Rail or Fly

レールに乗るのか、飛び降りるのか、迷っているきみに届けたい。

生きることは、発信すること。コミュニケーションの未来とは。

あけましておめでとうございます。

予定では、今年は就職先を決めるつもりで、人生の大きな岐路になる年なのは間違いない。(就職できなかった場合のことは知りません。。)

今年もこのブログ「Rail or Fly」をよろしくお願いします。



ところで、1カ月間ブログの更新が空いてしまった。

このようなことは、実は前にもあった。インドから帰国して「休学が僕にもたらしたもの」を書いた後である。

なんだか占いの自己達成予言みたいになってしまって恐縮なのだが、このように更新の間隔が空くのは、メンタルが少し落ちている時が多い。

もちろん、僕がこのブログで生計を立てていたり、何か表現活動をしてメシを食っていたなら、そんな甘えたことは言ってられない。でも、僕にとってこのブログは趣味である。「書きたい時に書きたいものを書く」、それをモットーに素直にブログと向き合っていたら、精神の揺れと更新頻度に関連性が見られるのは、ある意味当然だと思われる。

肉体や精神の生命力と発信力とは密接な関係にあるのだ。



今日のテーマは、「生きることは、発信することだ」という命題の主張。

それから、そのような事態がインターネットの普及により非常にわかりやすくなってきたという現状の説明。

そして、これから。「生きていること」がその発信内容から把握できる人たちに対し、どのように働きかけていけばよいのか。

妄言の類になってしまうかもしれないけど、まあ暇つぶしに読んでください。



僕は、「生きることは、発信することだ」と考えている。

もちろん、僕らは存在しているだけで周囲に熱を放射しているし、友達とおしゃべりする時には音を発している。でも、じゃあ変温動物は発信していないのか、鳴かない生物は発信していないのかというと、それは違うと思う。



まず、生命とは何か。この問いは非常に難しい問いだが、生物学的な見方、それから物理学的な見方から考えてみよう。



生物学でいう「生物の特徴」は、「細胞を持っていること」「代謝すること」「自己複製すること」などだ。

たとえばウイルスというのはいかにも「生きている」ように思われるけれども、細胞を持たない(細胞質がなくタンパク質と核酸しか持っていない)し、代謝しないから、一般的には生物とはみなされない。

生物の最小の単位である細胞を持ち、外部から養分を取り入れ不要なものを排出し、単一で、あるいは他個体と協力して殖える。これが生物、生命の特徴(の例)とされる。



また、物理学の視点で見ると、生命は、熱力学第二法則という法則に、宇宙的規模で見ればほんのわずかな時間ながらも、逆らう存在だ。

熱力学第二法則とは、「時間の経過によって、整頓された(特定のモノが揃って集まった、あるいは複雑に形作られた)状態からより乱雑な(バラバラな、無秩序な)状態に変化していく」というものである。これを、「エントロピー(乱雑さ)が増大する」とも言う。

例えば、冬場にお湯を張ったバケツを屋外に置くと熱は逃げ、やがて外気と同じ温度になってしまう。新築の家はやがて老朽化し崩れ落ちる。比喩的には、大晦日に大掃除をしてきれいになった部屋が、1ヶ月後には足の踏み場もないくらい汚くなっていることを考えてもらってもいい。

そうしてもうこれ以上(見た目には)変化しなくなった状態を、「平衡状態」あるいは「エントロピー最大の状態」と呼ぶ。

著名な量子力学者であるシュレーディンガーは、「生命とは何か」でこのように書いている。

生命というものだけにある特徴は何でしょうか?一塊の物質はどういうときに生きているといわれるのでしょうか?

