Rail or Fly

レールに乗るのか、飛び降りるのか、迷っているきみに届けたい。

はてなブックマークは、人を殺す。

もちろん、比喩的に。

 

 

 

僕がこのブログを書き始めて一月ほど経った、2年前のことだ。

 

何の気なしに書いた、英語を話せても代替不可能な人間になんてなれやしないんですよ という記事が、たまたまホッテントリ入りしてしまった。

 

インド・ムンバイのアパートの、南京虫の潜むその貧相なベッドに寝転がりながら、またたくまに指数関数的に増えてゆくアクセスを目撃して、僕は少し怖くなり、同時に誇らしい気持ちになったことを覚えている。

 

この体験は、僕のブログに対する姿勢に大きな影響を与えた。

 

つまり、心のどこかで「またホッテントリ入りしないかな」と期待しながら、ブログを更新するようになってしまったのだ。

 

 

 

「もう一度、いろんな人に読んでもらえるような記事が書きたい」という願いを抱きながらブログを書くと、どんな過ちを犯してしまうのだろうか。

 

いろいろあると思うが、一つ僕の経験から書くと「自分がイメージできない人にメッセージを投げかけてしまう」ということがあるように思う。なぜなら、いろんな人に読んでもらおうとすればするほど、自分のよく知らない、ただ噂やニュースでしか聞いたことのない人たちにもメッセージを届かせる必要があると思ってしまうからだ。

 

何かを伝えようとする人にとって、自分がイメージできない人にメッセージを投げかけることほど、やってはいけないことはない。

 

だからこそ広告代理店は、お金を払ってインタビューをせっせと行い、生活者の生の声に耳を傾けるのだ。

 

たとえ性別や年齢といったデモグラフィック的な属性がわかっていたとしても、自分がこれまで出会ったことも会話したこともない、具体的なイメージの湧かない人を相手にメッセージを届けることはできない。それを無理にやろうとすると、誰に向かって発信されているのかわからない、耳に心地よく響くだけのお題目となってしまう。

 

「意識高い人」が揶揄されてしまうのは、誰に呼びかけているのか自分でもわからないまま、「グローバル化に備えて英語を学ぼう」「これからはプログラミングと会計がわからないと話にならない」などと語りかけてしまうからだ。

 

僕はいわゆる「啓発」という行為がとても苦手だが、これも、「誰に呼びかけているのかわからない」啓発が本当に多いからだ。

 

誰に向けたものかわからないメッセージを量産していると、次第にコンテンツはやせ細り、もともといたファンまで離れていってしまう。

 

そうして、おととい 昔の自分は他人だ。 で書いたような、どうにも筆の進まないスランプに陥ってしまうのだ。

 

 

 

以前 生きることは、発信すること。コミュニケーションの未来とは。 という記事でも書いたが、僕は生きることはすなわち発信することだと考える。

 

上の記事を簡単に説明すると、熱の放散やエントロピーの減少、あるいはSNS上でのつぶやきやメッセージといった現象を鑑みると、生きることと発信することは、限りなくイコールで結ばれるのではないか、ということであった。

 

この論でいくと、はてなブックマークは人を殺しうる。

 

はじめはしっかりと地に足をつけて文章を投稿していた人間が、突然の爆発的なアクセスによってそのバランスを失い、スランプに陥ってやがて消えてしまう。はてな界隈でも時たま目にする光景だ。

 

それは、あたかもはてなブックマークによって生存(すなわち発信)をやめてしまったかのようだ。

 

 

 

もちろん、僕は今でも自分の記事にはてなブックマークがつくと嬉しいし、がんばって書こうという気持ちになる。また、ビジュアル的にも白黒の画面にほんのり赤い数字が光っているのは息抜きになる。はてブは精力剤であり、また清涼剤でもある。

 

だが、どれだけ力になる薬でも飲みすぎると身体の毒になるように、はてブを追い求めて記事を書いてしまうと、本来の自分の想像の範囲を超えた、上滑りしたメッセージになってしまう。

 

大量のアクセスは、すべてを洗い流す大波のようなものだ。それを経験した後にぽつんと残るものこそ、自分がブログを通して表現したいもののはずだ。

 

はてブに殺されないように、はてブを味方にできるように、これからも文章を書いていきたい。