Rail or Fly

レールに乗るのか、飛び降りるのか、迷っているきみに届けたい。

ものわかりの良い顔で批判を受け入れるのはやめようぜ

ブログを書いたり、Twitterでつぶやいたり、ウェブサイトで何か発信したり。僕たちは、自分の思ったこと、考えたことを、いとも簡単に誰かに向けて発信できる時代にいる。

「誰かに発信」と書いたのは、ただ文章を書きたいという欲求だけなら、日記帳を買って日記をつけるだけでいいはずだからだ。インターネット上に何かしら自分の考えを書きつけるというのは、基本的には「誰かに読んでほしい」という気持ちがあるからだ。

誰かに見てほしい、読んでほしい、そう願って僕たちは、今日もキーボードを叩く。

そうやって自分の考えを書き始めてしばらくすると、どうやら自分のやっていることは、ほとんどの人の目には留まっていないようだと気付く。ブログで自分が今日一日考えたことを書いても、ウェブサイトで何か好きなことについて書いても、アクセスは一日10もいかない。Twitterで何かつぶやいても、フォロワーは一向に増えない。

そう、それが普通なのだ。承認欲求というのは、自分でもよくわからないまま脳みそに浮かんだことを垂れ流しているくらいでは、満たされないのだ。

だからそれを満たすために、僕らは無意識のうちに他人の視線を気にするようになる。Facebookに、Likeがたくさん付きそうなきれいな写真をアップロードするようになる。Twitterで、とにかくおもしろいネタを必死に考えてツイートする。ブログで今話題になっている事件を取り上げて評論してみる。あるいは、ウェブサイトで発信していた記事について、知人にアドバイスをもらおうとして、あまつさえ「おもしろくないと思うなら率直に言ってくれ」とお願いしてしまう。

自分の発信していることをもっと注目してもらうために、「需要から考える」という方法を取るのは、一見とても正しいことのように思える。思えるどころか、もしここにお金が絡んでたり、何としてもアクセス数という結果を出さなければならなかったりした場合には、「需要から考える」というのは正真正銘正しいことだと思う。

企業の目的は、それぞれの企業の外にある。企業は社会の機関であり、その目的は社会にある。企業の目的の定義は一つしかない。それは、顧客を創造することである。(中略)企業とは何かを決めるのは顧客である。なぜなら顧客だけが、財やサービスに対する支払いの意志を持ち、経済資源を富に、モノを財貨に変えるからである。(中略)企業の目的は、顧客の創造である。

(マネジメント/ピーター・ドラッカー、14P〜15P)

マネジメント[エッセンシャル版] - 基本と原則

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だけど、仕事として自分のブログやウェブサイトを更新したりしているのでない限り、僕らが考えたことを書いたり、好きなことを紹介したりするのは、お金のためじゃない。

そうしたいから、そうしている。やりたいから、好きだから、そうしている。自分が、自分のブログやウェブサイトを通して発信していることに価値を感じているから、やっている。

それを僕たちは、簡単に忘れてしまう。いや、忘れてしまうというより、その価値を信じられなくなると言った方が正しいだろう。「自分以外に、見る人などいない」と。

だけど必ず、自分の発信したことを見ている人はいる。それは、底の見えない海に放つ釣り針のようなもので、誰が見てくれているのかは正確にはわからない。だけど、竿にアタリがあるように、アクセス数を見れば誰かが見ているかはわかる。不思議なことに、自分が信じていることをそのまま吐き出せば吐き出すほど、釣り針は心に深く刺さる。個人的な、対象の狭い感情であるはずなのに、人はそこに共感する。本当に不思議だが、そういう仕組みなのだからしかたない。

僕は4年ほど前からあちこち移転しながらブログを書き続けているが、自分の心情をほぼそのまま書きつけたのは、このブログが初めてだった。そして、以前のブログからは信じられないほどのアクセス数を経験した。自分を強く出せば出すほど、誰かの共感を引き寄せるというのは、厳密な証明こそ難しいけれども、経験則としては正しいと思っている。