生きているときには、動くとか周囲の環境と物質を交換するとか等々「何かすること」を続けており、しかもそれは生命をもっていない一塊の物質が同じような条件の下で「運動を続ける」だろうと期待される期間よりもはるかに長い期間にわたって続けられるのです。

生きていない一つの物質系が外界から隔離されるかまたは一様な環境の中におかれるときには、(中略)化合物をつくる傾向のあるものは化合物になり、温度は熱伝導により一様になります。

そのあげくには系全体が衰えきって、自力では動けない死んだ物質の塊になります。目に見える現象は何一つ起こらない或る永久に続く状態に到達するわけです。物理学者はこれを熱力学的平衡状態あるいは「エントロピー最大」の状態と呼んでいます。(中略)

生物体というものがはなはだ不思議にみえるのは、急速に崩壊してもはや自分の力では動けない「平衡」の状態になることを免れているからです。

(「生命とは何か」、p.137)

ここでシュレーディンガーが物理学者の視点から言っているのは、「生命は、生命を持たないものに比べてはるかに長く、外界との何らかの情報あるいは物質の交換を(意識的にせよ無意識的にせよ)続けられる存在である」ということだ。

(このあとシュレーディンガーは、「生物体が平衡状態に達するのを免れているのは『負のエントロピー』を食べているからである」という非常に興味深い推察に入ってゆく。興味のある方は、ぜひ元の本にあたってほしい。)

生命とは何か―物理的にみた生細胞 (岩波文庫)

生命とは何か―物理的にみた生細胞 (岩波文庫)



上記の生物学的、物理学的な考え方を総合すると、生命とは、外界と自らとを隔てる膜や壁の中で、必要なモノを取り入れ代謝を行い秩序だった「個体」を維持し、次世代を残すもの、と言える。

外界は、エントロピーが絶えず増大し続ける世界である。生命は、そのような一方向的な激流に逆らい、「死」という平衡状態に落ち込まないよう懸命にこぎ続けるボートである。外部から物質や情報を(シュレーディンガーによれば、負のエントロピーを)取り入れ必要なカタチに変え、外界の自然の摂理に必死に抗い、「俺はここにいる!」と主張し続ける存在なのである。

その意味で、生きることとは、発信することなのである。



ところで、近年インターネットの発達によって、生きることは発信することだということが、目に見えてわかるようになってきたと思う。

SNSによって、「生きている状態」のうち特に「意識している時間」が。そして、より広くウェブを見渡せば、「無意識に動いている時間」までもが、常時発信されるようになりつつある。



まずは「意識している時間」について見てみよう。

スマートフォンやPCの電源を入れれば、Facebookに、スカイプに、何もせずともつながる。

以前僕がしばらくTwitterにログインせず、その後久しぶりにつぶやいたところ、友人から「死んだのかと思った」というリプライが来たことがある。

「生きている=発信している」ということがある程度認知されているからこそ、このような比喩が出てくると考えられる。

そして、思考の内容をTwitterで、見た風景をInstagramで、自分の場所さえFourSquareで、僕らは発信する。

SNS上で、僕らはいとも簡単に「表現」することができる。言葉で、写真で、イラストで、音楽で……。しかし、発信というのは表現に限らない。SNS上で、友達が就職したり、結婚したりするのを、僕らは目の当たりにする。夢を叶えたり、心機一転やり直したり、幸せをつかんだりするのを目の当たりにする。それは、その人が発信し続けている人生そのものを、SNSという媒体上で目撃するということである。

その意味では、SNSは、人々の広い意味での発信を可視化する無地のキャンバスであり、その上で描かれる作品は、ログインしている無数の人々の「現在進行形の、生きる軌跡」なのだ。



SNSによって可視化される人々の「生きる軌跡」は、「集合的意識」と呼ぶことができるのではないかと、僕は考えている。

心理学者であるユングは、すべての人が共通に持つ、無意識の深層に存在する先天的な領域を「集合的無意識」と呼んだ。「集合的意識」は、それをもじったものである。

そんな「集合的意識」が顕著に現れるのが、みんなで人気のあるテレビ番組を見ながらTwitterを楽しむシーンである。

以下は、「明日の広告」で有名な、さとなおさんの別の本から。

『明日の広告』でボクは「ネオ茶の間」ができると書き、それは後にツイッターやフェイスブックで実現されたが、これは同じテレビ番組を見ながら、ネットでおしゃべりをする人々の出現を予測したものだった。(中略)

