Rail or Fly

レールに乗るのか、飛び降りるのか、迷っているきみに届けたい。

自分のやりたいことは、自分ではなく、外界や環境が決めるという話。

インドから帰ってきて1年。

僕は今、大学生活最後の1年の真っただ中にいる。

この1年の間に、ずいぶんブログ経由での知り合いが増えた。

インターネットというのは面白い。

ヤフーのトップページにあがる芸能人のキンキラのゴシップ記事にくらべれば、僕のブログなど裏通りに転がっているちっぽけな石みたいなものだ。

僕が過去に書いた記事の中には、それなりにはてブをなされて多くの人の目に留まったものもあるが、それはたまたま石ころが表通りに引っ張り出され踏んだり蹴られたりしただけで、もはやその記事の存在を覚えている人は少ないだろう。

そうではなくて、裏通りにひっそりと息づいている石の温かみを感じとり、しげしげと石の風貌を眺めて気に入ってくれた人もいる。

そんな人たちこそ、僕が言葉を届けたい人たちであり、僕がブログを書く意味だと思うのだ。



僕は5年ほど前からインターネット上でなんやかんやと発信してきたが、最近、自分のしたいことは「文章を書いてメッセージを届けること」であって、「何かの素晴らしさを伝達すること」ではない、という結論に達した。

それに伴い、「つづく。」というウェブサイトを、近日中に閉鎖しようと思う。

「つづく。」は、僕が5年前からやっていた「さし飲み対談」が少し形を変えたもので、人の面白さを伝えるということを目的にしていた。

もちろん、今でも人と飲みに行くことや、大人数といる時ではなかなか知ることのできないその人自身についての話を聴くことは、とても好きだ。

しかし、5年間同じような「対談」というコンテンツを発信し続けてきて、誰かから「面白い」「読んでよかった」などといった声を聞くことはなかった。

「面白そう」という声は何度か聞いたから、もっと工夫すればそれが「面白い」に進化したかもしれない。しかし、自分の力の入れ具合としては、そこが限界だった。

そういった、「他者から何らかの反応をもらえなかったこと、自分が他者に何らかの価値を提供できていると感じられなかったこと」が、「つづく。」をやめようと思った最大の理由だ。

突然の閉鎖ということで、もし楽しみにしていただいていた方がいれば、申し訳なく思います。



一方、このブログ。

書き始めて、今で1年半くらいだろうか。

はてブコメントや、設置してあるTwitterのアカウントやメールアドレスなどを通して、これまでに数え切れないくらいの方が、僕に直接声を届けてくれた。

「勇気が出た」「共感した」…それとともに「一度お話ししたいです」という言葉が添えてあることも、何度もあった。

そうやって、ブログを通してお会いする方々は、みんな僕と同じような悩みを抱えていたり、同じような考えを持っていたりしていた。

そして、僕は確信した。「僕がやりたいのは、こうやって文章を書いて、かつての自分と同じようなことで迷い、悩んでいる人たちを、少しでも応援することだ」と。

就職活動でも、僕は新聞やテレビといったマスメディアにまったく興味を持たなかった。それはそういったメディアが「事実を伝えること」に主眼を置いているからだと思う。最終的に広告業界を選んだのも、広告が、伝えることだけでなく、伝えた相手の心を動かし、行動に結びつけることを目的としているところにやりがいを感じたのだ。



「ウェブサイト」と「ブログ」という2つのものへの僕のこれまでの取り組みと結果を見ると、人間は自分だけの力でやりたいことを全うすることなどできない、と思う。

大芸術家であれば、心の底から湧き出てくるインスピレーションをぶちまけるだけでいいのかもしれない。

だけど僕はそんな大そうなものを持ちあわせていない。訴えたい世の中への不満もないし、時に偉業達成のための原動力となるような大きなコンプレックスもない。

昔も同じことを書いた気がするが、人と同じようにはありたくないとずっと思って生きてきたけれど、そう思う時点で既に、「人と同じように生きること」に縛られた発想しかできないのだ。本当の意味で人と違う人生を送る人は、人と同じであるとか違うとか気にしない。結果的に、人と違っているだけなのだ。

この「Rail or Fly」というブログの題名をある芸術系の学生の友人が目にした時に、「人生はレールという発想が自分の中にはなくて、それが新鮮だった」という感想をくれて、僕は自分がそれほどまでに「普通であること」に囚われているのだとハッとした。

自分はどこまでも凡人だ。

そんな人間が物事を続けていくためには、外界から何らかのエネルギーがもたらされることが必要だ。

外部からのエネルギーを必要とせず、いつまでも動き続けるような機械を永久機関というが、自分だけの内的なエネルギーのみで何かをやり続けるということは、自らがこの永久機関となることに例えられる。そして、永久機関というのは力学的に不可能であることがわかっている。

人体を思い浮かべてもいい。食べ物を食べなければ、人はやせ衰えていく。脂肪や筋肉をエネルギーに変えてるのも限界がある。いつしか人は死ぬ。外からエネルギーが供給されなければ、活動をつづけることはできない。

僕の場合でいうなら、ブログを書いていく中で受け取ったさまざまな感想が、外界から供給されるエネルギーになっている。

わかりやすいところでは、そういった感想は自分のモチベーションになる。自分がやっていることを、確かに誰かが価値として受け取ってくれていることを実感できて、それが自分の自信になる。

また、自分のやっていることがどんな人に、どんな風に価値と感じてもらっているのかを知ることで、今後自分がどうしていくべきかもわかる。

これは僕のブログのような趣味の範疇に入るものを考えた場合だが、社会人として仕事をすることを考えた時には、仕事に応じた対価(お金)が、外界からのエネルギーの中心となるだろう。



「一生をかけて叶えたい夢を見つけろ」と説く自己啓発書は数多い。だけどその答えは、自分の中には無いのだ。

答えは、自分自身と外界との関係性にある。

だから、とにかく時間のあるうちに、何でもいいからアウトプットをする。自分がそれをやりたいかどうかに強くこだわる必要はないし、昔自分が口にしたこととの一貫性を気にする必要もない。

「これ、いいかも」くらいでいいのだ。気になったら手を出す。

手を出したもののうち、どれが自分に向いているか。それは周囲が決めてくれる。



自分がどうやって生きていくべきか、それを決定するのは、実のところ外界、環境なのだ。

それが、僕が大学生活を通じて、苦しみながら得た一つの答えである。