だからこそ、自分の魂が癒されるような、「生きてるって感じ」がするような、そんな発信をすべきなのだ。人の評価より何より、自分の評価を絶対にすべきなのだ。自分がおもしろいと思うことを信じなきゃいけないのだ。



「人の意見は、たとえ批判でもきちんと聴かなきゃ」

昔から僕はそう考えていたし、人の意見を聴けば聴くほど、良いものができると信じていた。

今でも、技術的な面における批判を受け入れるのはとても良いことだと思う。ウェブサイトで言えば、このページが見にくい、ページ同士のアクセスが悪い、そういった読者からの批判にはすすんで応じるべきだ。

だけど、「お前のやっていることはおもしろくない(だから代わりにこれをテーマにしろ)」という批判は、いくら代替案が示されていても、応じるべきでないと僕は思う。だって、それではいそうですかと受け入れて、自分がおもしろいと感じないことをテーマに発信を続けたとしても、「生きてるって感じがしない」からだ。

自分がやりたいことをやって何が悪い。特に、何かを発信して生きていくなら、そうそれが音楽であれ文学であれ絵画であれ、自分が信じるものを発信しなきゃ、やってる意味なんてないだろう。自己満足すら作れないなら、何かを発信する必要などないのだ。

誰かと一緒に企画をするのも、読者からの批判を聴くのと同じだ。誰かとなら、一人ではできないこともできる。だけど、たとえばウェブサイトで何を伝えたいかということは、誰かと相談するべきではないと僕は思う。相談した以上、自分と相手の価値観をすり合わせることになるわけだが、そのコンセプトは自分一人で考え出したものでない以上、確実に自分の共感できるものではなくなってしまっているのだ。

本当に全員が心の底から共感できる納得のいくコンセプトというのは、僕はあり得ないと思っている。むしろ、一致しなくてはならないという考え方こそがよくないのではないだろうか。ウェブサイトで発信したいことというのは、つまりは自分が価値ありと信じていることで、これは自分の生き様と深く結び付いている。自分が何に価値を見出すのかというのは自分の人生そのものなのだ。そんなもの、人それぞれ違っていて当然だろう?自分が言い出しっぺなのだから、「俺はこれがおもしろいと信じてるんだ!」それだけでいいのだ。じゃあその「おもしろさ」をどう伝えればいいのか。それをみんなで考えればいい。

「できるだけ多くの人間におもしろいと思ってもらえること」など見つからない。世界中の人間に「あなたのおもしろいと感じるウェブサイトはどんなものですか」とアンケートを取って、そのすべてを網羅したウェブサイトを作っても、おもしろいものなんてできやしない。自分の心を深く掘り下げ、命を削るように吐き出した個人的な記事でなければ、人の心には刺さらないのだ。

需要を考えて計算してヒットを狙ってる人だっていると言う人もいるかもしれない。村上隆とか秋元康とか、コンテンツ作って金銭的にも大成功している人がいると。確かにそうかもしれない。だけど、あなたは彼らのようになれるだろうか?自分の作品で計算してヒットを飛ばせるほど、僕らは頭良くないだろう。

凡人でもいいじゃん。150キロを超える速球とキレのある変化球を巧みにコーナーに散らし低めのボール球で打ち取ることができればそりゃ素晴らしいけど、それしか練習してない内角ギリギリのストレートを愚直に投げ続けるのも悪くないよ。それしかできないし、それでいいのだ。凡人でも、自分が心から大切にしているメッセージが、きっとあるはずだ。



つまらないと言われても、それをおもしろいと自分が信じているなら。やり続けることで、きっと共感の声が集まってくるはずだ。共感を集めにいくのではなく、自分の内側をとことん追求することで、不思議と共感が集まる。

まだまだ未熟だけど、僕はそれを信じている。

誰もが忘れても 僕は忘れたりしない 世界が笑っても 自分を疑わない

時代が望んでも流されて歌ったりしないぜ 全てが変わっても 僕は変わらない

(Fool on the planet/the pillows