Rail or Fly

レールに乗るのか、飛び降りるのか、迷っているきみに届けたい。

僕の好きな映画ベスト10(2013~2014年に観たもの)

広告代理店という「映像コンテンツ」を一つの売り物にしている会社に入るということもあり、去年の今頃から意識して映画を観ることにした。

 

元々僕は「小説」や「音楽」といった「直接目には見えない表現」が好きで、「映画」というのは、まあ映画館で年に2、3本も観ればいいかなと思っていた性質の人間だったのだけど、いろいろ知っていくと映画もまた面白い。

 

というわけで、映画素人が150本くらい観て良かったなと思える作品のランキングです。

 

ネタバレもたくさんあるので注意してください!

 

 

 

 

 

第10位

 

ブレードランナー

 

監督:リドリー・スコット

 

ブレードランナー ファイナル・カット [DVD]

ブレードランナー ファイナル・カット [DVD]

 

  

時は2019年。人間たちのために作られたアンドロイド「レプリカント」の一部が反逆を起こし、宇宙開拓基地から逃走する。主人公のデッカードは彼らレプリカントを処刑するための専任捜査官「ブレードランナー」である。

 

東アジア圏の各国の文化をごちゃまぜにしたような街並みは、刺激的なはずなのにどこか懐かしく、観る者を夢中にさせてくれる。これは、京都の祇園の風景や、『千と千尋の神隠し』、それから溝口健二の『赤線地帯』にも通じる、日本人なら誰でも感じるノスタルジーだと思う。

 

この映画はSFやアニメーションに多大なる影響を与えたようだが、僕は残念ながらそのどちらにも詳しくない。ただ、観ていて一つだけ引っかかった点があり、その謎が解けた時、改めてこの映画は名作だなと思った。

 

ラスト近くの超有名なシーン、レプリカントのリーダー・バッティが、瀕死のデッカードを助ける。

 

なぜ助けたのか?その理由は作品中には明記されていないし、このシーンがSF映画史上屈指の名場面としてよく挙げられる割には、あまりその理由について考えられていないように感じる。

 

僕は、レプリカントたちがその寿命が切れる前に、「俺たちはここに存在したんだ」という事実を、どうにかして後世に残したかったからではないかと思う。

 

おそらく、彼らに生殖能力は備わっていないだろう。アンドロイドに生殖能力があれば、アンドロイドを生産する企業は商売あがったりだからだ。だから、自分自身の遺伝子を残す、という形では、自らの存在を後に残すことはできない。

 

しかし、バッティがデッカードの命を助けたなら、そのエピソードを人間たちが語り継ぐ「記憶」という形で、レプリカントたちは自らの存在を後世に残すことができる。

 

デッカードを殺してしまえば、彼らはせいぜい「そういえば昔レプリカントっていうヤツらが人間に反逆しようとしていたよなぁ」という形でしか語り継がれないところが、彼を助けることで「レプリカントたちが自分たちの存在意義について葛藤していたこと」の生き証人を残すことができる。

 

リチャード・ドーキンスの『利己的な遺伝子』の言葉を借りるなら、ジーン(gene:遺伝子)ではなくミームを残すことで、彼らは物質的な寿命を超えたのだ。映画を観た僕たち自身が、「レプリカントたちがかつてこの地球上に存在していた」ということの証人なのだ。(まあ、フィクションではあるのだけど。)

 

自らの記憶を残すという行為によって、レプリカントたちは「人間らしくありたい」という悲願に、少しでも近づくことができたのではないだろうか。

 

利己的な遺伝子 <増補新装版>

利己的な遺伝子 <増補新装版>

  • 作者: リチャード・ドーキンス,日高敏隆,岸由二,羽田節子,垂水雄二
  • 出版社/メーカー: 紀伊國屋書店
  • 発売日: 2006/05/01
  • メディア: 単行本
  • 購入: 27人 クリック: 430回
  • この商品を含むブログ (180件) を見る
 

 

 

 

第9位

 

近松物語

 

監督:溝口健二

 

近松物語 [DVD]

近松物語 [DVD]

 

 

京都の有名店に嫁入りした若妻おさんと使用人の茂兵衛の駆け落ちを中心に、人間関係の儚さや人生の不条理さを描いた作品。

 

実はこの2人は当初駆け落ちなどするつもりはなかったのだが、偶然が重なって2人して家出する形になってしまったために、おさんの主人をはじめとする周囲の人たちから不義密通の上での駆け落ちだと考えられてしまうのである。

 

主人の以春は不義密通者を内々で捕らえようと追手を差し向ける。「どうせ捕まってあんな家に引き戻されるくらいなら」と、おさんは琵琶湖で身投げをはかり、茂兵衛はその手助けをするが、その間際で茂兵衛がおさんへの愛を告白する。それをきっかけにして家出は本物の駆け落ちとなり、2人は逃避行を続ける…というストーリー。

 

人生とは偶然に左右されるものであり、大変不条理なものである、ということを強く感じさせる作品。人間の心の移り変わりの描写がとても鮮やかで、観る者をドキドキさせる。

 

溝口健二監督はのちのフランスの映画運動である「ヌーヴェルヴァーグ」に大きな影響を与えたといわれている。本作をヌーヴェルヴァーグの代表作の一つである『勝手にしやがれ』と観比べてみても、逃避行を中心に描かれる不条理性や人の心の揺らぎなど、共通する点は実に多い。

 

僕個人的には溝口監督の作品により親近感を覚えるが、そのはっきりした理由はよくわからない。おそらくその言葉にできない部分こそが、僕が日本人であってフランス人ではないために生じる、映画作品に対する理解の差なのだろう。

 

 

 

第8位

 

タクシードライバー

 

監督:マーティン・スコセッシ

 

タクシードライバー コレクターズ・エディション [DVD]

タクシードライバー コレクターズ・エディション [DVD]

 

 

言いようのない閉塞感を抱え街を徘徊するタクシードライバーが議員を射殺しようと目論むも、シークレットサービスに邪魔されたため、手近なところにいた売春あっせん業者たちを次々と殺していく物語。

 

Wikipediaなどでは最後のアメリカン・ニューシネマ作品だと記載されているが、主人公が英雄扱いされるハッピーエンド的な結末を迎えるため、一見ニューシネマっぽくない作品だと感じられるかもしれない。

 

だが、実のところ主人公トラヴィスが殺すのは誰でもよかったのだ。上院議員でも、それから売春あっせん業者でも、社会への不満を表明し自らが特別であることを証明できるのなら、相手は誰でもよかったのだ。

 

表面上は売春していた少女を救った英雄であっても、一皮むけば反社会的なマインドを持った異常者である。そして彼は今も黄色いタクシーに乗り、夜の底を徘徊している―。

 

この映画が観る者をぞっとさせるのは、そういった点にある。誰も人の心の内側を窺い知ることはできない。彼らは自分の隣に座っているかもしれない。おそらく都会に住んでいる人の方が、この作品の恐ろしさを強く感じることができるだろう。

 

一見ハッピーエンドだが実のところ本質的な問題は何も解決していないバッドエンドである、という点で、これは確かにアメリカン・ニューシネマと呼ばれるにふさわしい。例えば好きな女の子を結婚式場から奪って逃げるシーンで終わる『卒業』などと、本作品は同じ構図を持っているのである。

 

 

 

第7位

 

七人の侍

 

監督:黒澤明

 

七人の侍(2枚組)<普及版> [DVD]

七人の侍(2枚組)<普及版> [DVD]

 

 

この作品、名前は知っていても観たことはないという人は多いのではないだろうか。

 

率直に言おう。めちゃくちゃ面白い。

 

僕は何よりもまず「最後まで観させること」が映画における名作の条件だと思っているが、この作品ほど観客を惹きつけて離さない作品は滅多に無いだろう。

 

 

このツイートでも書いたように、この作品にはエンターテイメントの粋が詰まっている。同じく黒澤監督の代表作の一つである『羅生門』と比べても格段にわかりやすく、シンプルに「面白い!」と感じられる作品であるはずだ。

 

 

 

第6位

 

スタンド・バイ・ミー

 

監督:ロブ・ライナー

 

スタンド・バイ・ミー [DVD]

スタンド・バイ・ミー [DVD]

 

 

4人組の少年たちが、「死体探しの冒険」を通して成長する様を描いた物語。

 

少年たちが「死」への興味から行動を起こし、その過程であれやこれやと経験をして大人になってゆく、という筋書きは、小説『夏の庭』にも見られるものだ。僕もそうだったが、10歳くらいというのは「死」に対する興味を強く持つ年頃なのかもしれない。

 

夏の庭―The Friends (新潮文庫)

夏の庭―The Friends (新潮文庫)

 

 

この映画については、僕はスティーヴン・キングが書いた原作を読んでいないし、特段何か考察するような部分があったとも感じられなかった。

 

何よりも、4人の少年が線路に向かって歩いてゆくその様が懐かしくて美しくて涙が出た。こういうノスタルジーに僕はめっぽう弱いのだ。

 

自分にも、こんなバカをやった時代があった。そうしんみりと思わせてくれて、ちょっとセンチメンタルな気分になれる作品だ。

 

 

 

第5位

 

イージー・ライダー

 

監督:デニス・ホッパー

 

イージー・ライダー [DVD]

イージー・ライダー [DVD]

 

 

映画を観始めてから、「どうも自分はアメリカン・ニューシネマなるものに惹かれるみたいだな…」と感じつつ、現時点で一番ドハマりしたのがこの作品。

 

ロックが大好きな自分にとっては、ステッペンウルフやジミ・ヘンドリックス、バーズといったお馴染みのバンドの曲がバイクの疾走シーンをバックに次々と流れていくのもツボだった。

 

「自由を体現する者は周囲から怖れられる」と語る弁護士ハンセンの言葉は、SNSで知人の動向を気にしてしまう現代の僕たちにも、50年越しで突き刺さる真理だと思う。

 

ラスト近く、キャプテン・アメリカとビリーは売春婦たちとともにLSDとアルコールに溺れる。彼らは幻想の向こう側に、道路沿いに投げ出され燃え盛っているバイクの残骸を見る。

 

この映画を最後まで観て初めて、彼らが自分たちの結末を予期していたことを僕たちは悟り、そして涙するのだ。

 

主題歌を歌うステッペンウルフのバンド名は、ヘルマン・ヘッセの小説『荒野のおおかみ』(原題:Der Steppenwolf)から取られている。『荒野のおおかみ』もまた世間的な暮らしからはぐれて生きるアウトサイダーが主人公だった。

 

ただ、『イージー・ライダー』と『荒野のおおかみ』を比べた時に異なるのは、前者が最後まで俗世間に対して反抗し続けるのに対して、後者が通俗的なもの(例えばジャズやダンス)からも楽しみを見出そうとする点である。

 

僕は「イージー・ライダー」の生き方はめちゃくちゃかっこいいと思うけれども、個人としては「荒野のおおかみ」のように、いつまでも自分の壁を壊し続けて生きていきたいと思う。

 

荒野のおおかみ (新潮文庫)

荒野のおおかみ (新潮文庫)

 

  

ところで、「アメリカン・ニューシネマ」(英語ではNew Hollywood)と言った時に、本国アメリカと日本とではその言葉が指し示す映画作品群は微妙に異なっているようだ。

 

アメリカのWikipediaの New Hollywood の項を見ると、『俺たちに明日はない』(原題:Bonnie and Clyde)や『カッコーの巣の上で』(原題:One Flew Over the Cuckoo's Nest)といったお馴染みの名前に加えて、『2001年宇宙の旅』や『ゴッドファーザー』といった、日本ではニューシネマにカウントされない作品も挙げられている。

 

詳しくは触れないが、それまでのハリウッド映画へのアンチテーゼが"New Hollywood"という流れであり、その中でも日本人の心の琴線に触れたものが「アメリカン・ニューシネマ」として残った、と考えるのが妥当であるように僕は思う。

 

日本において「アメリカン・ニューシネマ」と呼ばれている作品には、多くの場合「滅びの美学」が見受けられる。この記事で挙げた『イージー・ライダー』もそうだし、『ワイルドバンチ』や『バニシング・ポイント』もそうだ。

 

その「滅びの美学」が、切腹をはじめ古来から同様の美意識を育んできた日本の文化にうまくハマり、「アメリカン・ニューシネマ」として親しまれるようになった―。そんな風に考えてみることもできるのではないだろうか。

 

 

 

第4位

 

ジョゼと虎と魚たち

 

監督:犬童一心

 

ジョゼと虎と魚たち(通常版) [DVD]

ジョゼと虎と魚たち(通常版) [DVD]

 

 

なんだろう、この胸に重く残るやりきれなさと甘美さは―。

 

