あなたは、誰のためにブログを書いていますか―。
そう尋ねられたら、何と答えるだろうか。
昔の僕なら、こう答えただろう。
「自分のために書いています」と。
「誰かにわかってもらう必要はありません」とも。
ところが、「自分のために書いている」にもかかわらず、こうしたブログはそのうち更新されなくなり、インターネットの片隅に忘れ去られてしまうことが多い。
今の僕なら、冒頭の問いにこう答えるだろう。
「自分のために書いています。だけど、それは自分自身に向けて書いているわけではありません。僕と同じような考え方をしていて、でも僕とは違うどこかの誰かに向けて書いています」と。
キザな言い方をすれば、同じ遺伝子を持っている人に向けて書いている、とも言えるかもしれない。僕と同じ遺伝子を共有している人は世界中にごまんといる。だが、彼らは「今この瞬間、このブログを書いている僕自身」ではありえない。
「自分のため」に書いてはいても、それが必ず「誰かのため」になっていると確信できること。自分の文章は、自分には似ているけれども、自分ではない誰かに必要とされているのだと確信できること。
僕が何の見返りもなく毎日せっせとブログを更新できるのは、こうした宗教じみた確信を抱いているからである。
もしあなたが、「自分自身のためにブログを書いている」と思っている場合、その気持ちのままでブログを何年も書き続けるのは非常に難しいだろう。
「自分自身のため」に書いているのなら、なぜウェブに文章を書いているのだろうか?ノートに日記をつけるのではダメなのだろうか?
書いた文章をウェブに公開するという選択をしている時点で、どこかに「自分のことを誰かに知ってほしい」という気持ちがあるはずだ。
僕は、大学1年生の頃は毎日紙のノートに日記をつけていた。
しかし、2年生になってからは、「文章で発信する」という行為の舞台はインターネットに移った。
その頃は否定していたけれど、本当は、誰かに認めてほしかったのだと思う。
やりたいことがわからない、自分は何が好きでどんな人間なのか見当もつかない、これといった主張もなく、のめり込めるものも見つからない―。
そんな、暗闇を1人手探りで歩いているような気持ちを、誰かに共有してほしかった。わかってほしかった。
「僕は誰かに語りかけたいんだ、今の気持ちを誰かにわかってほしいんだ」
自分の気持ちを、そんなふうに再定義するところから、「ブログを書き続ける」ことは始まるのではないだろうか。
今、僕がブログを書き続けていられるのは、読んでくれるいろんな人からのフィードバックのおかげである。
昔、一匹狼を気取っていた頃には、「誰かのために書くことがモチベーションになる」なんて、思ってもいなかった。
それが自分に似た人でも誰でもいい。「誰かのために書いているんだ」と確信できたなら、それ以降はもう何のインセンティブもなしにブログを書き続けていけるはずだ。
「ブログは自分のために書いている」という全ての人が、あとほんの少し踏み出せば、もっと多くの人の言葉がこの世にあふれてくるはずだ。
そんな日を楽しみにして、僕は今日も僕のブログを書き続けていきたい。