僕は今就職活動真っ最中。今のところ業界や組織の大きさを絞らないスタンスでやっている。ベンチャーから大手まで、堅い感じからフランクな感じまで、幅広く見ている。幸いにして就活団体などがやっているイベントに行くと、いろんな業界、いろんな企業の方と話すことができる。
参加するイベントによって周りの学生のタイプも全然違うけど、僕は割とどんなタイプにも(パッションのある人から頭キレッキレの人まで)対応してしまう人間なので、おもしろいな〜って思って見てる。
(カメレオンみたいに適応できすぎるから、「お前は何が得意なの?」って聞かれるとすごく困るんだけど…。このへんは「周りの色になじめないでき損ないのカメレオン」とは完全に逆で、だからこそ僕は「認められなくても自分たちの音を鳴らすぜ」って歌うピロウズに胸を打たれたりするのかもしれない。)
それで、ベンチャー志望の学生と話すと、「起業したい!」って言ってる人がかなり多いわけだ。
そういえば2年前に自分もそんなこと言ってたなぁ…と、懐かしく思い出す。
起業したいって言う理由は、主に3つくらいあるように思う。
・自分一人で価値を生み出せるようになって、この世界で生き残れる人間になりたい。
・人と違う人生を送りたい。
・この世の中のどこかに憎しみに近い不満を抱いていて、その部分をよりよくしたい。
もちろんこの他にも理由はいろいろとあるだろうし、当てはまる理由が複数ある人もいるんだろうけど、2年前の自分の考えやいろんな人の志望動機を聞いてるとこの3つが多いのかな、という感じだ。
そして、本当に起業できるとしたら、3番目の人だけだろうなと思う。
ちなみに、僕が起業したいと思ってた頃は、1番目と2番目が起業を志望する理由だった。
以下それぞれについて、コメントしたい。
1つ目について。
価値を生み出し、生き残れる人間になりたいと思うことそれ自体は悪いことではない。問題は「自分が生み出せる価値とは何か」をまったく見極められていないことなのだ。
有名なキャリア論の1つに、エドガー・シャインの考え方がある。
1.自分は何が得意?
2.自分はいったいなにがやりたい?
3.どのようなことをやっている自分なら、意味を感じて社会の役にたっていると実感できる?
就職活動を経験された方なら、"LIKE", "CAN", "SHOULD" の3つの円が描かれた図を見たことがあるのではないだろうか。あれは、このシャインの考え方が基になっていると言われる。
果たして、自分は何をテーマとして起業するのか?(何を「やりたい」のか?)また、それを遂行する上で必要となる分野を得意としているか?(何が「できる」のか?)自分のやりたいことは、社会から必要とされているか?(何を「するべき」なのか?)
「自分一人でも価値を生み出せる力を身に付けたい」と言うのは、それだけでは何も言っていないのと同じなのだ。それならまだ、「生き残りたい、タフになりたい、そのためなら時間や労力の投資は惜しまない人間です」とでも言った方が、自分についてイメージしてもらえるように思う。
自分がどんな価値を生み出すのか、またそれに付随してどんな力が必要となるかを考えると、いろいろあると思う。誰かにとって価値のあるモノを開発して売ることを考えただけでも、企画する力、開発する力、顧客を見つける力、顧客に売る力などなど、いろんな力が必要だ。
どれが自分に合っていて、やりたくて、かつ求められているのか、ということを考え、自分にとって最善となる「生き残る力」を定義することが第一歩。その力は、起業することでしか手に入らないのか、ということを自問するのが、第二歩だ。そこで「起業によってのみ手に入る」という結論に至ったなら、起業してみてもいいかもしれない。
2つ目について。
人と違う人生を送りたいと思うこと。僕個人の意見だが、これも別に悪いことではないと思う。
しかし、「起業」することが「人と違う人生を送る」ための目的となってしまうと、それは違うのではないかと思う。
これは、巷にあふれる自己啓発本の弊害ではないだろうか。
「やりたいことをやって生きろ」というメッセージが今日あらゆる方面から発信されてくる。それは、日本では「こう生きれば成功だ、というような大きな物語」が共有されなくなってしまったからだと思う。
(このへんのことは、昔「インドの若者は、『自己実現』の夢を見るか」で書いた。)
そうなると「自分のやりたいことをやりましょう!」と呼びかけることがビジネスになったりする。自己啓発書は栄養ドリンク剤みたいなもの、と看破していた方がいたけれど、頼るべき指針のないこの国では、「こうやって自分のやりたいことを実現していけば、幸せになれますよ」と言える人に人が集まったりする。
えてして、そういった場面では「起業」や「自分のビジネスを持つこと」が「やりたいことをやること、自分のオリジナリティの証明」の具体的な方法とされる。なんでだろうね?