足に障害を持ち車椅子の生活を送るジョゼと、大学生の恒夫の恋愛物語。もともと女遊びが大好きなクズ男の恒夫が、ジョゼと出会い少しずつ変わってゆく。くるりの「ハイウェイ」のテーマに乗って、2人はジョゼの好きな「虎と魚」を見に行く。

 

しかし、水族館が休館のため「魚」を見ることはできなかった。その夜泊まった「お魚の館」というラブホテルで、2人は特殊な照明が照らしだす「幻想の魚」を見る。

 

眠ってしまった恒夫にジョゼは「いつかあんたがおらん様んなったら、迷子の貝殻みたいにひとりぼっちで海の底をコロコロコロコロ転がり続けることになるんやろ」と語りかける。このあたりで、結末はもう暗示されていたように思う。

 

最後はジョゼと別れ、元々関係を持っていた香苗を選んだ恒夫。彼は香苗とのデート中、道端で不意に号泣し出す。障害者であるジョゼから逃げた自分のふがいなさ、ずるさ、ジョゼのことが本当に好きだったという気持ち―。それらがないまぜになった感情が、とめどなくあふれ出す。

 

僕はこのシーンが大好きだ。

 

恒夫は、別に聖人君子でもなんでもないただのお気楽な男だ。そんな彼が、恋愛を通して一時強く優しくなれる。でも、やっぱり弱い人間だから最後には易きに流れてしまう。障害を持った彼女を一生支えていくという覚悟ができなかったのだ。

 

それでも、人を愛するということの意味を知った恒夫は、それ以前よりも少しだけ、イイ男になっているように思えた。

 

田辺聖子の原作『ジョゼと虎と魚たち』、「ジョゼ」という名前の由来であるフランソワーズ・サガンの『一年ののち』もお勧めです。

 

ジョゼと虎と魚たち (角川文庫)

ジョゼと虎と魚たち (角川文庫)

 

  

一年ののち (新潮文庫)

一年ののち (新潮文庫)

 

 

 

 

第3位

 

ファニーゲーム

 

監督:ミヒャエル・ハネケ

 

ファニーゲーム [DVD]

ファニーゲーム [DVD]

 

 

理不尽な暴力、無慈悲な抵抗、奇跡の救出など望むべくもない惨殺…。

 

まあ、胸糞悪いとしか思えない映画なのだが、不思議と人を惹きつけるものがある。

 

それは、自分の中にもきっと存在している嗜虐性を、この映画によって暴かれてしまうからだと思う。

 

ミヒャエル・ハネケ監督の作品は今やっと半分くらい観終わったところなのだが、これまで観る限りでは、彼の映画には救いなどない。人の心の暗い部分を、徹底的に引きずりだそうとしている。

 

この作品ではそれが特に顕著だ。「ファニーゲーム」を提案する若者パウルは、時折観客に向かって言葉を投げかけてくる。

 

そのメタフィジカルな演出は、スクリーンのこちら側にいる僕たちもこの残酷な「ファニーゲーム」に参加しているという事実を、否が応にも思い知らせてくる。

 

僕たちがなぜこの映画を観て恐れおののくかというと、人間社会の基本的なルールを踏みにじられる思いがするからだ。

 

その基本的なルールとは「互恵性」である。

 

この映画は、「卵を貸してくれませんか」と言う若者に対し、ある家族が善意からそのお願いを聞いてあげようとするところから始まる。当然若者の側からは、感謝の言葉なり、小さな贈り物なりが返ってくることを僕たちは期待する。それが人間社会の暗黙のルールだからだ。

 

贈与論 (ちくま学芸文庫)

贈与論 (ちくま学芸文庫)

 

 

しかし、そのような期待は打ち砕かれ、 一家はおぞましい仕打ちを受けることになる。

 

もし、他者に向けた自分の善意が、この映画にあるような形で裏切られてしまったら…。僕たちは誰も信頼することができなくなり、人間社会は崩壊するだろう。

 

人間社会の暗黙のルールを根底から揺るがしてくること。それが、僕たちがこの映画に底知れぬ恐怖を覚える理由だと思う。

 

 

 

第2位

 

ライフ・イズ・ビューティフル

 

監督:ロベルト・ベニーニ

 

ライフ・イズ・ビューティフル [DVD]

ライフ・イズ・ビューティフル [DVD]

 

 

第二次世界大戦時のユダヤ人に対する迫害を、父グイドと息子ジョズエの強制収容所生活から描いた作品。

 

…と書くと、あたかも重苦しく辛い気持ちになる作品なのかと思われるが、決してそんなことはない。収容所の生活を「ゲーム」に例えるグイドの明るいキャラクターは、観る者を笑わせ、和ませてくれる。

 

一方で、そういったお気楽な描写が「ユダヤ人迫害の現実を映していない」と批判されることもあるようだ。

 

だが僕は、その批判は的外れなものではないか、と思う。

 

なぜなら、ラストシーンにかぶさるジョズエのナレーション(「これが私の物語~」)からもわかるように、この物語は「ジョズエから見た」強制収容所の生活の描写だからだ。

 

幼いジョズエの目に、収容所の生活があれほど楽しげに映っていたのだとしたら…。それは、父親グイドの「息子に辛い思いをさせまい」とする努力とその勝利を示す証左に他ならない。

 

実際に収容所生活を体験したユダヤ人の精神科医ヴィクトール・フランクルは、その著書『夜と霧』の中でこう書いている。

 

人間が生きることには、つねに、どんな状況でも、意味がある、この存在することの無限の意味は苦しむことと死ぬことを、苦と死をもふくむのだ、とわたしは語った。

 

(『夜と霧』p. 138) 

 

精神的に追い詰められ、肉体的にも極限状態にあった強制収容所の中でも、その時々でどう生きるかは、それぞれの人間にかかっている。飢えで苦しんでいても、別の死にかけた仲間にわずかばかりのスープを譲ってやることはできる。

 

私たちが人生の意味を問うのではなく、人生が私たちに投げかける問いに日々答えること(例えば、スープを譲るか否かということ)こそ、私たちが「よりよく生きる」ということなのだ。フランクルは著書の中でそう書いている。

 

父親グイドこそ、「いつでも人生から投げかけられた問いに答える」というその姿勢を、その生き様をもって示しているキャラクターではないかと僕は思う。

 

夜と霧 新版

夜と霧 新版

 

 

 

 

第1位

 

風立ちぬ

 

監督:宮崎駿

 

風立ちぬ [DVD]

風立ちぬ [DVD]

 

 

この映画については この記事 でけっこう書いたので、改めて書くこともあまりないが、死ぬほど素晴らしい映画だということは変わらない。

 

僕が一番胸にこたえたのは、第4位に挙げた『ジョゼと虎と魚たち』と同じく、ヒロインとの別れのシーンだ。

 

零戦の実験に向かう二郎を送り出した後、菜穂子は家人に偽り家を出て、そのまま永遠に戻らなかった。

 

「一番美しいところだけ、好きな人に見てもらったのね…」黒川夫人がそうつぶやくシーンは、涙なしでは見られない。

 

夢を追いかけることの美しさ、それによって損なわれるものたち―。そういった儚さに思いを馳せずにはいられない、名作だ。

 

 

 

 

 

と、10作ランキング形式で発表してみたけれども、あなたの好きな作品はあっただろうか?

 

好みが全然違っても、お互いの好きな作品を通して、お互いのことを理解できるのが映画の(それから音楽とか漫画とかの)良いところだ。

 

これからも、いろんな映画を観てみたいと思う。

コミュニケーションにおいて何よりも必要なのは、「勇気」だと思う。

友人から相談を受けていて圧倒的に多いのは、「好きな人の気持ちがわからない」「付き合っている人の考えていることがわからない」という悩みである。

 

先日も「彼女に振られた」という悲しい知らせを友達から受け取ってしまった。「あの子のことは、最後までよくわからなかった…」と彼は言っていた。付き合う前から彼ら2人のことを知っていた僕は、どうにもやるせない気持ちになってしまった。

 

恋愛に限らず、相手と深いコミュニケーションが取れないというのは、人間の普遍的な悩みの一つであるように思う。

 

僕の大好きな小説の一つである武者小路実篤の『友情』は、主人公が好きだった女性を親友に取られてしまう話だ。主人公には、思いを寄せる女性の気持ちも、親友の本当の腹の内も、物語の最後の最後まで窺い知ることができない。これも、コミュニケーションの不全によって人間関係を失ってしまうという一つの例である。

 

友情 (新潮文庫)

友情 (新潮文庫)

 

 

 

 

いったい、お互いを深く理解し合えるようなコミュニケーションには、何が必要なのだろうか?

 

ある人は「相手の気持ちを想像する力だ」と言うかもしれないし、ある人は「自分の気持ちを言語化する力だ」と言うかもしれない。

 

確かに、相手の気持ちを考えることや、自分の気持ちをうまく伝えることは、コミュニケーションにおいてとても大切なことだと言えるだろう。

 

だが僕は、一番大切なものは「勇気」ではないかと思う。

 

深いコミュニケーションとは「所詮他人でしかない人間同士がお互いの価値観をすり合わせてゆくこと」であり、そのためには「自分の価値観をさらけ出すこと」が必要不可欠だ。

 

しかし、自分の価値観をさらけ出すことには、「相手が自分を理解してくれないかもしれない」という不安や、「自分が相手を傷付けてしまうかもしれない」という恐怖が、常につきまとう。

 

そういった不安や恐怖に打ち勝つための「勇気」こそ、僕は深いコミュニケーションにおいて一番大切なものではないかと思う。

 

 

 

「相手が自分のことを理解してくれないかもしれない」という不安を人生で最も強く感じるのは、もしかしたら就職活動の時かもしれない。少なくとも、僕にとってはそうだった。

 

とある広告代理店の面接でのことだ。(一応、OB訪問という名目にはなっていたけど、まああれはリクルーター面接と呼んで差支えないものだろう。)

 

面接官は僕の「さし飲み対談」のエピソードに興味を持ってくれ、「これまでお酒を飲んだ人の中で一番おもしろかった人はどんな人ですか?」という質問を投げてきた。

 

正直、僕は答えに迷った。自分の中で「この人の話が一番好きだ」というものははっきりしていたのだけど、この会社の面接ではその話はウケが悪いかも…と思ってしまったのだ。

 

今でこそ マジメな人のための、広告代理店での戦い方。 のような記事を書いている僕も、その頃はまだ「広告代理店志望者とはかくあるべし」という呪縛から、逃れられていなかったのだ。

 

結果、なんとなく「人と違う特別な経験をしていて」「相手にキャッチ―だと思われそうな」知人の話をして、僕はその面接に落ちた。

 

別に、その人の話がおもしろくなかったわけじゃないと思う。面接官から見て、その人のエピソードを語る僕自身の価値観が透けてこなかった。そういうことだろう。

 

僕が本当に話したかったのは、とある友人の話だった。

 

彼には、大学に入るまで学校の勉強とゲームしか趣味がなかった。彼に言わせると「毎日を消費するためだけに生きている」ような生活だったそうだ。

 

そんな彼が、大学でギターに出会い、プロの音楽家に指導してもらうようになっていく。

 

回生が上がり、実験や論文執筆に追われるようになっても、彼は日常の中に音楽を楽しむ時間を見出し続けた。

 

プロになろうなどという野望はなかったけれども、就職しても、ささやかにギターを弾き続けることだけは決してやめない、と彼は語った。

 

「だから俺はホワイト企業に行くんだ」と彼はおどけた。「ギターを弾く時間や演奏会に行く時間を取れるようにさ」と。

 

正直、どこがおもしろいんだ、というような話かもしれない。大学まで素人だった人間がプロのギタリストを目指す、みたいなドラマチックな展開があるわけでもない。夢を叶えるためにどこかの企業に就職するわけでもない。むしろその真逆の、地味なエピソードだ。

 

だが、僕はこの友人のなんでもないエピソードに泣きそうになってしまった。新聞やテレビには、絶対に取り上げられることのない無名の人生。しかし、そこにはその人なりの決意や信念が、ひっそりと根を張っている。そういった人生は、伝記に取り上げられるような偉人の人生にも、決して引けを取らないと僕は思う。

 

ただ、僕はそういった自分の価値観を、面接という場所でさらけ出す勇気がなかった。「この人には理解してもらえないかもしれない」という不安に、打ち勝つことができなかった。そして、相手に迎合したようなエピソードでお茶を濁し、すごすごと退散してしまったのだ。

 

 

  

「自分を理解してもらえないかもしれない」という不安だけでなく、「相手を傷付けてしまうかもしれない(その結果嫌われてしまうかもしれない)」という恐怖もまた、深いコミュニケーションの天敵である。

 

この恐怖は、僕がブログで何かを書こうとするといつも生じる恐怖と同じものだ。

 

その昔、mixiやアメブロで文章を書いていた頃、僕は「読者から何を言われるか」ということを過剰に意識していた。できれば、自分の書いたものが誰かを不快な気持ちにさせることは避けたい、そう願っていた。その一方で、やっぱり書く以上は反響がほしいとも思っていた。

