いわゆる「文系」の学問を煽るセリフとして、「文系は作者の気持ちでも考えてろよ」というものがある。
特に、医学や薬学、工学といった「実学」を学ぶ理系サイドから、浴びせられる嘲笑のように思う。「俺たちは世の中の役に立つものをつくってるけど、『作者の気持ちを考える』ことは世の中の何の役にも立たないんじゃないの?」って。
もちろん、もともと「作者の気持ちを考える」ことは、世の中に何らかのわかりやすい(=カネという指標で測れるような)価値を提供するためにやっていることではない。そうすることで、作品のよりよい味わい方を見つけ、自分が気持ち良くなるためにやっているはずだ。
だが、あえて「作者の気持ちを考える」ことに意味があるとするなら、それは「人がなぜこのような行動をしたのかを考える」ことと同義だから、と言える。
そして、「人がなぜこのような行動をしたのかを考えること」は、マーケティングという「カネを生み出す活動」に必要不可欠な姿勢なのだ。
そもそも、「作者の気持ちを考える」という行為は、ただ単純に、悲恋の小説を呼んで「これを書いた時、作者は悲しかったんだろうなぁ」などと勝手に想像することではない。
それは、物語の構造、キャラクター、表現手段や技法、間の空け方、何を描くかなどなど、作品を構成するすべての要素から、「どうしてこの作品はこのような表現であらねばならなかったか」ということを問うていくことだと思う。
例えば、最近僕が観た「パルプ・フィクション」という映画。
これは、物語の時系列をわざとバラバラにして構成された作品だ。
時系列をバラバラにするという行為は、一見、現代で最も長い時間受け手を拘束し自分の思い通りの時間軸を見せつけることのできる、映画監督という表現者の特権を、投げ捨てているかのように思える。
表面的にこの作品を捉えれば、マフィアがいろんなところでバカをやっていて、しかもその時系列がめちゃくちゃな、よくわからない映画だ、という評価になるだろう。
しかし、僕は別のことを思った。
時系列をシャッフルしていても、この映画はそこそこおもしろい。
そこから読み取れるのは、本作も含めた世の中にあふれる下らない映画のほとんどは、映画という「長時間作者の思い描く時間軸で受け手を拘束する」芸術の形を取らなくても、順番をツギハギにして観衆に見せてやっても、作品の価値なんてそう変わらないものなんですよ、という辛辣なメッセージだ。
(もちろん、「パルプ・フィクション」については、ここで僕が書いたこととは違う解釈ももちろんあり得るし、それらを否定するものではないことは、一応書いておく。)
あるいは、音楽を例に出そう。
ロックの場合、歌のメッセージ、つまり言語的な部分と、メロディーやコード、リズムやサウンドといった非言語的な部分がリンクすることは、非常によくあることだ。
the pillowsの「Please Mr.Lostman」という曲は、「たとえ聴いてくれる人たちがたった1人でも、俺たちは俺たちの音楽をやり続けるんだ」という、彼ら自身への応援歌的な曲である。
その曲の最後の部分、「Please Mr.Lostman それがすべてだろう Please Mr.Lostman I need you so....」と歌うところのコードに注目してほしい。
ここでは、そのうち忘れられてしまう音楽を奏でる人たち、すなわち自分自身たちのことを、Mr. Lostmanという言葉で表現している。
彼らは迷っている。本当に自分たちの音楽をやっていていいものかと。
その迷いが、「Please Mr.Lostman I need you so...」のところのコード進行にしっかりと現れている。G→Aときたコードは、普通最後はDに着地して終わるはずだが、もう一度ためらうようにGに戻っている。
西洋音楽的なルールでいえば、G→A→Gという進行は、ルール違反である。
それでも最後はDにいって、曲は終わる。
教科書通りならば「起承転結」といくところを、「起承転(足踏み)結」となっているところに、彼らの迷いや、「それでもやるんだ」という決意を、読み取ることができるのだ。
前置きが長くなってしまったが、「作者の気持ちを考えること」は、かように「作品のさまざまな構成要素を手がかりにして、作者がなぜそのような表現に至ったのかを考えること」である。
そしてここからが本題だが、「表現された(=発信された)様々な要素から、発信者がなぜそのような行動に至ったのかを考えること」は、マーケティング、特に最近やかましく言われている「データから生活者の行動を読み取ること」と同義である。
アクセス解析データやPOSデータ、あるいはテレビの視聴データなど、マーケティング活動には種々のデータが用いられる。
それは、僕が何度かこのブログでも書いている、「人が生きていると自然に周囲に発信される痕跡」である。(参考:生きることは、発信すること。コミュニケーションの未来とは。)
ある人が今、僕のブログにアクセスしている。その人はまずトップページに5分間滞在して、それから「生き方」のカテゴリーに飛んだ。
このような「発信の痕跡」から読み取れるのは、おそらくこの人はトップページの中でも「生き方」にカテゴライズされている記事を5分で読み、それで気に入ってくれて同じカテゴリーの記事を読もうとしてくれた、ということだ。
もしこういったアクセスの経路を辿る人が多いようであれば、僕は「生き方」にカテゴライズされる記事を必ずトップページに出てくる最新記事のどこかには入れるように更新したり、「生き方」カテゴリーのボタンをもっと目立つ場所に設置したり、といったことを考えるだろう。これは、立派なマーケティングの一つだ。
このように、「発信されたものから、発信者がどうしてそういった行動に至ったのか」を考える姿勢が、マーケティングには不可欠である。
「作者の気持ちを考えること」は、確かに、それを繰り返せば確実に何かリターンがある(例えばマーケティングの能力が上がる)、というものではない。
その点では、プログラミング言語を学べばプログラミングができるようになるとか、簿記を学べば会社の財務状況が把握できるようになるとか、そういった類のわかりやすい能力ではないだろう。
なぜなら、「作者の気持ちを考えること」は、姿勢だからだ。
表現されたすべての要素から、どうしてこのような表現になっているかを考えること。
「作者の気持ちを考えること」というのは、そうした「細部も全体も見渡した上で表現者の気持ちを考えること」に他ならない。
しかし、姿勢がなければ結果は出ない。
単にデータがたくさんあって、データを数学的にあれこれいじれる研究者がいたとしても、そこから新しい商品につながるマーケティングは絶対にできない。
これまでの広告代理店のプランナーがやってきたことは、これからのデータマーケティング時代でも活かせる。(中略)
その理由の一つは先にも述べたように定性調査をベースにした仮説設計力が求められるからである。いくらビッグデータが存在しても単にたくさんのデータがあるだけでは意味がない。そのデータの大海原からどういう切り口での分析をするとよいのか、という仮説立ての能力がない限りデータの洪水に溺れてしまうだけだ。
(「広告ビジネス、次の10年」p. 202, 203)
鳥の目と虫の目で人の心を捉え、「どうしてこんな表現になったのか」を作者の気持ちになって紐解いていくという姿勢は、必ずマーケティングの世界でも役立つのだと、僕は確信している。