たとえばサッカー日本代表のゲーム中継をツイッターやフェイスブックしながら一緒に観る人は多い。人気映画やクイズ番組、ライブ中継などのコンテンツをソーシャルメディア上でおしゃべりしながら観る人も多い。また、時事的に重要な出来事などをソーシャルメディア上でリアルタイムに共有しながら観る人も多い。

(「明日のコミュニケーション」、p.106)

明日のコミュニケーション 「関与する生活者」に愛される方法 (アスキー新書)

明日のコミュニケーション 「関与する生活者」に愛される方法 (アスキー新書)

この「集合的意識」を捉えるために、電通は、テレビ視聴率に代わる新しい指標として、テレビのコンテンツがTwitter上でいかにつぶやかれているかを指標化する試みに乗り出している。非常におもしろい試みだ。

電通、Twitter上の話題の拡散力を測る新しい指標を開発



一方、SNSに限らずウェブ全体を眺めてみれば、「集合的意識」だけではなく無意識の層まで捉えられるようになってきている。

オンラインの世界では、生活者の足跡が簡単に追えるようになっている。

僕らがあるキーワードで商品を検索しオンラインで購入する時、その検索ワードやオンラインショップでのあるページにおける滞在時間、購入までに辿った動線などは、すべてデータとして蓄えられている。このブログの読者の方の足跡も、Google Analyticsを見ればすぐにわかってしまう。

これが、かつて「ウェブ進化論」で言われていた「神の視点」というものである。

「神の視点」とは、「全体を俯瞰する視点」のことである。

ヤフーはメディア的な情報サービスを、楽天は商取引や金融サービスをそれぞれの顧客に提供する。(中略)

こうしたネット業者は、一○○万人単位とか一○○○万人単位という、ほぼ不特定多数無限大と言ってもよいほど厖大な量の顧客が、「そのサービスを利用して何をしているのか」についての情報(誰が何をいくらでいつ買ったか、どんな記事を読んだか……)をすべて自動的に収集できる。(中略)

極めて単純な例から考え方を示したに過ぎないが、膨大な量のミクロな「動き」を「全体」として把握することが「神の視点からの世界理解」である。

(「ウェブ進化論」、p.34)

このような神の視点でもたらされたデータに沿って、アマゾンは僕らの好みに沿っておススメ商品を提供してくるわけだ。

商品を購入する側からしてみれば、このページに何秒滞在しようなんて、考えてもいないはず。

つまり、ウェブは人の無意識の行動まで、捉えてしまうようになってきているのだ。

ウェブ進化論 本当の大変化はこれから始まる (ちくま新書)

ウェブ進化論 本当の大変化はこれから始まる (ちくま新書)



常時オンラインに接続され、生きる=発信するという構図が可視化され、意識も無意識もウェブに捉えられてしまう……。

今後、この動きはますます加速すると思われる。

2025年。「ワーク・シフト」に描かれたロンドンの女性・ジルの生活は、24時間365日、いつもオンラインに接続され、リアルとバーチャルの両面で仕事をこなしていくというものだった。



十時、まだパジャマ姿のジルは、慌ただしく朝食を口に放り込む。電話してきた同僚たちを待たせておいて、会社の自分用アカウントにログインし、夜の間に新しい仕事が発生していないかチェックする。この後の一時間は、ある顧客との電話会議。(中略)

十一時、いよいよ出勤。十キロあまり離れた場所にある自社の「オフィス・ハブ」まで、電車で出かける。(中略)電車内の十五分間は、携帯端末でメッセージに送信し、チームのメンバーから電話を数件受ける。(中略)

ジェリーとの打ち合わせは四時に終わり、ジルは再び着信メッセージを確認する。四時三十分、アメリカのチームとの会議が始まる。アメリカの状況を確認し、ルワンダの案件について意見を尋ねるチャンスだ。アメリカにいるメンバーのうち何人かは、アリゾナ州フェニックスのオフィス・ハブに出勤して、テレプレゼンス用の部屋を三十分間押さえていた。(中略)