 

そんな矛盾した気持ちを抱いたまま、良い文章が書けるわけがない。

 

時々、自分が昔書いていた文章を読み返すと、中途半端なペダンチックさと感傷性しか漂ってこない、誰にも届かないオナニー文章だなと感じる。僕自身は読んでいて気持ちが良いのだけど、それではダメなのだ。読んでくれた人と交われなければ、ダメなのだ。

 

そうして書いたのが、下の記事である。

 

友達に嫌われるのが怖くて、発信ができない人へ。

 

恋愛の終わりの場面においても、振る側はよく「どんなふうに伝えてもあなたを傷付けてしまうから…」と、自分の気持ちをさらけ出さずに済ませようとする。

 

だが、 「相手を傷付けてしまうかもしれない」というのは、一見相手のことを思いやっているようでいて、実は「自分が悪者になりたくない」だけなのだ。

 

結局、人間関係を終わらせるというのは、どちらも無傷では済まされない行為なのだから、傷付く、傷付けるのは当たり前だ。「仮に一切自分の気持ちを伝えなくても」振られる側は傷付く。だから、「傷付けたくないから」伝えない、というのは、伝える側の都合の良い言い訳に過ぎない。

 

恋愛関係、友人関係、すべて同じだ。

 

「クソみたいな理由ですれ違って連絡を取らなくなったけど、少なくとも、あいつは最後まで誠実だった」

 

人間関係が終わった時にそう思えるなら、それはとても良いコミュニケーションができていた、ということだろう。

 

  

 

「自分を理解してもらえないかもしれないから」「相手を傷付けてしまうかもしれないから」…。そういった理由にかこつけて自分を伝える努力を怠っていると、いとも簡単に「自分をさらけ出さないコミュニケーション」だけで構成された人間関係ができあがる。

 

しかし、そういった「自分をさらけ出さないコミュニケーション」だけでできた人間関係は、遅かれ早かれ死ぬしかない。

 

 

こういったツイートもあるが、僕は「喧嘩するかどうか」より「自分をさらけ出しているかどうか」の方が大切だと思う。そうして自分自身を開示した結果、喧嘩になるならコミュニケーションを取って解決すればいいし、喧嘩にならないのならそれで問題ない。

 

「喧嘩にならないから相性の良い相手だ!」と思っていたら相手は単に思ったことを我慢していただけで、その我慢が臨界点に達したところで、こっちが何の準備もしていないうちに突然振られた、というような経験は、中学・高校時代の苦い思い出として、多くの人の胸に刻まれているのではないだろうか。

 

 

 

「自分をさらけ出すコミュニケーション」とは、『すべてはモテるためである』(二村ヒトシ著)の言葉を借りれば、「自分の肚を見せる」ということだ。

 

対話とは、相手の言ってることばを「まずは、聴く。けれど【判断】しない、決めつけない」こと。それから「自分の肚を見せる」ことです。

(『すべてはモテるためである』p. 132) 

 

「肚を見せる」というのは「相手に対して、みんなに対して、今の自分を開示する」ということです。(中略)

それは、あなたが見せたい自分、かっこつけた自分を「こういう自分だ、こう受け取ってほしい」と押しつけるのではなく、弱いダメな自分を「許してほしい」と押しつけて甘えるのでもなく、そういう自分は「醜い…」と自己嫌悪するのでもなく、ただ「自分を見せて」それがどう受け取られるかは「相手に任せる」のです。 

(同、p.138)

 

対話に必要なのは「決めつけずに聴くこと」と「自分をさらけ出すこと」だ―。

 

この言葉は、コミュニケーションの神髄だと言ってもいいと思う。ただ、5年前の僕が読んでも、「聴くってのはわかるけど、肚を見せるってなんじゃらほい」と思ってしまうだろう。それほど、「自分をさらけ出す」ことは難しい。その姿勢を自分のものにするまでは、誰しも時間がかかるだろう。

 

書店で買うのにはちょっとためらってしまうかもしれないけど、この本は素晴らしい哲学書だと思う。コミュニケーションがどうにも苦手だ、という人には、ぜひ読んでほしい。

 

すべてはモテるためである (文庫ぎんが堂)

すべてはモテるためである (文庫ぎんが堂)

 

 

(ちなみに、こういった本を本屋で買うのは恥ずかしい…みたいに思ってしまう姿をも周りに隠さず見せられることこそ、「自分の肚を見せる」ことだと僕は思う。ま、ちょっと違うかな。)

 

 

 

良いコミュニケーションには、勇気が必要だ。

 

その勇気とは、「自分をさらけ出す勇気」である。

 

「自分を理解してもらえないかもしれない」とか、「相手を傷付けてしまうかもしれない」とか、そういったネガティブな感情を踏まえてなお、自分の気持ちを伝えようとする勇気。

 

その勇気さえあれば、他人である誰かと深い関係を築き、お互いの人生をより良くするというのがどういうことなのか、身を以て経験できるだろう。

 

僕にとって「自分をさらけ出すつもりで」書いているこの記事が、インターネットで、あるいはリアルの世界で、僕と読者の方との「深いコミュニケーション」ができるための一つのきっかけになることを、僕は願っている。

就職先を「人」で決めてはいけない理由。

就職活動において、最終的にその企業に決めた理由で最も多く挙げられるのは、「人」という理由ではないだろうか。

 

人が合うから、人が魅力的だから…。言い方はなんでもいいが、要するに「いいなと思える人がたくさんいそうだ」というのが、「人で決めました」という言葉の意味である。

 

しかし、僕は企業を「人」で選ぶのは非常にリスクの大きな行為だと思っている。特に、大企業を志望する人であればあるほど、志望動機を「人」に置くのはやめた方がいい。

 

なぜなら、就活生が観測できる「人」のサンプルの数は非常に少なく、それだけで企業全体の人の雰囲気を掴むのは困難だし、仮にその仮説が当たっていても、実際に現場で一緒に働くのはその中のごく一部の人に過ぎないからだ。

 

 

 

僕は就職活動をしていた頃、今所属している会社とは別の広告代理店も受けていた。OB訪問も、エントリーシートを出したところは最低3人程度していた。

 

前回の記事「マジメな人のための、広告代理店での戦い方。」で登場していただいた「三つ編みドレッドヘア氏」も、とある大手代理店に勤める方である。

 

僕は就活の初めの頃、そのドレッド氏が勤める代理店を志望していた。そして、ドレッド氏を含め3名の社員の方にお会いさせていただいた。OB訪問の時間はとても楽しく、向こうがどう思ったかはさておき、僕の方はこの会社に入りたいと心から思ったものだ。

 

ところが、その社員の方々のご厚意で別の部署の方々ともお会いさせていただいたところ、どうも自分がイメージしていたような話ができなかったのだ。

 

結局、全部で6名の方とお話ししたものの、最初に感じていた高揚感は薄れてしまった。

 

ここからわかることはなんだろうか?

 

それは、「僕がその企業の社風と合っていなかった」ということではない。

 

「数人程度に面会しただけでは、その企業に勤める人の雰囲気など到底わからない」ということなのだ。

 

 

 

ある母集団の持つ傾向について、それなりに信頼のおける仮説を立てるのに必要なサンプルサイズは決まっている。

 

例えば、従業員数が10000人の企業があったとしよう。

 

10000人全員にOB訪問をすれば、当然ながらその企業の社風を間違いなく掴むことはできる。だが、そんなことはまず不可能だ。

 

実際は、ある程度の人数にだけOB訪問することになるだろう。

 

その時、何人の社員にOB訪問すれば、それなりの確度でその企業の社風を掴むことができるだろうか?

 

結論から言ってしまえば、370人程度、というのが正解になる。

 

統計の言葉に直せば、「それなりの確度でその企業の社風を掴む」ことを、「95%の確率で、全員にOB訪問した場合に掴んだ社風と合致する(=20回繰り返せば19回は合致する)」ことと仮定した場合、ということだ。(計算式は省略するが、「サンプルサイズ 算出」ででもググってみてください。)

 

つまり、10000人の従業員数を持つ企業の社風をOB訪問によって明らかにしたい場合、最低でも370人はOB訪問しないと、それなりの強度を持つ仮説はできあがってこないのだ。

 

従業員数が1000人、100人の場合は、それぞれ278人、79人となる。

 

要するに、僕らが数人~十数人にOB訪問してわかった気になる「社風」など、吹けば飛んでしまうくらいの頼りない仮説でしかないのだ。

 

(上記の計算はかなり端折ったものなので、興味のある方は東京大学出版会が出している『統計学入門』を読んでみてください。高校数学がわかってさえいれば、最後まで読める本です。)

 

統計学入門 (基礎統計学)

統計学入門 (基礎統計学)

 

 

統計学が最強の学問である

統計学が最強の学問である

 

 

 

  

さて仮に、信頼に足るサンプルサイズをOB・OG訪問で稼ぎだす猛者がいたとしよう。

 

ちなみに、広告業界では年に何人かの学生が「OB訪問を何百人やった」という自己PRで選考を突破している(らしい)ので、こういった学生がいると仮定するのは決して荒唐無稽なことではないのである。

 

だが、仮説を立てるのに十分なサンプル数を集めたとしても、僕はやはり「企業は人で選ぶべきではない」と言うだろう。

 

なぜなら、現場であなたとともに働くことになる上司や先輩は、あなたがその仮説で導き出した「その企業に勤める人の平均値や最頻値」などではなく、生身の人間だからである。

 

これは会社に限らず学校やサークルでも同じだと思うが、集団には、本当に様々な人がいる。自分とは到底合わないと思うような集団にめちゃくちゃ話せる人がいるかもしれないし、すっごく雰囲気の合いそうな集団に顔も見たくなくなるほど相性の悪い人がいるかもしれない。

 

あなたは、思っていたのと全然違う人たちと一緒に働くことになるかもしれない。当たり前だ。あなたはその企業に所属する人全員にOB訪問したわけではないのだから。

 

もし、自分と合わない人と日々働くことになったら、「人」で企業を選んだあなたはどうするのだろうか?異動届けを出す?そう簡単にはいかないだろう。仕事を辞めちゃう?そんなのもったいない。

 

「次世代の凡人」に告げる、これからの生き方 でも書いたけれど、これからの時代はむしろ「簡単に仕事を辞めない人」の価値が高くなる時代だ。

 

しかし、企業を「人」で選んでしまうと、もし自分の周りにいる人たちが自分の期待していたような「人」でなかった時、その場所に居続ける理由はなくなってしまう。

 

だから、企業を「人」で選ぶのは、よすべきなのだ。むしろ、ちょっと違うかな、自分はこれまでこんな雰囲気のところに所属したことはないな、と思うくらいの場所の方が、日々新しい価値観に触れることができて良いと思う。

 

 

 

と、ここまで「就職先は人で選ぶな!」ということを散々書いてきたわけだが、唯一「人」を志望動機に絡めて良い場合があると思う。

 

それは、「この会社にはこういう人が多くて自分はそういった人たちが好きだから」という浅い理由ではなく、「この会社はこういったビジネスモデルをしていて、そのためにはこういう人(つまり自分)を雇うのが会社にとってメリットになるから」というところまで、掘り下げて考えられていた場合だ。

 

なぜ、ある会社には特定のタイプの人が多いのか?それは、そういうタイプの人たちを雇うと会社に利益があるからである。

 

例として、広告業界を挙げて考えてみよう。

 

日本の広告代理店の収益源は、(現在それが良いことなのか悪いことなのか取り沙汰されてはいるが)メディアマージンである。このビジネスモデルは、広告代理店の起源である「新聞の広告枠の取り次ぎビジネス」の時代から連綿と続いてきた。今でも代理店がマージンビジネスをしているのは、大手代理店がウェブ上で公開している自社の収益の内訳を見れば一目瞭然だと思う。

 

つまり、クライアントの伝えたいものをできるだけたくさんのメディアに乗せて「広く告げる」ことは、メディアマージンで食っている広告代理店の売上を伸ばすことに直結しているわけだ。

 

「多くの人に広く知らしめるのが大好きな人たち」は、このような広告代理店のビジネスモデルと非常に相性が良い。だから採用される。それは、広告業界にはなぜ合コン好きな人が多いのか。 をはじめ、僕が何度かこのブログで書いてきたことだ。

 

もし、「人」を理由にして就職先を選びたいのであれば、まずはビジネスモデルを見てみることだ。「その会社にいる人たち」のみに注目するのではなく、「その会社のビジネスとその会社にいる人たちとの関係」「その会社のビジネスとその会社を目指す自分との関係」について考えてみるべきだ。

 

そして、聡い人は既におわかりかもしれないが、もしあなたが意中の会社のビジネスに利益をもたらすような強みを持っているのなら、必然的にその会社にいる人たちとも気が合う可能性は高くなる。

 

「会社」と「会社にいる人たち」との相性が良くて、「会社」と「自分」との相性も良いのなら、「会社にいる人たち」と「自分」との相性が良いのは、まあ当たり前と言ってもいいことだろうから。

 

(ところで、上の例では「日本の広告代理店の主要ビジネスはメディアマージン」と書いたが、広告代理店がそこから脱却しようともがいているのも事実である。そういった広告代理店の試行錯誤について知りたい人には、『電通デザイントーク』を勧める。広告代理店の使命がもはや広告だけでないということを、考えてみるきっかけになるだろう。)

 

電通デザイントーク Vol.1

電通デザイントーク Vol.1

 

 

 

 

多くの人が、就職活動の志望動機で「人」を挙げる。

 

しかし、それは説得力のある志望動機になっているのだろうか?

