Rail or Fly

レールに乗るのか、飛び降りるのか、迷っているきみに届けたい。

「学校の勉強ができること」の、これからの価値について

仕事が忙しかったのと、体調不良とで、どうにもブログが更新できなかった。ごめんなさい。



「学校の勉強ができても、生きていくのには関係ない」「学歴なんて無意味だ」

こんな言葉を、きっと誰もが一度は聞いたことがあるように思う。

今日は「学校の勉強ができること」が、今後どういった意味を持ってくるのかということについて考えてみたい。



まずはじめに、「学校の勉強ができることには意味がある」「〜意味はない」と言う時に必ず考えなければならないのが、「何をする上で意味があるのか」ということである。

学歴批判によく見られるのが、すべてを一緒くたにして「学歴は無意味!以上!」としてしまう過ちである。何に対して無意味なのか、それを考えることなしに、無意味であるかどうかは語れない。

僕は理学部という学部に所属しているからか、よく「その研究はなんの意味があるの?」と聞かれる。確かに、DNAのある塩基配列がどういう役割を果たしているのかを解明したとしても、世間の大部分の人にとっては関係のないことかもしれない。だけどその塩基配列がある遺伝病と関係があって、その研究によって明らかになったことを利用すればその病気の特効薬ができるかもしれない。この場合、「不治の病を治すために研究しているんだ!」と言える。

(もっとも、理学部というのは基本的に世間の役に立つことを考えて研究をするところではないのだけれど。)

あるいは、世の中一般には役に立たなくても、それを研究している自分や一緒に研究している仲間たちがワクワクするのなら、それだけでも「楽しい」という意味があると僕は思う。(税金をもらって研究する以上、世の中に何らかの還元が必要だ、という意見もあると思うが、それについてはここでは議論しない。)

とにかく、「意味がある(あるいは意味がない)」ということを述べるためには、「どう意味があるのか」ということを考えるのは必要不可欠だ。



そういう前置きをしつつ、「学校の勉強ができることの意味ってなんだろう」ということを考えてみたい。

一言で言ってしまえば、それは「自分で勉強ができる」ということだと思う。

高学歴とはいったいどこからだ、みたいな下らない議論をするつもりは毛頭ないけれども、少なくとも、自分なりに目標を掲げて一生懸命勉強して大学に入った人は、「自分が今できていないことは何か、どうやったらそれができるようになるのか」を真剣に考えた経験があるはずだ。

大学受験というのは、一握りの天才を除けば、結局どれだけ「考えて」勉強したか、に尽きる。とりあえず評判の良い予備校に入ったり、ただ勉強が少し得意だっただけでは、自分の目標とした大学に入ることはできないのだ。

このあたりは少し誤解があるように思う。一般に「良い大学」に入ったと思われる人たちはもともと「天才」だ、ちょっとがんばれば割と簡単に一流の大学に入れるのだ…と言われたりするけど、志望校に合格するためには努力が「絶対に」必要だし、その努力の方向性が間違っていれば、これまた合格は非常に難しくなる。

自分の長所・短所を見極めながら、どうすれば長所を武器とし短所を埋められるのかを考えた結果、勉強ができるようになって志望校に入ることができた人がいる。そうやって自分と向き合い、この科目をどうやったらもっと伸ばせるのかを考えていくと、「ひとまず教科書や問題集を一通りやってみる」「暗記項目は死ぬほど大事」「とにかく同じ問題を繰り返しやって、その中から考え方のエッセンスを抜き出す」みたいなことがわかってくる。目の前の知識や数式よりももっとメタな視点、その科目の勉強法について考えることになるのだ。



これからの時代、「自分で勉強ができる」ということは、それはもう無限大の価値を持つと僕は思う。

もちろん今までの時代だって、自分で勉強ができることはすごく価値のあることだっただろう。そしてこれからその価値はさらに高まる。

インターネットによって学習にかかるコストが極端に下がっているからだ。

実際僕はインドに来てからヒンディー語を無料のウェブサイトで学んだし、Perlの勉強についても、持ってきた教科書を一通り覚えた後は、ウェブ上のup-to-dateな情報を中心に勉強している。

もちろんインターネットを通して学べないものも数多くあるだろうけれど、多くのことがウェブで無料(あるいは格安)で学べるようになってきているのは確かだ。

今はスカイプ英会話というのもある。「駅前留学」と言ってやたら高額のレッスン料を取る代わりに、スカイプという無料のツールを使って英会話を学ぶというこのサービスの形態は、英語のできる途上国の人にとっては行くだけでバカ高い渡航費がかかり暮らすのにもバカ高い生活費のかかる先進国での生活をせずにそこそこの賃金がもらえるという点で画期的だ。こうしたビジネスはこれからますます増えていくと思われる。

