Rail or Fly

レールに乗るのか、飛び降りるのか、迷っているきみに届けたい。

'青が散る' - 宮本輝 / 喪ったものは可能性である。喪失と教養小説について。

青が散る〈上〉 (文春文庫)

青が散る〈上〉 (文春文庫)

青が散る〈下〉 (文春文庫)

青が散る〈下〉 (文春文庫)




小説における名作の条件として、「読んでいる最中から、読み終わった時のことを考えて寂しくなってしまう」というものが挙げられると思う。

小説は、本という物体が有限のものである以上、必ず終わる。小説の世界が終わった時、僕らは僕らの世界に戻ってこなくてはならない。その帰還が名残惜しいと思える作品は、間違いなく名作だ。

この「青が散る」という小説も、そんな作品だと思う。



クライマックスは、やっぱり最後のシーンだろう。

”自分のまわりにいた者はすべて、何物かを喪った。そんな感懐に包まれた。そして燎平は、自分は、あるいは何も喪わなかったのではないかと考えた。何も喪わなかったということが、そのとき燎平を哀しくさせていた。何も喪わなかったということは、じつは数多くのかけがえのないものを喪ったのと同じではないだろうか。”

(p.468)

大学時代に、登場人物たちは何を喪ったのか。

それは可能性だと思う。

あるものはテニス部創建に、そしてインカレを目指した練習に打ち込み、あるものは恋愛に身を捧げ、あるものは歌手としてデビューするために、あるものは司法試験に合格するために、あるものは会社を興すために邁進する。

大学4年間で、登場人物たちは彼らの持つ可能性を試し尽くす。挑戦は、失敗に終わることがほとんどだが、中には東京で歌手としてデビューしたガリバーのように夢を叶えたものもいれば、司法試験に一度失敗するものの粘り強く勉強を続ける木田や、事業の失敗にもめげず再起を目指す氏家や端山のように、諦めずに次回の挑戦を志すものもいる。

失敗や成功といった結果と引き換えに、僕たちは「可能性」を喪う。

燎平が何も喪わなかった、いや、喪えなかったのは、一見テニスや恋愛に熱中しているように見えても、それはすべて他人に巻き込まれた、主体性の欠けた行為だったからだろう。テニス部創設のメインメンバーとして尽力するのは金子に焚きつけられたからだし、片思いしていた夏子の駆け落ちの後始末をさせられたり、人妻となったかつてのサークル仲間の祐子から恋心を告白されなし崩し的に一夜を過ごしたりしたのも、全部人に巻き込まれてやったことだ。

主体的に取り組まねば、何も喪うことはできないのである。

僕は過去に散々「やりたいことをとにかくやってみる。そうして、今後の人生で自分がどう生きていきたいかわかってくる」という趣旨の記事を書いているが、大切なことは「やりたい」という主体的な気持ちがあることだ。あるいは、人に巻き込まれたことであっても、「やりたい」と思いなおせることだ。



ところで、この小説では成長=喪失することとされている。これは、ドイツなどで主人公が様々な体験を通して内面的に成長していく過程を描く小説のことをBildungsromanと呼び、成長=ビルディング、つくりあげること(教養を得ること)と定義されているのとちょうど対になっていて面白い。

たとえば代表的な教養小説の書き手であるヘッセの「ペーター・カーメンツィント」という作品では、主人公は最後に生まれ育った村に帰ってきて、自分の人生を文字にしたものをつくろうとしている。「私はやはり詩人だったのである」という言葉があることから、おそらく詩のような形式の作品であると推測できる。これなど「人生はつくりあげるものである」ということのわかりやすい象徴である。

一方で、日本のいわゆる青春時代を描いた作品は、概して「喪失」ということをテーマにしているように思う。遠野貴樹は大切に胸にしまって温めていた幼馴染の明里との恋を喪い、ワタナベは高校時代の親友キズキに続いて大切な想い人である直子も喪う。

成長とは、喪失することなのか。それともつくりあげることなのか。

またいつかこのことについては考えてみることがあるかもしれない。



郷愁―ペーター・カーメンチント (新潮文庫)

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秒速5センチメートル 通常版 [DVD]

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ノルウェイの森 上 (講談社文庫)

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