 

本当は、それ以外に他社と差別化できる決め手がないから、「人」という志望動機に逃げているのではないだろうか?

 

「10人程度のOB訪問ではうちの会社のことはわからないんじゃないかな?」

 

「もし、配属先で思っていたのと違う人たちと仕事をすることになったら、どうする?」

 

面接でそんな疑問をぶつけられたら、あなたはどうするだろう?

 

もちろん、そんなところまで突っ込んで聞かない会社も多いだろう(僕が面接官になったら聞くと思うけど)。

 

僕が言いたいのは、面接をパスするかどうかということではない。他ならぬあなた自身にとって、「人」で会社を決めるのはリスクのある行為ですよ、ということなのだ。

 

 

 

取りうる道は二つだ。

 

一つは、それでも「人」を志望動機に据えるやり方。

 

その場合は、「志望動機はこの会社の人たちとお会いして素敵だなと思ったからです。でも、どんな人と仕事をすることになっても、上手くやれる覚悟はあります」と言い切ること。 

 

ただ、このやり方だと自分の強みのアピールにはならない。OB訪問をそれなりにしているという熱意や、どんな人とも働くという覚悟は伝わると思うけど、逆にこだわりが無いのかと思われる危険性もある。

 

もう一つは、「その会社にいる人」だけを見るのではなく、その会社の事業内容やビジネスモデルと、その会社の従業員や自分といった「人」とを結びつけて考えるやり方。

 

その企業や業界のビジネスへの理解、 自分自身についての理解など、思考力の深さを披露することができるし、「自分の強みはこういったところです」と言うところで直接的なアピールもできる。

 

ただ、このやり方は「机上の空論」にならないように注意すべきだ。社員に会ったことのないヤツが「御社はこういったビジネスをしているため、こういった人が求められていると思い…」などと語り出したら、殴りたくなるだろう。

 

結局のところ、 実際にその会社の社員に会って話をしつつ、「それがすべてではない」ということがわかっている人間、自分をアピールする時にその業界や会社のビジネスと直結させて考えられる人間が、求められているのだと思う。

 

 

 

「人が魅力的だったから」という思考停止した志望動機を語るのはやめ、「なぜその会社にはそういった人たちが多いのか?」「自分はその会社のビジネスに役立つ強みを持っているのか?」と考えよう。

 

そして、「どんな人が上司や部下になっても、どんな人がお客さんになっても、上手くやっていこうとする覚悟」が社会人には不可欠なのだということも、忘れてはいけないと思う。

マジメな人のための、広告代理店での戦い方。

どうやら僕はとても広告マンには見えないらしい。

 

先日も、とあるイベントで知らない方と仕事の話になったので、「広告代理店でテレビの仕事をしています」と言ったところ、「てっきりメーカーか銀行にお勤めだと思っていました。失礼しました」と言われた、という出来事があったばかりだ。

 

メーカーか銀行、というのもこれまたバイアスのかかった物言いかもしれないが、要はマジメで実直そうに見える、ということなのだろう(メーカーや銀行と言っても当然その社風は千差万別であるが)。

 

また別の日には、とあるイカツイ先輩から「お前、童貞じゃねえのか?」と問い詰められ、「どどどど童貞ちゃうわ!」という模範的回答を繰り出す、という一幕も演じてしまった。どうやら僕は童貞らしい立ち居振る舞いを身に付けているらしい。

 

ここまで読めば、僕がどんな人間であるか、お会いしたことのない読者の方々にも少しは想像していただけるのではないだろうか?

 

そう、僕は「およそ広告代理店っぽくない広告代理店マン」なのである。

 

今日の記事は、そんな「イケてない広告マン」である僕から、僕と同類の「イケてない広告代理店志望者」に贈る、応援のメッセージである。

 

 

 

就職活動をしていた時から、「広告代理店」という言葉の持つイメージは嫌というほど意識させられていた。

 

チャラい、スマート、モテそう、ファッションセンスが良い、合コン大好き…みたいな。

 

実際、OB訪問をしていても、お話しする広告業界の社員さんはみんなかっこよくてモテそうな人たちばかりだった。

 

一度など、とある広告代理店のストラテジックプランナーの方がドレッドヘアに三つ編みという強烈ないでたちで現れ、あまつさえ「昨日クラブで口説いて抱いたオンナの話」を聞かされるという、これ以上ない機会に恵まれたこともある。

 

まさにこれがみなさんの持つ「広告代理店」のイメージではないだろうか?

 

さて、僕はと言えば、三つ編みドレッドという攻撃的なヘアスタイルにも打ち負けない精悍な顔面も持っていないし、学生然としたダサいスーツを着て、インドで買ったパチモンの500円のゴキブリみたいな靴を履いて歩きまわっているただの理系大学生である。正直、イケてない。件の「三つ編みドレッドヘア」氏に「お前さー、正直イケてないよね!ガハハ!」と一刀両断された程度にはイケてない。

 

(イケてない広告代理店マン、といえば、映画『陽だまりの彼女』の主人公・奥田浩介もそんな設定なのだが、いかんせん松潤がイケてない役をやったところでイケメンなのである。ちなみに映画自体はかなり良かった。原作も読んだけど、この作品においては映画の方が好きだな、と思った。)

 

 

 

それでも僕は広告代理店に行きたかった。理由は何度も書いているけど、このブログを書いているだけでは絶対に到達しえない人たちに、自分のメッセージを届かせる力を手に入れたかったからだ。

 

だが、広告代理店を志望する大学生のマジョリティは、いってみれば「チャラくて楽しいことが大好きなウェーイ大学生の権化(でも頭も良かったりする)」みたいなヤツらである。

 

(どうして「チャラくてウェーイな大学生」が広告代理店と相性が良いかについては、広告業界にはなぜ合コン好きな人が多いのか。 という記事で書いた。)

 

そんな神さまが二物も三物も与えた人類の夢みたいなヤツら相手に、僕のようなイケてないマジメ人間はどう戦えばよいのか?三つ編みドレッドヘアや七三ツーブロックをなぎ倒して内定を手にするにはどうすればよいか?

   

 

 

当然ながら、「こういうことをすれば内定がもらえる!」なんて虫の良い話は、世の中に転がっているわけもない。

 

だが、ヒントは存在する。

 

それは、「自分を肯定している人は受かる」ということだ。

 

「自分に自信がある人」と言い換えてもよいのだが、それだとどうしても、イケメンだったり面白いことが言えたりする人という、プラスのイメージが出てきてしまう。

 

別に自信がなくてもいいのだ。ただ、自分には自信がないということを、自分で受け入れていることが大切なのだ。(ちなみに、とある先輩と話していた時には、「自分に自信がないということにかけては自信があるヤツはイイ」という結論に至った。)

 

君がもし、どうしようもないカタブツで面白いことの一つも言えない人間だったとしたら。「いや~僕は昔からギャグの一つも言えなくて本当に悩んでるんです。広告マンの人の楽しませ方を教えてください!」とでも言えばいい。

 

君がもし、どうしようもなくダサい人間で、どうすればオシャレになれるのかまるでわからない人間なら。「やっぱり広告代理店の人ってオシャレな人が多いんですね。僕はどうしてもオシャレってもんがわからないんですよ。ちなみにそのスーツは何か思い入れがあって着てるんですか?」とでも聞けばいい。

 

マジメであること、イケメンでないこと、カッコ良くないこと…。そういったことは、決して悪いことではないのだ。

 

ただ、そういった一般的にはネガティブなイメージを持つ自分の要素を、「こういうのはダサい、見せたくない」と思って虚勢を張ってしまうのが、悪いことなのである。

 

 

 

一つ注意しないといけないのは、「自己肯定と自己正当化は違う」ということである。

 

自分のありのままを受け入れるのは自己肯定だが、そこから飛び出そうとしないのは自己正当化である。

 

「俺はブサイクだから、カッコ良くなる努力なんてしなくていいんだ」というのは単なる自己正当化だ。面接の場に限らず、相手にそんな態度で接されて、気分の良い人はいない。

 

自分のウィークポイントを認めること、それを素直にさらけ出すことは、とても大切だ。だが、それを相手に指摘された上で、開き直って自分自身に固執し続けるのは、とてもカッコ悪いことなのだ。学ぶべきものがあるのに周囲から学ばないヤツは、会社にはいらないだろう。

 

 

 

僕は、面接でクリエイティブな受け答えをして相手に気に入られることなんて絶対にできないと思っていた。だから本を読んで業界のことをできる限り理解して、勉強家であることを相手に知ってもらおうと思った。

 

(ちなみにクリエイティブな受け答えとして僕が今でも印象に残っているのはとある就活友達から聞いた話だ。その人は、個人面接でいきなり「今君の足元に地雷が埋まっています。どうしますか?」と振られ、すぐに「爆弾処理専門の友達を呼んできます!」と言って部屋を出、スーツを脱いで爆弾処理班の役を演じ、またスーツを着て戻ってきた、という話だった。こういうのが間髪入れずできる人は本当にすごいと思う。)

 

再三このブログでも紹介しているさとなおさんの『明日の広告』などはもちろん押さえつつ、他の広告志望の人間があまり読んでいないような広告関連の書籍も読んでみることで、自分の特徴である「勉強家であること」という要素がより際立ってくるはずだ。というわけで、いくつか紹介する。

 

メディア論―人間の拡張の諸相

メディア論―人間の拡張の諸相

 

 

今こそ読みたいマクルーハン (マイナビ新書)

今こそ読みたいマクルーハン (マイナビ新書)

 

 

マーシャル・マクルーハンはメディア論の大家であり、学問として広告やメディアの研究をしている人なら必ず知っている人物だ。ただ、彼の原著をそのまま読んでもさっぱりわけがわからないので、そこは良心的な解説書の助けを借りるとよい。難解な言葉の向こう側には僕たちをワクワクさせるような思想が潜んでいるということが、わかるはずだ。

 

影響力の武器[第三版]: なぜ、人は動かされるのか

影響力の武器[第三版]: なぜ、人は動かされるのか

 

 

広告と切っても切れない関係にある、心理学を扱った本。僕たちがどうしてある行動をとってしまうのか、人間の根本にある性質をベースに、快刀乱麻の解説を加えてくれる。ちなみに、漫画『ミナミの帝王』のとある巻はおそらくこの本をもとに書かれており、本書のとても良い解説書となること請け合いである。巻数を忘れたので、ちょっとここには紹介できず残念なのだが…。

 

広告ビジネス次の10年

広告ビジネス次の10年

 

 

デジタルとグローバル、という観点から、次世代の広告ビジネスを語りきった本。電通報でも紹介された、すべての広告人必読の書である。この時代に広告代理店を志す君は、もちろん業界の先行きが決して明るく開けたものであるとは思っていないだろう。そんな時代に、広告代理店の内部の人間たちはどうあるべきか?それについて考えるインスピレーションを与えてくれる本。

 

 

 

「広告業界」や「カッコいい面接官」に、自分を合わせる必要なんてない。ダサいヤツは、ダサい姿をそのまま見せればいいのだ。

 

まだ「ホントかなぁ…」なんて疑っている君に、僕がかの三つ編みドレッドヘア氏から頂戴したありがたい言葉を贈ろう。

 

「お前は確かに垢抜けないヤツだ。でも俺としては、お前にはそのまま、素直に自分を出してほしい。広告代理店に入りたいからと言って、無理に変わる必要はない」

 

この言葉があったから、僕は最終面接で「君は女の子にモテるの?」と聞かれた時に、胸を張って「モテません」と答えられたのだ。

 

僕が少しでも「広告業界っぽさ」を意識していたなら、こんなことは言えなかったに違いない。

 

今の自分をそのまま認めて、相対している人間より上とか下とか考えることなく、さらりと相手の眼前に提示する。

 

マジメな人は、自分をよく見せるのが下手だ。僕もそれは全然できない。それでいいんだ。

 

自分をよく見せるのが苦手なら、徹底的に自分を正直にさらけ出せばいい。その率直な姿勢は、自分をよく見せるのと同じかそれ以上の、強力な武器になってくれるはずだ。

 