つまり現代は、勉強のやり方さえわかっていればなんでも勝手に学んでものにできる時代なのだ。

この「勉強のやり方」を身に付けるために、学校の勉強というのはとても良い練習になるのだ。

いわゆる「お勉強」である5教科の国・数・英・理・社、それぞれの科目に真剣に取り組めば、「どうやって学ぶのか」ということを必然的に考えるようになる。そして、そこで得た「学び方」というのは、他の何かを学ぶ時にも必ず生かせるのだ。



国語、特に現代文は勉強するものではないと言う人もいるけれど、僕に言わせれば、現代文の問題を解くのと本を読んで内容を理解するのはほとんど同じことだ。ただ、以下に述べるが小説の読み方だけが勉強と娯楽とでは異なる。

(古文・漢文についてはどちらかというと英語に近いと思う。)

論説文と小説の解き方を別に考える人もいるけど、最終的にはどちらの答えも文中に書かれているから、どちらも同じように考えればいいと思う。「ここでの田中くんの気持ちを答えなさい」という問いに、自分の気持ちを答えるからいけないのだ。田中くんが何をしてきたのかについて丹念に文章を追えば、小説でも必ず答えが書いてある。つまり小説も、国語という科目においては「論説文」である、ということだ。

だから現代文の点数を上げたければ、なんでもいいから本を読みつつ、指示語や代替されている語が何を表しているのかを考えればいい。

(国語の勉強だと思わずに小説を読む分には、自分の感情を投影して読めばいい。ただしそれは作者が意図しているものとは微妙にずれているだろうし、たぶんそれでいくら小説を読んでも、「国語という科目における小説を解くこと」ができるようにはならないと思う。)

一方で、教科書を始めとした「何かを学ぶために読む文章」というのはすべからく「論説文」である。

つまり、現代文ができるということは、すなわち自分でいろんな分野の教科書を理解することができるということであり、「自分で(文章を読んで理解しながら)勉強ができるということ」そのものなのだ。



数学の勉強のしかたと、僕が今勉強しているPerl(プログラミング)の勉強のしかたは、とてもよく似ている。数学の問題を解くのも、何か自分のやりたいことのためにスクリプトを書くのも、「目標に向かって、手続きを分割して考える」ところが共通しているのだ。

例を挙げると、数学で「関数f1;y=4x-3とf2;y=x^2-3が存在する時、その交点を求めよ」っていう問題があった時、どう考えるかというと、「xy軸をとってグラフを描く」「交点を求めるのだからf1のyにf2のy(=x^2-3)を代入する」「方程式を解いてx、yについて求める」ということを、まず頭の中で考えてから解き始める。

対して「Cドライブに存在する古いファイルを全部削除する」というスクリプトが書きたいなら、「Cドライブにあるファイルで」「最終更新が6カ月以上前なら」「そのファイルを削除する」という命令を、Perlで書くことになる。

もちろん上記のような文章だけでは手続きを進めることはできないから、いろいろな基礎的なルールを覚えることが必要になってくる。上の連立方程式の問題だと、移項や二次方程式の解き方を知っておかなければならないだろう。もっと複雑な式だと、二次方程式の解の公式を覚えておく必要があるかもしれない。一方上のスクリプトだと、ディレクトリを指定してオープンするやり方、if文の書き方、他にもいろんなことを知っておかなければならないだろう。

高校時代、僕の周りにはめちゃくちゃ難しい数学の問題をすらすら解いてしまうような人間が何人かいた。彼らはあまり行き当たりばったりに考えるということはしていなかった。あくまで頭の中で解法を組み立て、「いけるな!」と思ったら解答を書き始めるのだ。僕はついぞ彼らのようになることはできなかったが、それでもそういった考え方が重要なのだな、ということは彼らを見ていて理解できた。

つまり、数学を勉強していると、たとえばプログラミングのように「目標に向かって、手続きを分割して考える」というものに出会った時に、ある程度すぐに順応できるのだ。



英語を勉強すれば、もちろんそれだけで相当今後の人生の幅が広がることは言うまでもないが、母国語以外の言語をどう勉強すれば実用レベルにまで持っていけるのかを考える手助けにもなる。英語は日本人にとって最も難関な言語だと言われているからこそ、一度英語を実用レベルまで持って行くことができれば、他の言語を習得することに対してもそう障壁を感じなくなるだろう。

簡単に楽しく英語ネイティブと話ができる「英会話」なんてものは、実は存在しない。文法と単語を全然知らなくてもネイティブといろんな話ができるなんてことはありえないからだ。幼少期を英語圏で過ごしたのでないのなら、そしてそれでも英語を使って海外の人とコミュニケ―ションを取りたいなら、死ぬ気になって文法を覚え、単語を泥臭く暗記していくしかないのだ。

