Rail or Fly

レールに乗るのか、飛び降りるのか、迷っているきみに届けたい。

'K家' (バー@京都)

オシャレな石の通路の奥に、扉がある。

モダンで、それでいてどこか和風なテイストを感じながら、引き戸を開く。

新しいお店の扉を開く時はいつも、緊張と不安が入り混じる。快く迎えてもらえるだろうか、何か粗相をしでかさないだろうか…。

数年ぶりに入るお店であっても、それは同じだ。

僕が昔、お酒の好きな友人に連れられてここに来たことなど、お店の方はおそらく覚えていまい。しかし僕は、何かしらその時に感じるものがあったからこそ、こうして再びお邪魔しようと思っているわけだ。

それは、昔一度だけの何かの機会に話をして、こちらの心にはなんとなく残ってしまったものの、そのまま連絡を取ることがなかった女の子のようなものかもしれない。

今さら話しかけても、僕のことを覚えてはいないだろうし、むしろ怪訝な顔をされるかもしれない。

ずっと前に訪れたお店というのは、そういった、ともすれば一方通行に終わってしまうかもしれない片思いのような、淡い感情を抱かせる。



暗く重厚な店内。緊張しながら高いカウンターに腰をかける。

カウンターの幅は広い。

棚に並ぶのはウイスキー(麦の蒸留酒。原料は主に大麦だが、ライ麦、穀類、トウモロコシなども地域によって用いる)だろうか?もしかすると、ウイスキーがメインのバーなのかもしれない。今度来た時に、聞いてみたい。

一杯目は、サイドカー(ブランデー[ワインの蒸留酒]、コアントロー[オレンジのリキュール、リキュールとは蒸留酒に果実や香草などの副材料を加え風味付けしたもの]、レモンジュースで作るカクテル)を頼む。

僕はお酒がそんなに強くないので、度数約30度のサイドカーを飲むということは、その日のアルコール許容ゲージの半分ほどを使ってしまうということを意味する。最初の一杯、もしくは最後の一杯として頼むことが多い。

サイドカーです」と出されたグラスを少し持ち上げ、香りを嗅ぐ。よく冷えているので、そこまで香りが立つことはないが、ブランデーとオレンジのミックスされた鋭く尖った香りが鼻をくすぐる。

口に含んだ瞬間、甘酸っぱさと冷たさに思わず目を瞑る。

サイドカーは美味しかった。もちろんサイドカー自体僕が好きな味なのだが、キンキンに凍らされたコアントローのおかげか、ふっくらしたオレンジの味が際立ち、それがブランデーをうまく中和している。僕の好みの味のバランスだと思った。



おつまみに出してもらえる甘いバターを塗ったビスケットがとても美味しい。

チェイサー(飲み屋でいう水のこと。本来は、次のお酒をよりよく味わうために飲むもので水である必要はない)のように口の中をリフレッシュさせるものではないが、お酒と一緒に味わうと、バターの脂肪分がきりっとしたお酒にふくらみを持たせてくれるように思う。

そうやってゆっくりと自分のペースでお店に馴染んでいくと、いつしか最初の緊張は消えている。だいたい、そういうものだ。

お店に入った直後は、自分の動きや思考は外の世界のものが継続されている。それが、シェーカーの中で混ざり合うお酒のように、次第にバーのものにシンクロしてくる。ペースが似てくる。そうやって、最初は浮足立って悪目立ちしていた人間が、バーの暗闇に溶けていく。

一杯目を飲み終える頃には、僕はたいていリラックスできるようになる。そうなると、次の一杯ということを考える。

お酒とお酒の間というのは、単なる空白ではない。野球の投球の間に近いと僕は思う。一球目は内角高めにストレートを投げたから今度は外角に変化球とか、内角球をもう一つ続けるとかバッテリーが考えるのと同じように、さっきはあれ飲んだから今度は全然違うのを飲もうとか、似たような系統のお酒を飲もうとか、今まで知らないものをバーテンダーに聞いてみて試してみようとか、そういったことを考える。

今回は、さっぱりしたかったので、「エール(ビールの一種。ちなみに日本の大手ビールメーカーが作っているビールはほとんどが一種類に集約されます。詳しくはこちらを参照してください。)ありますか?」と聞いたのち、バスペールエール(イギリスのエール)を頼んだ。

同行者はグラスホッパー(グリーン・ペパーミント・リキュール、ホワイト・カカオ・リキュール、生クリームで作るカクテル。名前の由来はキリギリス[英語でGrasshopper]の色から)を頼む。



ここで気付いたのだが、グラスホッパーのシェークと先ほどのサイドカーのシェークは振り方が異なっていた。前者は激しく細かく、後者は大きくゆっくり振っていた印象だ。激しく細かいシェークは僕が滞在していた中ではグラスホッパーにしか用いておられなかったようなので、クリームを用いるカクテル特有の振り方なのかもしれない。

グラスホッパーの味を聞くとクリームが強いということだった。これは僕の推測だが、よりクリームを泡立てるために大きく振るということが考えられる。これは僕が昔読んだ「スタア・バーへ、ようこそ」という本に書いてあったこととは逆だ。

―もう一つは、生クリームを使うカクテルに用いる振り方です。大きめの氷を入れて、氷自体はあまり動かさないようにし、氷の間を液体がぬっていくように振ります。泡立てるというより、クリームのしっとりした感じを出したいのです。

(「スタア・バーへようこそ」p.35)

スタア・バーへ、ようこそ (文春文庫PLUS)

スタア・バーへ、ようこそ (文春文庫PLUS)



バーによってお酒への哲学は異なるだろうし、それはお店における様々な場所、場面に感じ取ることができる。バーテンダーの一挙手一投足、お店の名前や雰囲気、カウンターに置いてあるお酒、すべてだ。

音楽でも、音楽とは何かという哲学はそれぞれのアーティストによって異なるだろうし、その哲学が、音や拍子の使い方、自分のメロディにことばを乗せるかどうか、用いる楽器などといった具体的なところに現れるのだ。



今回は、二杯だけ飲んでお暇した。

最後に高校のクラスメートがこのお店で働いていて、二言三言やり取りを交わした。

単純に、素敵だなぁと思った。こんなところで働けるなんて、めちゃくちゃかっこいい。

その友達に見送られながら、再び石の通路を通って、僕は現実世界に戻っていった。

ごちそうさまでした。