 

 

世の中の「当たり前」とされていることを、一度自分の物差しで測り直してみることが大切だ。

 

それは就職活動についても言える。

 

「この業界はこんなヤツが受かる」なんて、どこの誰が決めたわけでもない「当たり前」を疑ってはじめて、自分がよりよく生きる道が開ける。

 

自分がその会社で働くことが誰にとってもプラスになると信じているなら、そんな「世の中の常識」など、蹴飛ばしてしまえばいい。

 

そして、これはよりよく生きる道が開けるとわかってくることだが、僕がさっき上で書いた「チャラくてウェーイな広告代理店志望者」にも、いろんなヤツがいる。

 

そこまでいけば、ステレオタイプを持って接するのではなく、自分の目でその人を見るという姿勢が、どれほど大きな学びをもたらしてくれるものであるか、心の底から実感できるだろう。

「教育に関心があります」と言う人はまず、「受験勉強の意味」を語れるようになってほしい。

最近、「教育に興味がある」と言う人によく出会う。

 

たいていは、下のような理由で、教育に興味を持っていると言う。

 

「偏差値至上主義ってやっぱりおかしいと思うんですよ。偏差値ではなく、やりたいことで高校や大学を決める。机の上でしか通用しないお勉強じゃなくて、生きる力を身に付ける。先生から生徒への一方通行ではなく、先生と生徒が対話する双方向の授業を行って、生徒が自分で考える力を養う。そんな学校をつくりたいんです」

 

確かに、偏差値で自分の人生を決めてしまうのは視野が狭い。「勉強ができたので医者になりました」と言う医者よりも、「人を助けたいから医者になりました」と言う医者の方が、(腕が同レベルなのであれば)信頼できるだろう。

 

先日亡くなったロビン・ウィリアムズがキーティング先生を演じる『いまを生きる』や、「社会を変えるために、何をする?」とシモネット先生が問う『ペイ・フォワード 可能の王国』など、良い映画にはよく生徒との対話を重んじる名教師が登場する。「教育に関心がある」人たちの心の中には、彼らのような先生がロールモデルとして描かれていることも多い。

 

 

 

だが、こうした「教育に興味のある人たち」は決定的な点を履き違えていると僕は思う。

 

それは、「学校で一方的・受動的に学ばされる勉強は無駄だ」と考えている点だ。

 

 

 

そもそも、「学ぶ」という行為は、「それを行うことでこういうことが得られると確信した上で」始める能動的なものではない。

 

むしろ、「学ぶ」ことの本質は、多分に受動的なものだ。

 

例えば、あなたは今、僕のブログを読んでくれている。

 

が、遠い昔、まだ小学生だった頃、ひらがなやカタカナ、それから漢字を、「将来インターネットでどこかの誰かの書いた個人ブログを読むために勉強しよう」と思って勉強しただろうか?

 

そんなわけはあるまい。

 

このブログを読んでくれている人全員が、先生や親に無理やり漢字やかなの書き取りを課せられ、強制的に覚えさせられたはずだ。

 

だが、今あなたはそうやって「受動的に」学ばされた手段を駆使して、僕のブログを読んでいる。

 

「学ぶ」というのは、本質的にそういうことなのだ。

 

内田樹氏の『下流志向』 は教育に関心のあるすべての人に読んでほしい本だが、そこにはこうある。

 

教育の逆説は、教育から受益する人間は、自分がどのような利益を得ているのかを、教育がある程度進行するまで、場合によっては教育課程が終了するまで、言うことができないということにあります。

 

(『下流志向』内田樹著、p.55)

 

自分自身の価値判断を「かっこに入れる」ということが実は学びの本質だからです。

 

(同、p.179) 

 

学ぶという行為の本質は、 今自分が持っている「価値判断のものさし」をいったん脇に置き、とにかく学んでみるということにある。学び始める時には、なぜ自分がそれを学んでいるかということはわからないのが普通なのだ。つまり、教育は本質的に一方的にならざるを得ないということなのだ。

 

 

 

「受動的・一方向的に与えられる学習機会」の最たるものは、大学の受験勉強だと思う。

 

そして、「教育に関心がある」と言う人は、えてして大学の受験勉強を「知識の詰め込み」だと批判する。

 

しかし僕が思うに、受験勉強というのは絶え間なく続く「自分との対話」に他ならない。そこで得た洞察は、「受験勉強で習得する知識」など遥かに凌駕する、一生ものの財産としてあなたの役に立ってくれるだろう。

 

例えば、 僕個人が受験勉強から得たメリットには、以下のようなものがある。

 

・自分の思考のクセがわかる。

 

解答用紙に書いた答えが間違っていた時、その間違いの起こり方にはいくつかのパターンがある。知識が足りなかった、アイデアを思いつけなかった、単純ミスをした…。間違いが生じる度に、「なぜこの間違いを犯したのか?」と自問し続けていると、自然と「自分のやってしまいがちな間違いパターン」が見えてくる。

 

僕の場合、単純ミス、それも数字・計算のミスが非常に多かった。誤字・脱字のミスはそれほど多くはなかった。これはそもそも、僕が数学に苦手意識を持っているためだ。「解法はこれでいいのだろうか?」と不安になりながら計算を行うと、ミスが出やすくなる。したがって、解法の正否はとりあえず脇に置き、計算をやる時は計算に集中することにした。また、もう少し対症療法的な対策としては、「時間がある時には主に計算結果を見直す」ということを習慣づけた。

 

これは今でも仕事をする上で役立っている。僕の日常的な業務の一つに、お金や視聴率の数字が合っているか検算する、というものがある。自分は数字を扱う際に単純ミスをしやすい、という自己認識を持ち、ダブルチェックをするだけで、相当部分のミスは削れるものだ。

 

人は誰しも「自分はここが弱い」と感じている部分には注意を払う。若葉マークのドライバーがあまり事故を起こさないのは、「自分は運転が下手だ」という自己認識があるためだ。

 

自分はどこが弱いのかを理解するのは、その弱い部分の力を根本から底上げするためではなく、弱いなら弱いなりに、どうやったらカバーできるかを考えて実行するためである。僕はきっと計算ミスを全然しない人間にはなれない。でも、計算ミスを発見して手直しできる人間にはなれる。

 

受験勉強を通して「自分の起こしやすいミスのパターン」を把握できていれば、その後の仕事人生に生かすことができるのだ。

 

・語学の学び方がわかる。

 

大学受験で課される科目のうち、最も多くの人が勉強する必要のあるものは英語だと思う。そして、英語の学び方がわかっていれば、それは他の語学の習得にも存分に生かせる。

 

受験生だった頃、僕は英作文対策として『基本英文700選』という本に載っている英文をかたっぱしから暗記し、そこに出てくる言い回しを組み合わせて回答をつくり、自分の得点源としていた(英作文の前の段階で単語や文法を死ぬ気で暗記しまくっていたことは言うまでもない)。本番の時には、英語(長文読解の大問2つ、英作文の大問1つ)の得点は僕の大きな武器になってくれた。

 

新・基本英文700選 (駿台受験シリーズ)

新・基本英文700選 (駿台受験シリーズ)

 

 

インドに行ってヒンディー語習得の必要性を痛感した時、僕の力になってくれたのはこの受験勉強の経験だった。単語と文法、それから例文をひたすら暗記していくというスタイルは、ヒンディー語の基礎を習得するのにも抜群の効果を発揮してくれた。もともとリスニングのサンプルはオフィスやステイ先のアパートなど豊富に存在したので、鍛えるべきは特に机上で学ぶ部分だったのだ。半年後には、僕は普段英語を話している地元の不動産業者たちが都合の悪い時だけ交わすヒンディー語の会話の内容を聞き取り、「おい、どういうことだ?」と突っ込めるくらいにはなっていた。その結果、クライアントに不利な情報をいち早く察知し、サービスの質を上げることができた。

 

なお、「単語や文法をやって学べるのはお勉強としての語学ではないか」という批判があるかもしれないが、幼少期をその国で過ごした準ネイティブのような人でもない限り、他の国の言語を実用的に使えるようになるためには「机の上での」語学学習は必要不可欠である。

 

例えば英語。日本ではあたかも「英会話」と「学校の英語の勉強」は別であるかのように思われているが、文法や単語といった無機質な積み上げがあってはじめて、人間味のあるコミュニケーションとしての英語が可能になるのだ。

 

あなたが海外に数年間滞在したという特別な経験を持ち合わせていない人間であるのなら、「お勉強としての英語」(=大学受験英語)を学ぶことは、「実用としての英語」を習得するための強力な一歩になってくれるはずだ。

 

・反復練習でセンスに打ち勝てることがわかる。

 

高校3年の夏に部活を引退するまで、僕の志望校の合格判定はおしなべて最低ランクだった。特に数学と理科はゴミのような点数しか取れていなかった。残り半年で合格するためには、数学ではなく理科にリソースのほとんどを割く必要があると判断した。理科は反復練習による成果が出やすいからだ。ひたすら1冊の問題集の同じ問題を何度も何度も解いた。その結果、本番では理科2科目で狙い通りの点数を出すことができた。

 

「くそマジメに反復練習を突き詰め、センスを凌ぐ」という姿勢は、今でも僕の信念の一つだ。

 

例えば就職活動。僕は当意即妙の受け答えというやつがあまり得意ではない。でも、そういうのが軽くできちゃう人はたくさんいるし、特に広告業界はそういったアドリブに強い人間が多く集まってくる業界だ。

 

その人たちに負けないためには、自分なりの武器をとことん高める必要がある。僕の場合それは、「自己把握能力」だった。面接でどんな質問が来ても、自分のことが理解できていれば必ず答えられる。それは、面白い答えである必要はない。ただ、自分自身という人間に即した答えであることが必要だ。

 

自分自身がどんな人間であるかを知るために、ひたすらOB訪問をし、面接を受け、友達と話した。対話を繰り返して、自分自身についての理解を深めた。きっと就活生の大部分がやっていることだと思う。でも、就活はユニークなことをやった人が勝つわけではない。

 

大学受験では、みんなが使っている定評のある問題集を、愚直に何度も繰り返した人が勝つ。就活も、それと何ら変わらない。

 

僕は今いる会社の最終面接で「君は女の子にモテますか?」という質問を受けた。広告業界について、ある特定のイメージを抱いている人なら、「モテるって答えた方がいいのかなぁ」と回答に悩むだろう。だが僕は「いえ、モテません」と即答した。「じゃあ、好きな女の子を落とすならどうする?」と聞かれたので、「2人でコミュニケーションするのは大好きなので、一緒に飲みに行ってくれさえすれば、好きになってもらえる自信はあります」と答えた。そしたら通った。

 

それは、自分自身のことをギリギリまで突き詰めてさえいれば、「広告業界っぽい感じ」に自分を合わせなくても選考をパスできるんだと感じた瞬間だった。

 

センスのある奴に、同じ土俵で勝負しても敵わない。それなら自分の勝てる場所で、勝てる確率を極限まで上げ続けて勝負すればいい。反復練習は、必ず君の味方になってくれる。それを初めて知ったのは、大学受験の時だった。

 

 

 

長々と「受験勉強から得られたもの」を書いてきたが、当然のことながら、僕は受験勉強に取り組む前からこういったものが得られると思っていなかった。ただ、受かるために死ぬ気で勉強した結果、こういった洞察に至ったのである。

 

それを「受験勉強なんて下らない」と言って退けていたら、絶対にこんな学びは得られていないのだ。

 

だから僕は、「学校の勉強なんて何の役にも立たない」と言う人よりも「学校の勉強からたくさんのことを学べた」と言う人の方が、ずっとずっと魅力的だと思う。

 

山田詠美の『僕は勉強ができない』は、勉強ができることよりも女の子にモテることの方が大切だと思っていた主人公が、その勉強からすらも何かを学ぼうと、大学進学を決意するストーリーである。「勉強なんて下らない」と思っている人にぜひ読んでほしい一冊だ。もっとも、僕も(上では「モテません」とか言ってるけど)女の子からモテることはとても大切だと思っている人間ではあるのだけれど。 

 

ぼくは勉強ができない (新潮文庫)

ぼくは勉強ができない (新潮文庫)

 

 

一方、『僕は勉強ができない』とは逆の方向、「勉強以外のものの価値も認められるようになりたい」と感じている人には、『ボールのようなことば。』の次の言葉を贈りたい。ちなみに言っておくと、僕はルーツとしては完全にこっち側の人間だ。

 

「勉強ができる人」なのにかっこいい人は、「勉強ができる人」であることを克服した人です。

(『ボールのようなことば。』糸井重里)  

 

ボールのようなことば。 (ほぼ日文庫)

ボールのようなことば。 (ほぼ日文庫)

 

 

 