大学受験を真剣にやった人なら誰でもわかるように、受験勉強ではまさにその文法と単語をみっちり叩き込まれる。文法はその構文を使った例文をまるまる覚える方がいいし、単語もその単語を使った例文を覚える方がいい。

当然それだけでは、英語を聴いて話せるようにはならない。だけど基礎力は確実についている。僕がインドに来てわりと早く英語がそこそこ話せるようになったのも、たぶん文法と最低限の単語を受験時代に覚えておいたからだと思う。

未知の言語を学び、自分で使えるようになりたいなら、最も大切なのは文法と単語の暗記。それを英語という科目を学ぶことを通して身につけていたなら、たとえばヒンディーを学ぼうと思った時にも役に立つだろう。



理科については、ややはしょるが以下のようになる。

化学は分野によって要求される技術がまったく違う。物質量の計算だとどれだけ頭の中で物理チックなイメージを描けるかという勝負になるし、金属や無機化学みたいにひたすら物質の特性を暗記していく分野もあるし、有機化学だと自分の知っている知識を総動員して犯人を突き止めていく推理小説みたいなおもしろさがある。

生物はどちらかというと暗記科目と思われているだろうけど、大学入試の二次試験は現代文に近い。間違いなく長文が出されるから、それを読みながら文中に書かれているヒントを見逃さない力が必要だ。生物の試験は「あれ、これ勉強してなくても解けるんじゃね?」みたいな問題がけっこうあるんだけど、もちろん勉強して積み上げた知識があって初めて読めるような、そんな感じ。

これら二つの科目について、強いて共通点を挙げるなら、「まずは基礎概念、基礎用語の暗記が大切」ということだ(国数英だってそうだけどね)。社会はセンターの日本史しかきちんと勉強していなかったけど、それも同じだ。

最近、自分の知らないことは人に聞く前にググれ、ということが言われている。と同時に、単なる知識の断片を覚えるのはコンピューターがやることで、人間はそのような単純な暗記ばかりしていてはダメだ、とも言われている。要するに、暗記はコンピューターに任せておけ、ということなのだろう。

それは確かに正しい。だが、単なる知識の断片の集積は、人に大きな力を与えることも事実である。

僕のインターン先のインド企業のサービスの一つに不動産仲介というサービスがある。上司はムンバイの不動産のことを知り尽くしている。どこに新しいビルが建って、今外国人駐在員に人気の地域はどこで、どこの家主が気前よく交渉に応じてくれやすいか…などなど、彼がムンバイの不動産について知らないことはないと言っても過言ではない。

これが、知の集積である。その道のプロと呼ばれる人たちは、こういうふうに必ず「膨大な量の知識の断片」を脳みそに蓄えているはずだ。

物理を除く理科や社会の科目を通じて、多くの知識を頭に詰め込んだ後、それらが有機的につながりあう瞬間のあの感動を味わったら、「知識を詰め込むこと」の重要性も、理解できるようになると思う。



まあ、ずらずらと書いたけれど、僕は勉強に一生懸命取り組んだ自負がある。高校の部活を引退してから、あれ以上はできないと言うくらい勉強した。

そこに「学歴は無意味だ」と言われると、何かしら違和感を覚えることが多かったのだ。

しかし、「俺が一生懸命やったことにケチつけるんじゃねえ!」と言っていたのでは、ただのバカである。そこから、「僕は自分の受験勉強から何を得たのだろう」と問いかけたことが、今回の記事を書いたきっかけだった。

学校の勉強は、これから勉強にかかるコストがどんどん下がっていく世界においては、「自分で勉強できる」という能力を身に付ける、絶好の練習機会になる。いろいろな科目を勉強する中で発見した「勉強方法」は、他の何かを学ぶ時にも役に立つ可能性が高い。

もちろん、どうしても学校の勉強が好きになれない人が無理にやる必要はないと思うし、学校で学ぶ科目の勉強方法なんて知らなくても自分の好きなこと学べるぜ!っていうのも真実だと思う。だから、「お前らがんばって勉強して良い大学入れ!」ということを言いたいわけではない。

ただ、「自由な生き方ができるようになった」と言われる日本でも、依然として「高校受験」「大学受験」は多くの人にとって必要なレールだと思う。それを少しでもプラスに受け止められるなら。そう思って、記事を書いた。

「学校の勉強なんて役に立たない」と、「役に立たない対象」を定義せず批判する前に、与えられた環境を利用できる人が増えてくれれば良いと思う。



(おまけ…受験勉強を含めた「勉強する」ということについて、このままではヤバイ、もっと勉強しなきゃ!と思わされる本を紹介しておきます。)

東大生はバカになったか (文春文庫)

東大生はバカになったか (文春文庫)




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