この未来では、すべての活動が細切れになり、私たちは世界中の同僚や取引先と仕事をし、世界中のライバルと競い合うようになる。(中略)

私たちは常時、オンラインにつながって過ごすようになるのだ。

(「ワーク・シフト」、p.70)



この本では、このような「24時間365時間オンラインに接続され仕事を続けている未来」が悲観的に描かれている。そして、このままのスピードで世界が動いていけば、「ゆでガエルのように」僕たちはこの悲観的な未来(本書では「漫然と迎える未来」と書かれている)に入りこんでしまうと警鐘を鳴らしている。それを避けるために何をすべきかといった部分は、ぜひ実際にこの本を読んで、考えてみてほしい。

とにかく、いつも仕事に追われているかは別にして、僕らが常時オンラインに接続して暮らすようになるのは、間違いないと思われる。もちろん、世代や年齢によって、個人差は認められるだろうけれども。

ワーク・シフト ― 孤独と貧困から自由になる働き方の未来図〈2025〉

ワーク・シフト ― 孤独と貧困から自由になる働き方の未来図〈2025〉



こうした、意識・無意識に関わらず、生きている人間の動きすべてを捉えようとする流れの先にあるのは、人の残した膨大な足跡を積み上げ、統計的に扱うやり方である。(最近「ビッグデータ」という言葉がしきりに言われているが、それである。)

そこでは、人間は「感情のある一人の人間」というよりは、「ある振る舞いをした大きさを持たない点」として扱われる。

これは、数理生物学的な考え方に似ている。数理生物学的な考え方では、生物の個体を「点」として捉え、全体のシステムにおける点の振る舞いを考察する。そこに「感情」や「意志」といった曖昧な要素は含めない(あるいはそれらも「数式」で記述できるとする)。

たとえば、下記のような例がある。ロンドンにできた橋が、その上を歩く歩行者たちが意図せず生み出してしまった巨大な力により、一時通行禁止に追い込まれたという話である。人を点と考え、歩行という行動を「リズム」という物理的な要素と捉え、そのリズムの同期によって揺れが生み出されたと考える。

スティーヴン・ストロガッツは著書『SYNC』の中で次のような興味深い現象を紹介しています。(中略)ロンドンに新しくできた歩行者用のつり橋「ミレニアム・ビレッジ」が大揺れに揺れて閉鎖になったという事件です。(中略)

オープニングとともに数百名の人々が両岸から押し寄せました。その後数分も経たないうちに、六九〇トンもの橋が大きく揺れはじめたのです。(中略)

その後の調査でわかったことは、この橋は約一秒周期で、変化する外部からの力に対して特に弱く、それに共鳴して揺れやすいということでした。しかし、人々で混んでいる橋にどうして一秒周期の力がかかるのでしょうか。

可能性としては、人々の歩調が原因ではないかということです。橋を歩く人の歩行ペースは平均して一秒に二歩程度だからです。左右二歩で一周期だから、つじつまが合っています。

問題なのは、(中略)人々の歩調はまったくランダムだと考えられるという点です。ランダムなら、平均として効果は打ち消されるはずです。

しかし、この点こそが、集団同期が常識破りな点なのです。個々人の歩行という「リズム」が互いに同期して、集団として大きなリズムを生みだしてしまったのです。橋という媒体が個々人の振動間の相互作用を媒介したのだと考えられます。

(「非線形科学」、p.144)

非線形科学 (集英社新書 408G)

非線形科学 (集英社新書 408G)

数理生物学的な考え方は、自然科学の世界で、細胞生物学や生態学において、非常によく用いられている考え方である。



人間の行動を点の振る舞いと捉える。

その考え方で人間のすべてを理解できるかどうかというと、自らの視点によるのだと思う。

科学者として「観測者」となって自然現象を解き明かす立場であれば、その考え方でもよいのかもしれない。

しかし、積極的に感情を動かし、人と人、人とモノを結ぼうと思った時には、もう一歩踏み込んだ考え方が、必要なのではないだろうか。

立花隆は、「世界の捉え方」として、以下のように三つのフェーズを提示している。



世界のとらえ方には、いつでもこの三つのフェーズ(位相)があります。

まず、フェーズIでは、客体世界それ自体を、それだけで自立している世界としてとらえる。自分はその世界の外に立って眺める立場に徹し、その中には入らない。自然科学が世界を見るときの基本的立場はこれです。