「教育に関心がある」と言うのなら、今ある学校の仕組みを全否定するのではなく、既存の教育システムや受験勉強の価値も、きちんと語るべきだと僕は思う。

 

確かに、ただひたすら先生が教えることを頭に詰め込んでいくだけでは、僕がこの記事で書いた「学びの本質」すら理解しないまま、偏差値だけで物事を判断する人間になってしまいかねない。

 

僕は中高生の頃から、読書や対話を通して人の考えを知ったり、部活や習い事、体験学習の機会を通していろんな世界を知ったりするのが好きだった。そういった経験がなければ、このブログで書いているような「学びの本質」に気付くことはなかっただろう。

 

実際、上でも書いているように、「思考のクセがわかる」ことや「語学の学び方がわかる」ことは、会社に入ったり外国で働いたりしたから、つまりは多様な経験をしたからこそ理解できたことだ。

 

だから、これからの教育を考えるのであれば、「学校の勉強」と「課外的な学習」の両方のいいところをミックスさせる必要があると僕は思う。

 

ただ、「学校のお勉強は無駄だ」「受験勉強は単なる詰め込みだ」と言うのは、教育の本質的な側面を捉えていない、あまりに表層的な批判だと言わざるを得ない。

 

「教育に関心があります」と語るのであれば、まず自分が通ってきた学校の勉強から何が学べたのか、それを自分の言葉で語れる人であってほしい。

 

そうやって「課せられた学習から何が学べたのか」を語れることこそが、「教育の本質」を自分のものにしているということなのだから。

「次世代の凡人」に告げる、これからの生き方。

先日、上司から「新卒1年目で会社を辞めてしまった先輩」の話を聞いた。

 

その人は、「こんな仕事は自分のやる仕事じゃない」と言って、次第にやる気を失い、フェードアウトしてしまったそうだ。

 

こういった理由で会社を辞めたり精神を病んでしまったりする人の数は、これから確実に増えてゆくと僕は考える。

 

その理由は2つある。

 

1つは、就職活動で「やりたいことはなんですか」と聞かれる以上、学生は必死になって「自分のやりたいこと」を明確化せざるを得ないからだ。

 

本当は、志望動機をきちんと考えておいた方がよい理由は、志望動機が魅力的か否かで入社の是非が決まるからではなく、そうしてきちんと自分のやりたいことを語れる人間の方が「企業のことをよく調べていて」「熱意があり」そして何より「自信のある」人間に「見える」からなのだが、就活生からすれば、「志望動機が明確でないと入社できない」と思いこみ、せっせと志望動機に磨きをかけるのは、まあ当然と言えるだろう。

 

しかし、OB訪問を繰り返し先輩や友人にダメ出しをされながら練り上げた、死ぬほど思い入れのある志望動機も、就活が終わってしまえばただのたわごとに過ぎなくなる。新卒の配属を考える人事や、それを受け入れる部署の上司には、内定の決まった新卒の志望動機など、その新卒のモチベーションを削りかねない、重い足かせにしかならないものだと思われていることだろう。その構図は、『就活エリートの迷走』という本に鮮やかに描かれている。

 

就活エリートの迷走 (ちくま新書)

就活エリートの迷走 (ちくま新書)

 

  

志望動機は、目的ではなく手段だ。よりよく生きていくためには「何がやりたいのか」を問うことは目的になる。だが、会社に入る上で「何がやりたいのか」を問うのは、手段でしかないのだ。

 

さて、容易に会社から飛び出してしまう人が増えるであろういま1つの理由は、世の中的に「やりたいことをやること」こそが正義だ、という風潮があるからだ。

 

巷にあふれる自己啓発書にも、Twitterで何百、何千とRTされている著名人のありがたいツイートにも、「とにかくやりたいことをやりなさい」と書かれている。「そのためには今働いている会社を飛び出すことも辞さないように」とまで。

 

そうした言説を真に受けた結果、「ここは自分のいるべき場所じゃない!」と言い切り、せっかく入った会社を辞めてしまう。あるいは、辞めないまでも、今目の前にある仕事に全力で打ち込むことなく、異業種交流会や週末起業に精を出し、社内で使いものにならない人間になってしまう。

 

 

 

僕は、こんなふうに気軽に会社を辞めてしまうことは、決してその人のためにならないと確信している。

 

やりたいことがきちんとあって、そのためにリスクも全部引き受ける覚悟がある人なら、辞めたって構わない。(本当は、やりたいことを実現できる能力も、持ち合わせていた方がよいとは思うけど。)

 

だが、そうではない99%の人、僕を含めた凡人は、そんなふうに今いる場所に即刻見切りを付けてしまうべきではない。

 

なぜなら、今いる場所で全力を尽くし、そこから得られるものをすべて学びとる方が、今の場所から逃れてどこか別のもっと自分に合った場所に行くよりも、ずっとずっと有益だからだ。

 

 

 

もう何度も書いているが、僕はインドのとある不動産仲介の会社でインターンをしていた。正確に言うと、不動産仲介だけではなく、カーレンタルや航空券の購入代行、ビザの手続き代行など、海外からのインド駐在員のためなら何でもやる、という会社だった。

 

僕はそのインターンで、幾度となく辛酸をなめた。何度この会社を辞めて、日本人のいる、きちんとした会社を探そうと思ったかしれない。(辛酸の具体的な内容については、働きはじめて改めて感じた、海外インターンに行くべき理由。でも触れている。)

 

しかし、僕は辞めなかった。辞めて新しい会社でインターンをしても、必ずどこかに不満を抱く。また、今よりも楽な会社なら、そこで学べるものは今の会社よりも小さいはずだ。それなら、少しは勝手のわかってきた今の会社で、キツイ壁を乗り越えて大きな収穫を手にしてやろう、と。

 

実際、1年弱という長い期間、インド人しかいない会社で不動産を売り続け、インド人しかいないスラムのアパートでインド人たちと雑魚寝した経験によって、僕はどこででも生きていける自信がついた。英語も話せるようになったし、就職活動で納得のいく結果を出すこともできた。今は広告代理店で、日本人とインド人の「お金」や「モノ」に対する欲望の違いを、仕事の中で実感できてもいる。そういった学びや力は、楽な道を選んでいては得られなかった。

 

インドに行く前からずっと、僕はそんなふうに生きてきた。高校の野球部や沖縄の離島のダイビングショップのアルバイトからは体育会系の価値観を飲み込んでしまうことを覚えたし、現在ブラック企業と名指しされている某居酒屋のアルバイトからは、人に「営業する」ということの難しさや楽しさを知った。

 

だから思うのだ。

 

生半可な気持ちで今いる場所から退出することは、自分自身にとって、大きな機会損失になりかねないのだと。

 

 

 

僕は今、本当に危惧している。

 

人の価値観がさまざまになり、「自分の幸せってなんだろう?」と考えざるを得ない時代になった。特に、これからもらえる給料がグングン伸びてゆくインドのような国、「お金を稼ぐことが幸せだ」と信じられる国ではいざ知らず、日本のように経済成長がある程度頭打ちになっている国では、多くの人が「自分の幸せ」について考えることになるだろう。

 

自分の幸せについて考えるのは、無条件にいいことだ。

 

だがその結果、「今いる場所で精進し、その結果予期していなかった学びを得る」という姿勢が失われることになるのなら、それはいいことだとは思えない。

 

スティーブ・ジョブズの"connecting the dots"の話を聞いたことのある人は多いだろう。一応下に引用する。

 

You can't connect the dots looking forward you can only connect them looking backwards. So you have to trust that the dots will somehow connect in your future.

将来を見据えていろんな経験をつなげていくことはできない。後から振り返ってそうすることしか。だから、あなたがたはその経験が自分の将来に何かしら結びついていくであろうと信じる必要があるのです。

Steve Jobs、訳はブログ筆者)

  

今直面している経験を大切にせよ、とジョブズは言っている。それがどう自分の将来に役に立つのかはわからなくても、役に立つと信じることで、それは役に立つようになるのだ、と。

 

会社を辞めるかどうかということについても、同じではないだろうか?

 

スティーブ・ジョブズはとかく「自己実現」や「夢を叶える」といったキーワードを好む人に深く影響を与えているようだが、そういった人が明確にやりたいこともなく「会社を辞めよう!」「起業しよう!」と言うのであれば、それは皮肉なことだと言わざるを得ない。

 

なぜなら、ジョブズが言っていることは「今目の前にある"ココ"が、いつか未来の自分のキャリアと接続されることを信じて、コミットしてみよう」ということだからだ。

 

「今ココ」から退出し「別のドコカ」に夢を求める人たちがスティーブ・ジョブズに憧れるというのは、控えめに言って、滑稽である。

 

 

 

僕がもし、「誰にも負けないことを一つだけ挙げてください」と言われたら、それは「点(dots)を線につなげる力です」と答える。

 

理系でも文系でもなく、体育会系でも文化系でもなく、引きこもりでもグローバル人間でもない。ただその両者をひっきりなしに行き来し、人からは「お前は何がやりたいんだ」と何度となく指摘される中で鍛えてきた「今いる場所を正解にする力」だけは、誰にも負けないと感じている。

 

それは別に、誰もが身に付けるべき力ではない。初めからやりたいことが明確で、ゴールに向かってこのステップとこのステップを踏んでいけばいいと思える人には、僕のような考えは、むしろ邪魔だ。邪教といってもいい。

 

だが、多くの人は凡人であり、「やりたいことはこれです!」なんて、言い切れやしないのだ。

 

 

 

そんな僕たち凡人が、納得できる人生を生きるために大切なことは、下の二つだ。

 

自分がどんな場所にいてどんな人と話しどんなことに取り組んでいれば幸せなのか、きちんと理解していること。

 

その上で、たとえ今いる場所が自分の幸せと相容れない場所のように思えても、がむしゃらに踏んばれば必ず幸せに近づいていくと信じていること。

 

この相矛盾する二つの哲学を、しっかりと自分のものにしている人は、どこへ行っても何をやっても、必ず納得のいく人生を送ることができるだろう。

 

派手な人生でも、おもしろい人生でもないかもしれない。

 

だけどそれは、納得のいく人生だ。

 

 

 

これが、僕が思う「次世代の凡人の生き方」だ。

 

「世間のレールから外れ、入った会社を辞めても、『これだけはやりたい!』と言い切れるものがある」という"超人"には、ほとんどの人は、なることができない。

 

ニーチェは、「超人」とは、キリスト教というそれまでの西洋を支配していた価値の根拠を徹底的に捨て去り、新たな価値の根拠を創出する人のことだ、と説いている。

 

ツァラトストラかく語りき 上巻 (新潮文庫 ニ 1-1)

ツァラトストラかく語りき 上巻 (新潮文庫 ニ 1-1)

 

 

ニーチェ入門 (ちくま新書)

ニーチェ入門 (ちくま新書)

 

 

僕が上で使った"超人"も、およそ似たような意味を持つ。要は、世間的に当たり前だとされている価値観から軽やかに身を翻し、自分の信念に従った価値体系を打ち立てられる人間のことだ。

 

「超人にはほとんどの人はなることができない」という言葉に対して「最初から諦めるな!夢は叶う!」と叫ぶのはお門違いだ。なぜなら、「なることができない」というのは「能力がなくてできない」という意味ではなく、「はじめからそういった価値観ではないからできない」という意味だからだ。

 

世の中には、守るものがあって無茶なことはできなかったり、どこまでいっても中途半端で振りきれた生き方ができなかったりする人もいる。それは、決して悪いことではない。むしろ、守るべきものを守ったり、中途半端に帰ることのできる場所を残したりすることが、好きだからそうしているという場合もあるのではないだろうか?例えば、家族がいるから会社を辞めることはできない、という言葉は、僕には諦めではなく、ずしりと重い、前向きな決意のように感じる。

 

 

 

また、"超人"になれない人の全員が、なんとなく昔の仲間となじみ深い故郷でダラダラ過ごしていられれば幸せ…という「マイルドヤンキー」的な価値観に馴染めるわけもない。

 

ヤンキー経済 消費の主役・新保守層の正体 (幻冬舎新書)

ヤンキー経済 消費の主役・新保守層の正体 (幻冬舎新書)

 

 

これは、僕が昔 'デミアン' - ヘルマン・ヘッセ / 「自分の進む道に確信を持っている人」なんていない。 という記事で書いたことと近いけれども、「自分の幸せとは何なのか?」ということを、自問せずとも幸せに生きていける人たちがいる。僕はそれこそが、『ヤンキー経済』で書かれている「マイルドヤンキー」的なマインドに他ならないと思う。

 

むしろ、「自分の幸せってなんだろう?」 と考え込まざるを得ない人は、少数派だ。だからキツイ。身の周りを見渡しても、「そんなこと考えなくても酒飲んで楽しいヤツらと過ごしていれば幸せじゃん」と言う人間か、「自分の幸せ」をとことん突き詰めた結果、素晴らしい人生を過ごしている"超人"しか見当たらない。前者は数の多さゆえに、後者は突出度合いゆえに、それぞれ目立ってしまうのだ。

