼げなかったのだから、社会人になって急に世の中に拍手喝采されるなんて思えない。また、今会社を辞めてブログを書いたとしても、 「おもしろい」ものが書けるとは思えない。
それは、自分が「会社員だからつまらない」のではない。
変な言い訳をする必要はない。「自分がつまらない」から、評価されない。それだけだ。
世の中に受け入れられるキャッチーな「おもしろさ」を、自分の根本として持っていないこと―。それは、僕をずっと苦しめてきたコンプレックスであり、これからもそのことに悩み続けて生きていくだろう。
だが、それがどうした。
たとえ、いくつ記事を重ねても、ちっともアクセスが集まらなくったって…。それが恥ずかしいとか、「つまらないからブログを閉鎖しよう」とか、思わなくていいのだ。
もっと言えば、アクセスが集まらず、自分が「つまらない」存在であると容赦なく晒されることを、そのまま受け入れたらいいのだ。
そこからは、ふわふわした匿名の誰かにいつか自分の言葉が届くことを夢見るのではなく、確かな自分の道をしっかりと踏みしめて歩く感覚が待っている。
会社員でありながら、「つまらない」ブログをずっと書き続けること。それは、Rail or Flyという僕のブログの名前が指し示す姿とぴたりと合致する。
レールの上に乗り続けるか、レールから飛び降りて「おもしろい自分」を模索するのか、その狭間でずっと揺らぎ続ける存在。
それが自分であり、その姿は変えようがない。
その生きながらの姿をレポートする存在として、僕は「会社員ブロガ―」であり続けたいのだ。
たとえそれが、どれほど「つまらない」文章であったとしても。