第二のフェーズでは、自己を客体世界の中に当時、すべてを自己との関係性において見ます。(中略)

理系でいえば、理学部の視点がフェーズIで、工学部の視点がフェーズIIです。(中略)文学は、文学研究者はフェーズIの立場に立とうとし、創作をする側は、フェーズIIであるといってよいでしょう。

この他に、フェーズIIIとして、客体世界を離れて、自己の内部世界にどこまでも入っていき、自己の深淵の中に小宇宙を見出し、外部世界は内部世界に反映する限りにおいて見ていくという立場があるわけです。

この立場に近いのは、哲学、文学の一部、物理学の一部、医学の中の精神医学、脳科学の一部といったところでしょう。

(「脳を鍛える」、p.49)

脳を鍛える―東大講義「人間の現在」 (新潮文庫)

脳を鍛える―東大講義「人間の現在」 (新潮文庫)



この本で立花隆が述べている「フェーズI」の段階が、たとえば数理生物学であり、あるいは理学部で行われている研究であり、「ビッグデータ」である。

一方、より個別的なものの見方が重要になる「フェーズII」あるいは「フェーズIII」の考え方こそが、今後上記の「フェーズI」に加えて重要になってくるはずだと、僕は思う。

(I、II、IIIの違いについて、個人的な解釈だが、Iは「世界はどうあるか」、IIは「僕は世界をどう見るのか」、IIIは「僕の中にある世界はどんなものか」だと考えている。)

理学部の一学生として述べると、自然現象を解き明かす時、僕らはそれを何かに生かそうと思っているわけではない。自然界に生じているある偏りを数学の言葉を用いて記述し、新たな概念を創出する。それでひとまず終わりなのだ。フェーズIとは、つねに変わらない真理をひたすら見つけていく視点なのだ。

しかし、そうして集めたデータを基に生活者に商品を売っていきたい、新しい未来を創りたいと考えるのであれば、フェーズIの考え方だけでは、足りないと思うのだ。特に、人を相手にした場合には。

どういうことか、具体的に僕がわかっているわけではない。それがわかっていたら、たぶん凄腕のマーケターになれるから。

しかしなんとなく心に引っかかっているものはある。それは、たとえば「知らない人にブログの記事を読んでもらう方法」で書いたような、「いわゆるマーケティング的な考え方、発信されたデータを基に需要を捉えていくという方向性」ではなく、「自己の内面を深く見つめさらけ出すことによって共感を引きずり出す方法」、のようなものかもしれない。

「真理は主体性にある」という実存主義的な考え方、と言ってもいいかもしれない。あるいは、「人に賞讃されることなど考えもせず創ったアート作品」が、「資本主義市場でとんでもない高値を付けられ取り引きされる」という、「アートとビジネスの融合」と言ってもいいかもしれない。

まだまだ、まだまだ、考えはぼんやりとしている。ブラックボックスに入れて、考え続けたい。



このブログは僕の個人的な日記ではないが、一応述べておくと、僕はコミュニケーションに関わる仕事がしたい。ここまで読んでくれた方なら、おわかりだろう。

4P(Product、Price、Place、Promotion)でいうなら、Promotion。4Cを生活者視点で読み替えた4C(Customer value、Customer cost、Convenience、Communication)でいうなら、もちろんCommunication。

「生きることは発信すること」という命題が、こんなにもわかりやすくなった時代に、僕はワクワクを抑えきれない。

意識も無意識もウェブによって捉えられるこの時代に、その向こう側にいるはずの「ファジーな生身の人間」に届くように、コミュニケーションを考えていきたいと思っている。

科学者の理屈と、創作者の感性を、武器にして。