 

 

 

だが、「次世代の凡人」は確かにここに1人存在する。そして、これからその数はずっと増えていく。

 

あなたは1人ではないのだ。

 

あえて「次世代の凡人」がどんな人たちなのかを先人の書から描写してみると、梅田望夫氏の『ウェブ時代をゆく』に出てくる「総表現社会参加層」というのがそれにあたるのではないか、と思う。

 

「エリート(一万人)対大衆(一億人)」という二層構造ではなく、この二つの層の間に、多様で質の高い人たちの第三層「総表現社会参加層(一千万人)」つまり「あるレベルの知を持った人たちの層」をイメージすべきだと主張した。

(『ウェブ時代をゆく』梅田望夫著) 

 

ウェブ時代をゆく ─いかに働き、いかに学ぶか (ちくま新書)

ウェブ時代をゆく ─いかに働き、いかに学ぶか (ちくま新書)

 

 

確かに、このブログを読んでくれる人はそれなりのネットリテラシーと文章読解能力を有しているはずだし(でなければこんな長い文章は読まない)、「次世代の凡人」である僕自身、こうしてブログを書き、「総表現社会」の恩恵に多分に与っている。

 

ただ、梅田氏の想定している「第三層」というのは、僕が述べている「次世代の凡人」よりも革新的で、インターネットをうまく使いこなしている人たち、という印象を受ける。

 

僕はもう少し、「普通の」(という言い方を許してほしい)人たちに向けて、メッセージを書きたい。

 

実際、僕がブログで出会い、そして「あなたの文章を読んで少しだけ勇気が出ました」と言ってくれた人たちの大半は、「これまでインターネットで人と知り合うことなんてなかった」「ブログにコメントするとか、メッセージを送るとか、やったことがなかった」という人たちだった。

 

糸井重里氏はこう書いている。

 

ホームページを始めた頃、ぼくが感じていたジレンマは、何かを伝えたり、語ったり、あるいは伝えられたり受け取ったりすべき相手は、最大でも二〇〇〇万人といわれるインターネット経験者ではなく、むしろ残りの八〇〇〇万人のほうではないかということでした。

(『インターネット的』糸井重里著)

 

インターネット的 (PHP新書)

インターネット的 (PHP新書)

 

 

僕が広告代理店で学んだことを活かし、メッセージを伝えていくのは、きっとそういう「普通の、でもどこか『普通』では終わりたくない」人たちなのだと思う。

 

 

 

SNSで「隣の青い芝生」をいともたやすく覗けるようになり、自己啓発書は先行きの見えない社会に「夢を持て!会社に依存するな!」と高らかに叫ぶ、そんな時代。

 

僕は「次世代の凡人」の1人として、人がどう生きれば幸せになれるのか、ずっと模索し続けていきたい。

 

会社に勤めながら、こうしてブログを書き続けたい。少人数で、好きなことや下らないことやマジメなことについてずっと話し続けられる場所をつくりたい。そうした姿勢それ自体が、「次世代の凡人」的な生き方を応援することだと信じて。

 

おもしろい人生も、ユニークな人生も僕にはいらない。

 

ただ「納得のいく人生」だけを、僕は歩んでいきたいのだ。

「本好きへの100の質問」をやってみた。

(チェコ好き)(id:aniram_czech)さんがやっておられたので、暇つぶしにやってみました。

 

 

 

001. 本が好きな理由を教えてください。
知らない世界が知れることです。そこでいう「世界」という言葉は、まだ行ったことのない海外のこととか、知らなかった宇宙の話とかだけではなく、会ったこともない誰かの脳みその中身や、その人の世界の見方、考え方といったものをも含みます。

 

002. 記憶に残っているなかで、最も幼い頃に読んだ本は?
『エルマーの冒険』です。あと、読んではいないですが幼少期に父親がよく芥川龍之介の『杜子春』の話をしてくれたのを覚えています。

 

003. はじめて自分のお小遣いで買った本を教えてください。また、その本を今でも持っていますか?
星新一のショート・ショートのどれかです。『ボッコちゃん』かなぁ。

 

004. 購読している雑誌はありますか?
ありません。雑誌は不得手で、「この雑誌の今月号おもしろいよ」と友達から教えてもらうことが多いです。

 

005. 贔屓にしているWEBマガジンはありますか?
WEBマガジンってのが何を指すのかよくわかりません。

 

006. 書籍関連のHPの、どんなところに注目しますか(書評や感想文等々)。
書評はあまり読まないです。誰かの創作小説とかエッセイとかが置いてあったら、それは読んでみたいですね。

 

007. 最近読んだ本のタイトルを教えてください。
ニーチェの『この人を見よ』でした。80%くらい意味がわからなかったので、『ニーチェ入門』という本を買って今読んでます。

 

008. ベストセラーは読む方ですか?
おもしろそうだったら読みます。ベストセラーかどうかにこだわりはありません。

 

009. 御贔屓は、どんなジャンルですか?
比較的雑食な方だと思います。青い鳥文庫とおじさんエッセイスト(椎名誠、東海林さだお)に育ててもらいました。小説、科学書、エッセイ、ビジネス、ドキュメンタリーなどなど、面白ければ何でも読みます。

 

010. あなたは活字中毒ですか?(それはどんな症状としてあらわれていますか)
お風呂に必ず本を持って行く程度には活字中毒です。椎名誠の『活字中毒者地獄の味噌蔵』面白いよ。

 

011. 月に何冊くらい読みますか?
5冊くらいでしょうか。

 

012. あなたは本の奥付をちゃんとチェックしますか? するとしたら、その理由は?
割と見ます。出版年と版数を見ると定評のあるものなのかわかるからです。

 

013. 文庫本の値段として「高い」と感じるのは幾らからですか?
文庫本は1000円以内が相場ではないでしょうか。

 

014. 本は書店で買いますか、それとも図書館で借りますか。その理由は?
今はamazon:書店=7:3くらいかな。書店でも、衝動買いはめったにないです。正直、「書店でしかできない本との出会い」は、今のところ実現されているとは思えないです。本好きは自分で読みたい本を見つけることが多いので、やっぱり検索できるオンラインショップに分があるのではないかな。あと、図書館で借りることはありません。

 

015. あなたは「たくさん本を買うけど積ん読派」それとも「買った本はみんな目を通す派」のどちらでしょう?
基本的には目を通す派です。図書館で借りるよりもモノを買ってしまう程度には「実体としての本」に興味がありますが、読まずにインテリアとして飾ったり積ん読したりするほど内容に興味がないわけではないです。

 

016. 行き場に困ったとき、とりあえず書店に入ってしまう。そんなことはありますか?
これはよくあります。

 

017. 馴染みの書店・図書館に、なにかひとこと。
もうちょっと通路を広くしていただきたい。

 

018. あなたは蔵書をどれくらい持っていますか。
500冊はいってる気がしますが細かいことはわかりません。大半は実家にありますが、家族の誰の本なのかがあいまいになっているものも多いです。

 

019. 自分の本棚について、簡単に説明してください(“小説が多く実用書が少ない”等々)。
ページに空白の多い本が少ない。

 

020. 本棚は整理整頓されていますか。
自分なりの分け方はあります。

 

021. 既に持っている本を、誤って買ってしまったことはありますか? その本のタイトルは。
あったはずだがタイトルが思い出せない…。

 

022. 気に入った本は、自分の手元に置かないと気が済まない?
そうですね。何度でも読み返したい、自分の礎になっている本というものはいくつかあって、それらはいつも手元に置いておきたいです。

 

023. 本に関することで、悩んでいることは?
読む時間が無い。

 

024. 速読派と熟読派、あなたはどちらに該当しますか。
正直、これをわける人は本好きではないように思います。一般的なビジネス書やなんらかの参考図書・資料集を熟読しても仕方がないですし、古典文学や哲学書を速読しても仕方ありません。本にあった読み方があるはずですし、またそういった読み方をしていきたいですね。

 

025. 本を読んでいて分からない言葉があったとき、意味を調べますか?
一定レベルまではカッコに入れて保留したまま読み進めますが、不明な用語が多すぎて文意が通じなくなった時は調べます。要は英文を読むのと同じです。

 

026. 本を読む場所で、お気に入りなのは?
どこでも読みます。

 

027. あなたは今、めったに読むことのない分厚い本を前にしています。ところでこの本「すごくおもしろい」という、いつもは信頼できる情報を得たはずなのに、最初の部分がやたらにつまらない。そんなときどうしますか?
んー、もうちょっとだけがんばって読んで、それでもつまらなかったらやめるかな…。最初がつまんなかったらたいてい挽回は不可能だという経験則があるので。

 

028. 本を読むときに、同時になにかすることはありますか?(例:お茶を飲む、おやつを食べる、音楽をかける)
音楽は絶対にかけないです。飲食は普通にします。

 

029. 読みかけの本にはさむ栞は、何を使っていますか?
紐やしおりが付属している本ならそれを。ないならそのまま閉じて、次はなんとなく覚えているところから読みはじめます。

 

030. ブックフェアのグッズを新たに誕生させることになりました。あなたが『これなら欲しい』と思うグッズを考えてください。
特に思いつかない…。

 

031. 無人島に1冊だけ本を持っていけるとしたら、何を選びますか。
無人島ということで、池澤夏樹の『夏の朝の成層圏』でしょうか。

 

032. 今、最も欲しい本のタイトルをどうぞ。
フィリップ・コトラーの『マーケティング3.0』。

 

033. 生涯の1冊、そんな存在の本はありますか? その本のタイトルは。
立花隆の『脳を鍛える』は、青春時代に僕の根本を形成してくれた本です。

 

034. 何度も読み返してしまうような本はありますか? その本のタイトルは。
下の質問で答えた作品は何度読み返したかわかりません。

 

035. おきにいりの作家ベスト5と、理由をお願いします。
作家単位で好きなのは、以下の2名です。

村上春樹
『ノルウェイの森』が断トツで好きです。あとは『風の歌を聴け』『1973年のピンボール』も。村上春樹は『ファンタジー性と現実世界の融合』を特徴に挙げる人が多いですが、僕の場合はリアリスティックな作風のものが好きです。

ヘルマン・ヘッセ
『車輪の下』『郷愁』『クヌルプ』といった、いわゆるヘッセの『前期』にあたる作品群が大好きです。生き方に迷うのは、いつの時代の少年少女もそうだったんだなって、なんだか安心するんですよね。登場人物たちがとても不器用で魅力的です。

他は、作品単位で好きなことが多いですね。例えば…

池澤夏樹『スティル・ライフ』
どこまでも見通せてしまいそうな抜群の透明感の中で繰り広げられる、小さな冒険。時折混ぜてくる科学チックかつポエティックな表現も、理系出身者としてはツボです。冬の海に行って雪が舞い落ちてきた時の、雪の中を自分が上昇していっている、という描写が神がかっていると思いました。

湯本香樹実『夏の庭』
読んでいると子どもの頃を思い出して本当に切なくなります。最後、3人がわかれ道をそれぞれの足取りで歩いていくところは涙なしでは読めないです。映画の『スタンド・バイ・ミー』を彷彿とさせますね。

芥川龍之介『地獄変』
はっきり言ってものすごくグロい作品だと思います。人間の感情のドロドロした部分をとことんまで煮詰めるとこんな味になるんでしょうか。こういった『登場人物は何を考えてこんなことをしちゃったんだろう』といつまでも考えさせる作品が、『名作』と呼ばれるのだと思います。

武者小路実篤『友情』
これもグロい作品ですね…。容姿もコミュニケーションも人格も絶対に叶いっこない親友に、大好きな女性を奪われるという悲しみ。でも、僕は最後の最後の主人公の姿勢に勇気をもらいました。これだけ愛憎渦巻く作品なのに、読後に感じる清々しさが素晴らしいです。

サリンジャー『ライ麦畑でつかまえて』。ホールデン少年みたいな、斜に構えつつも人間に対して絶望してはいないっていう姿勢、自分の中学生の頃を思い出してなんかいいなぁって思っちゃうんですよね。ライ麦畑で落っこちそうになった子どもたちを、ちゃんと救ってあげられるような人になりたいなと思います。

 

036. 好きなシリーズ物はありますか?
『指輪物語』『ムーミンシリーズ』あたりでしょうか…。歴史小説はいつも面白いと思いながら1巻、2巻あたりを読んで挫折します。

 

037. 本を選ぶときのポイントを教えてください。
小説の場合は、自分が良いなって思う感性を持っている人の勧める本かどうか。
小説以外だと、今自分が興味を持っている分野で定評のある本を選ぶ。

 

038. 翻訳小説は、訳者にこだわる方ですか。
こだわりません。

 