まあとにかく、「自分のやりたいこと」をやる手段の一つとして「起業」があるはずなんだけど、矢印を逆にして「起業」することで「オリジナリティの証明」に替えようとするのはおかしいよねってこと。
3つ目について。
「この世の中のどこかに憎しみに近い不満を抱いていて、その部分をよりよくしたい」という考えは、僕みたいな人間には生涯持つことができない考え方だと思っている。
「この世界にはこれが必要なんだ、だから俺が起業する」ということを言うためには、もちろんこの世界に「それ」が足りていないという定量的あるいは定性的なデータも必要だ。だけど何より必要なのは「俺が世界を変えてやる!」という自分本位の視点なのだ。でなければ自分の代わりにやってくれそうな企業の株を買って投資でもしていればいいのだから。
「自分が必要だと信じているから」起業するのだ。その「信じる強さ」は、おそらく、「どれだけ不満を強く感じられるか」に比例する。
僕が昔インターンしていた企業では、食品表示をわかりやすく消費者に伝えるというビジネスをしていた。社長に「どうしてこのビジネスを始めたのですか」と聞くと、「食品表示って、ルールがたくさんあって、わかりにくいじゃない。僕はアレルギー持ちだから、みんなが表示を見て内容を簡単に把握できる世界になればいいと思ったんだよ」という答えが返ってきた。
少なくとも僕は、食品表示についてそこまで強く不便さを感じたことがない。
これは性格だと思うのだけど、全体的に、僕はあまりこの世界に不満がないのだ。自分が絶対に嫌だと感じる部分がない代わりに、おもしろそうなものを知ったり、良いなぁを思うものを肯定したり、そういったことの方が好きだ。
これは個人の性格だからどちらがいいというものではないけれど、不満の強さ、ひいては「自分の価値観を絶対的に信じる力」がそう強くない僕のような人間は、どうしても「自分はこう思うけど、だけどあなたのような考えもあるし、どっちが正解ってわけじゃないよね」と思ってしまう。たぶんそういう人は、絶対的な価値判断の基準を持つ人を世の中に適合させていくような、二番手の位置が向いているのだろう。
昔、僕は「起業したい」と言っていた。
それはどちらかというと、「起業しなければならない」という、強迫観念に近いものだったように思う。
どういうことかと言うと、「生き残れる力を身に付ける」ことに対する義務感や、「人と違う人生を送る」ことに対する憧れがあったのだ。
義務感や憧れは、自分の価値観とは明確に区別して考えなければならない。義務感や憧れで走り出しても、心のどこかが引っかかって、全力疾走できないのだ。
「生き残れる力を身に付けたい」なら、「どんな力を?」と問うべきだし、「人と違う人生でありたい」なら「どう違いたい?」と問うべきだ。
僕の場合、得意なことは人が真に求めているものを考えて提供することだと思うから、そういった「マーケター」的な力を身に付けたいと思う。また、「人と違いたい」という点では、こうやってブログやウェブサイトを作って発信することで、結果として「おもしろいな」と人に思ってもらえれば良い。
また、起業するにあたって資質的な向き不向きは確実にあると思う。僕は、自分は向いていないと思う。その理由は上の方で述べた通り、「この世の中に強い不満を感じる性格ではないから」だ。
それらの要素を総合的に勘案して、それでも俺は起業するんだ!と言える人こそ、起業するに資する人だと、僕は思う。