Rail or Fly

レールに乗るのか、飛び降りるのか、迷っているきみに届けたい。

僕たちの周りには、味方しかいない。

僕が昔ブログを書き始めた頃に思っていたのは、「自分のことをわかってくれる人は、本当にわずかだ」ということだった。

 

そう考えていた理由としては、当時周りにいたのがほとんどインド人だったというのもあったと思う。(そして、僕がやっていたインターンが、日本人とインド人は全然違うんだということを日々強烈に認識させられる類の仕事であったことも大きな理由だったと思う。詳しくは 働きはじめて改めて感じた、海外インターンに行くべき理由。 参照。) 

 

ただ、僕はインドに行く前から、「自分のことは自分しかわからない」という諦観を抱いていた。それは、理学部という「研究者になってノーベル賞を取るのが一番偉い」という環境にある中で、どうしても研究に身を捧げられない自分に対する葛藤の末、生じた諦観だった。

 

だが、最近思うことは、自分の周りには味方しかいないということだ。

 

会社で働いている時も、友人と遊んでいる時も、シェアハウスで同居人や同居人が連れて来た知らない人とぐだぐだ話をしている時も、あるいはこのブログを書いている時も。

 

あらゆる場所において、僕が考えたことをしっかりと受け止めてくれ、それが間違っていた時にはきちんと正してくれる。そして、僕のやりたいことを応援してくれる。

 

きっと、僕が昔いた場所も、もしかしたらむせかえるようなインドのにおいに包まれていたあの頃も、僕がきちんと相手と向き合っていたら、その人は自分の味方になってくれたのかもしれない。そんなことを思う。

 

 

 

僕がインドにいた頃、いつも慰めてもらっていたのは音楽だった。

 

大好きだったのは、the pillowsの「1989」という曲だ。

 


the pillows / 1989 - YouTube

 

「Please catch this my song 君に届くように歌っていたのさ」と山中さわおの歌うこの曲は、その歌詞の通り、どこかにいるはずの「君」に向けて、音楽を奏でている。

 

たとえ大多数の人が自分たちの音楽を理解してくれなくても、たった1人の人がわかってくれたらいい…。

 

決してメジャーとは言い難いthe pillowsというバンドが、その長いキャリアの中で得た哲学が、この曲には凝縮されている。

 

そして僕は、自分がその歌詞の中で歌われている「君」だと感じ、周りに理解者のいない当時の自分を、彼らの昔の姿に重ね合わせていたのだ。

 

 

 

音楽や小説や…その他諸々の芸術作品に対して、僕と同じような感情を抱く人は、決して少なくないと思う。

 

そこで語られている物語や出てくる登場人物に、どうしても感情移入をしてしまう。

 

そして、「僕のことは、誰もわかってくれない。わかってくれるのはこの作品だけだ」と感激する。

 

だがその姿は、決して前向きなものではない。

 

僕が今思うのは、そういった芸術作品は、自分の「出発点」「帰ることのできる場所」とすべきなのだ、ということだ。

 

日々の生活がうまくいかなくても、戻っていける場所さえあれば、人はとても強い生き方ができる。

 

僕は、仮に今働いている会社がなくなってしまっても、特にどうということはない。雇ってもらえるのなら、インターンをしていたIT企業に頼み込むという手もある。居酒屋でもう一度ホールスタッフとしてやっていってもいい。最悪、またインドに行って不動産営業をすればいい。

 

「自分のことをわかってくれる芸術作品」も、それと同じだ。

 

自分がいろんなことにチャレンジして、それでも上手くいかなかった時に、もう一度自分の原点を確認する意味で、そこに戻っていけばいいのだ。

 

決して、「誰も自分のことをわかってくれないんだ」と、その世界だけに安住しようとすべきものではないのだ。

 

 

 

2年の歳月をかけて、僕は自分の周りに味方になってくれる人しかいないと感じるようになった。

 

最初から、そう悟れる人もいるだろう。それは素晴らしいことだ。

 

ただ、僕と同じように、「自分のことをわかってくれる人なんてほとんどいない」と嘆いている人がいたら、その人に少しだけ言いたいことがある。

 

あなたが勇気を出して自分のことをさらけ出すことができたなら、あなたが敵だと思っている人のほとんどは、あなたの味方になってくれるということを。