039. 信頼できる書評家は誰ですか?
あまり、書評家を信頼して買う、ということがないです。

 

040. 絵本は好きですか? 好きな方は、好きな絵本のタイトルを教えてください。
とんと読んでいませんね。

 

042. 読みたいのに読めない本はありますか? その理由は。
特にないです。

 

043. ノンフィクション作品のおすすめを教えてください。
サイモン・シン『フェルマーの最終定理』は、数学の面白さを奇跡的なまでにわかりやすく語ってくれますよ。お勧めです。

 

044. あなたの好きな恋愛小説を教えてください。
あんまり恋愛小説を読んで感情移入できた試しがない。したがって、ありません。

 

045. 泣けてしまった本を教えてください。
やっぱり、『夏の庭』かな。

 

046. 読んでいるだけで、アドレナリンが分泌されてくるような本は?
リチャード・ドーキンス「利己的な遺伝子」超面白いですよ。

 

047. もう2度と読みたくない本は、ありますか?
そういう本は忘れてしまうので、ありません。

 

048. 良くも悪くも『やられた!』と思った本はありますか?
朝井リョウの『何者』。最近読んだ小説で、久々のヒットでした。エグイですが…。

 

049. 読む前と読後感が違っていた(食わず嫌いだった)本は?
あんまり食わず嫌いをしないので、ありません。

 

050. 子供にプレゼントしたい本のタイトルを教えてください。
トーベ・ヤンソン『ムーミン谷の彗星』怖いです。
スウィフト『ガリバー旅行記』面白くも深いです。
マーク・トウェイン『トム・ソーヤーの冒険』ワクワクします。
やっぱり、名作は名作ですね。

 

051. お気に入りの出版社と、その理由を教えてください。
光文社の新書には良いものが多いように思います。装丁が好きです。

 

052. それでは苦手な出版社は? その理由を教えてください。
ありません。

 

053. この本で読書感想文を書いた、という記憶に残っている本はありますか? あれば、そのタイトルは?
高1の時に読んだ遠藤周作の『沈黙』です。正直よくわかりませんでした。

 

054. 装丁が気に入っている本を教えてください。
さっきも書きましたが、光文社新書です。

 

055. あなたは漫画が好きですか?
かなり好きと言ってよいかと。

 

056. お気にいりの漫画家ベスト5と、好きな作品について教えてください。
順不同です。
羽海野チカ『ハチミツとクローバー』
岩明均『寄生獣』
ひぐちアサ『おおきく振りかぶって』
福本伸行『カイジ』シリーズ
安部譲二・柿崎正澄『RAINBOW 二舎六房の七人』

 

057. サイン本を持っていますか?(タイトルと作家名は?)
持っていません。

 

058. 持っているのを自慢したい。そんな本はありますか?
ありません。

 

059. 東・西・南・北……漢字を選んで、浮かんだ本のタイトルを書いてください(実在する書名に限ります)。
江國香織『東京タワー』

 

060. 短編小説集を買ったら、全部読みますか? それとも、その中から気に入った作品しか読みませんか?
全部読みます。

 

061. 憧れのキャラクターを教えてください。
いないかなぁ。

 

062. 印象的な女性キャラクターを教えてください。
『僕等がいた』の千見寺ちゃん。可愛いです…。

 

063. 印象的な男性キャラクターを教えてください。
アカギの生きざまには惚れます。

 

064. 先生といえば?
わかりません。

 

065. 探偵といえば?
わかりません。

 

066. ベストカップル、ベストコンビといえば?
わかりません。

 

067. 本に登場する場所で、行ってみたいと思うのは?
『グレート・ギャッツビー』に出てくるロング・アイランドには行ってみたいですね。

 

068. 子供の出てくる作品といえば?
あさのあつこの『バッテリー』は良い作品です。

 

069. 動物の出てくる作品といえば?
『フルーツバスケット』でしょうか…。

 

070. これまで出会った中で、もっとも感情移入できたキャラクターは?
『友情』の主人公、野島。

 

071. 本の登場人物になれるとしたら、誰(何)になりたいですか?
特にありません。

 

072. 夢中になった作家、現在進行形で夢中な作家の名前を教えてください。
今はニーチェについてもっと知りたいと思っています。

 

073. 1日だけ作家になれるとしたら、誰になりますか。
特にありません。

 

074. 編集者になるとしたら、どの作家の担当になりたいですか?
特にありません…。

 

075. 好きな作家に原稿を依頼するとしたら、どんな作品を希望しますか。作家名とジャンルを教えてください。
特にないなぁ。「自分で作品を生み出したい!」という情熱が希薄なのかもしれません。

 

076.『あの作家に、これだけは言いたい』……ひとことどうぞ!
村上春樹氏に「官能小説は書かないのですか?」と。(春樹ファンの方ごめんなさい)

 

077. 紙幣の肖像、私ならこの文豪を選ぶ!
思いつかねえ。

 

078. 文章と作家のイメージが違っていた、そんなことはありますか?
割と作品と作家は切り離して考えるので、ありません。

 

079. あなたにとって、詩人といえば。
ポール・ヴァレリー。

 

080. 家族……この単語から連想した本のタイトルを書いてください(実在する書名に限ります)。
重松清『ナイフ』
筒井康隆『家族八景』

 

081. 本を捨てることに抵抗がありますか?
あります。でも捨てます。

 

082. これだけは許せない、そういう本の扱い方はありますか?
特にありません。自分でも毎回お風呂に持ち込んでしわしわにするので。

 

083.“活字離れ”について、どう思いますか?
ブログとかまとめサイトとかも「活字」ではあるので、活字離れしているわけではないと思います。

 

084. 本を読まない人のことを、どう思いますか?
もったいない、とは思います。本はとても面白いので。ただその人も、僕の知らない「面白いもの」を知っているはずなので、おあいこです。

 

085. とりあえず、本を持っていないと落ち着かない。そんな癖がありますか?
あります。外出先で暇な時間ができそうな時は、あらかじめ文庫を1、2冊持って行きます。

 

086. 世界中で、本の出版が禁止されたら、どうしますか?
たぶんインターネットの活字をなめるように摂取します。

 

087. 青空文庫を利用したことがありますか?
ないです。

 

088. 電子図書館についてどう思いますか?
ほとんど知りません。

 

089. 将来的に、本という存在は無くなると思いますか?
本は無くならないんじゃないですか?紙の本は減るかもしれませんが、これも無くなりはしないという直感があります。

 

090. 本が無くても生きていけると思いますか?
僕は無理かもです。

 

091. この人の薦める本なら読んでみたい、そう思う有名人を教えてください。
ないです。

 

092. 映像化してほしい本はありますか?
特に思い浮かばない。

 

093. テレビ化・映画化で成功したと思う作品を教えてください。
んー、基本的には小説と映像は別物で評価するので、考えられません。

 

094. 本の中に再現したいと思う(実際に再現した)場面はありますか?
あの高校2年の夏の公式戦を再現してみたいかな。ちなみに野球部でした。

 

095. あなたにはどうしても読みたい本があります。その本は既に絶版・品切。さあ、どうしますか?
ネットで調べます。

 

096. 本という存在に対して、文句はありますか?
もっと軽くなったらいいのですが…。

 

097. 心に残っている言葉・名台詞は?(原典も明記してください)
「無名」の時間に学んだことというのが、おそらく、その人の根っこをつくるのだと思います。
(糸井重里『ボールのようなことば。』

 

098. あなたにとって、本とおなじくらい蠱惑的なものは何ですか。
ロックミュージック、新しいお店を知ること、さし飲み。

 

099. 出版業界にひとことどうぞ。
割と近い業界なので一緒にがんばりましょう。

 

100. つまるところ、あなたにとって本とは。
その1冊に、自分の今見ている世界とは別の小宇宙が詰まっているもの。

「体育会系的価値観」は本当に悪か?

広告代理店、というと、服装はカジュアルでフラットな人間関係で―みたいな想像をされることが多い。

 

だがそれはあくまで部署や所属するチームによるのであって、中には伝統的な日本企業の雰囲気そのままの部署も存在する。

 

特に僕が今いるメディアの部署や、それから営業の部署などでは、服装もきっちりスーツだし、上下関係もしっかりしていることが多い。

 

それは、日々相対している社外の方々の雰囲気や価値観に合わせる必要があるからだ。

 

メディアの部署が日常的に接するマスメディアの社風は(特に新聞社は)やっぱり堅実なところが多いし、営業がコミュニケーションを取るお得意様の中にも、トラディショナルな雰囲気を残しているところは多い。

 

僕はそうした「体育会系的な価値観」「年功的上下関係」が色濃く残る部署で日々仕事をしているわけだ。

 

こうした価値観に対して、苦手意識を持つ人はけっこう多いのではないだろうか?

 

事実、友達と話をしても「体育会系な雰囲気は苦手だわ~」という話になることは多いし、Twitterではそれをさらにストレートに表現した「体育会系クソ食らえ」みたいな意見をよく目にする。

 

だが僕は、それが可能であるなら、体育会系的な価値観をぜひとも自分の中に飲み込み、そうした雰囲気に合わせられるキャパシティを持つことを勧める。

 

なぜなら、そうすることで自分が理解できる人の幅が広がるからだ。

 

 

 

体育会系的な価値観というのは、それが苦手な人たちから「合理的でない」などと忌み嫌われる傾向にある。

 

しかし僕が思うに、体育会系的な価値観というのは宗教と同じなのだ。

 

相手が信じているものがあり、そうした相手を尊重して自分が相手に合わせる、といった点において、体育会系的な価値観と宗教との間には何ら違いがない。

 

例えば、僕はインドでヒンドゥーやムスリムの友人たちとよく一緒にご飯を食べていた。

 

ヒンドゥーにとっては牛が、ムスリムにとっては豚が、それぞれ禁忌の食べ物とされる。

 

一緒にレストランに入った時に、相手がヒンドゥーだったらビーフは頼まないし、ムスリムだったらポークは頼まない。ヒンドゥーとムスリム両方の友人といる時なら、チキンかマトンかフィッシュを頼む。それくらいの配慮はする。

 

もっと言えば、ヒンドゥーの中でも厳格な人たちはベジタリアンだから、彼らと同席した時には肉料理は一切頼まないことになる。

 

「異なる宗教を信じる人に対し、その人を嫌な気持ちにさせる行動はしない」ということは、比較的受け入れやすいことだと思う。

 

これは、体育会系的な価値観においても同じではないだろうか?

 

相手が「上下関係は大切だ」と信じているのなら、それを尊重して上の方を立てる振る舞いをするのはごく自然なことではないだろうか?

 

上座・下座の概念やエレベーターの乗り降りの仕方を覚えるのが「非合理的だ」と言うのであれば、同席したヒンドゥーの友人のためを思って食べたかった牛肉を食べないのも「非合理的だ」となるのではないだろうか?

 

「あるものの価値を信じる人がいるのなら、その人を尊重し自分もそれに合わせた振る舞いをする」という点で言えば、宗教も体育会系の雰囲気も何も変わらないのだ。

 

 

 

もちろん僕だって、年齢や役職が上だからといってなんでもかんでもやっていいとは思わない。暴力や暴言なんてもってのほかだ。

 

だが、誰かがやらなければいけない仕事がある時に「下がやるのが当然」だと思われているのなら、つべこべ言わずにやればいいのではないだろうか?

 

そうして体育会系的な価値観にいったん従って物事を見ていると、それと同じ基準で物事を見ている人たちの考え方や感じ方が理解できてくる。こういうことが好きで、こういうことが嫌い。そういったことだ。

 

「他人を理解する」というのは、「他人の価値判断基準が何かを把握する」ということだと僕は思う。

 

「ブランド」が価値判断基準の人もいるし、「年収」が価値判断基準の人もいるだろう。「幸せな家庭」が価値判断基準の人もいれば、「どれだけ変わったことをやっているか」が価値判断基準の人もいるだろう。

 

その中に、「体育会系的雰囲気が実現されているかどうか」が価値判断基準の人もいる。

 

僕は、それらの価値判断基準に、一切の優劣がないと思っている。

 

それぞれの人が、それぞれの価値判断基準に従って物事を判断し、自分が今幸せかどうかを決めている。そこに僕が口出しをする理由もないし、口出しできるわけもない。

 

であるから、「その人の価値判断基準を知りたい」と切に願う僕としては、体育会系的な価値観も自分の中に飲み込んで、その人を理解したいと思うのだ。

 

 

 

体育会系的な価値観は合理的ではない、悪だ、と言うのであれば、宗教だって悪だし、他のすべての価値判断基準が悪だということになってしまう。しかし、そうではない。

 

体育会系的な価値観は、あくまでその人が信じている一つの価値判断基準に過ぎない。

 

それに合わせて世界を眺めてみれば、また一つ、自分が知らなかったものの見方が手に入るのではないだろうか。