以前「英語を話せても代替不可能な人間になんてなれやしないんですよ」 という記事を書いた。
要するに、英語英語と騒ぎ立てても、適性や英語以外の力がなければ、何者にもなれないんですよ、という話だった。
今日は、この記事に一見矛盾するようなことを書こうと思う。つまり、「英語だけ勉強しておけば人生どうにでもなりますよ」という話だ。
しかし、読み進めるうちに、決して矛盾することを書いているのではないことがわかると思う。
どうかお付き合い願いたい。
唐突で下世話な話であるが、インドの企業でインターンしている大学生の僕の給料は、月17500ルピー(昼食代等の手当て込み)。これに交通費を加えて、だいたい月19000ルピーくらいもらっている。2012年6月13日現在、19000ルピーは日本円にして約27000円だ。
(僕の会社は、主に日本人駐在員の方のお世話をしている。レンタカーとか、航空券の手配とか、ビザ手続きの代行とか、アパートの紹介とか、まあそういった「何でも屋」的なサービス業だ。)
これはインド人の平均月給よりもわずかに高いくらいの額である。(参考:世界各国の平均月収)
日本人からしてみたら、月27000円の給料などありえない。しかし、インドの物価の安さから考えれば、これは生きていくのに十分な給料だ。清潔とはいえない部屋をインド人たちとルームシェアするのはややハードルが高いかもしれないけど、毎日三食きちんと取り、たまに友人と遊びに出かけても、毎月8000ルピー程度の貯金ができる。
また、僕はあくまで「インターン生」という扱いであり、会社からのお誘いを受けて正社員になるなら、おそらく新卒でも上記の給料+5000ルピーほどが基本給としてもらえることになるだろう。また、だいたいだけど毎年昇給が10000ルピーほどある。
つまり、僕がもしインドで働くなら、大学を卒業してすらいないのに、すでにインド人の平均よりも高い給料を将来にわたってもらえることが半ば約束されているのだ。そしてその給料の額は、インドの発展が続く限り上昇し続けるだろう。
なぜだろう?
僕は別に凄腕のプログラマーでもなければ、法律の専門家でもない。理学部の生物科学系という、世間的には何の役に立たない学部に所属している(しかもその勉強すら今まできちんとやったとは言い難い)。嫌な言い方だが、インドでは日本の大学の序列も関係ない。ただ、英語が少しばかりできて、僕にできることと言えば、それだけなのだ。
僕より英語が上手いインド人はたくさんいる。インドでは、基本的には大卒であれば英語は普通に話せると考えていい。同僚も、僕より英語が上手い。それでも、もらえる給料は僕とほとんど変わらない。だから、英語の能力が大きな要因になっているわけではない。
いったいなぜ、何のとりえもない僕に、会社は平均以上の待遇を用意してくれるのだろうか?
ここまで読んでくれた方は、もうお気付きかもしれない。
会社は、僕が「日本人である」というその一点に、お金を払ってくれているのだ。
日本語ネイティブであり、日本人の気持ちをよく理解できるという点を買って、僕に給料を払ってくれているのだ。
そしてそれは、僕が「とりあえず英語を理解できる」からに他ならない。
つまり、「日本人であること」。そして、「英語がまあまあできること」。この2つが組み合わさると、インドでとりあえずそこそこの暮らしができる程度には、生きていくことができる。
重要なのは、ここだ。
おそらくこの記事をここまで読んでいる人のほとんどは日本で生まれ日本で育った日本人だろうから、英語さえそこそこできるようになっておけば、明日会社が倒産したとしても、インドに来れば、死にはしない。(社会的地位を失った、とか、愛想を尽かされて離婚された、とかで、自殺してしまうというのは除く。)
僕は以前の記事で「英語以外に『伝えたい内容』がなければ、いくら英語ができてもまったく役に立たない」と書いた。
「日本人であること」は、その『伝えたい内容』に、十二分になりうる。
「家具は10日に届くって言ってたけど、別に11日でもいいよね?テヘ☆」なんて言ってくるインド人に、「てめえふざけんな、前送ったメールに10日って書いてたよな?自分の目で確認してみやがれ!」って添付ファイル付きのメールを送りつけるのは、日本人にしかできない。
「ボス、掃除終わったよ!こんなもんでいいだろ?」と得意満面の顔で知らせてくるインド人に、「てめえ、日本人が住むのにこんな適当な掃除でいいわけねーだろ!?やり直し!」と非情にも宣告するのは、日本人にしかできない。
「引っ越しの時に必要な警察署での登録手続きなんだけど、明日の昼1時に待ち合わせでいいよね?」と前日の夜に電話してくるインド人に、「顧客はおめーらみたいに暇じゃないんだよ!!!3日前に知らせろって言ったよね…?」とキレるのは、日本人にしかできない。
それが僕の「日本人としての」価値だ。そして、これは特に僕だけが持つ特性ではなく、日本人として生まれ育ってきた環境の中で自然と身に付いた「日本人としての」常識である。日本人ならほとんど誰でも納得できる符丁のようなものだ。
(一応書いておくと、僕自身は別に多少部屋が汚くても、スケジュールが突然変わっても、気にはしない。だけどこれは仕事なのだ。自分の「日本人」という価値を、存分に生かさなくてはいけない場なのだ。)
この記事を読んでいる誰もが、「日本人である」という価値を持っているのだ。
英語を話すことができれば、自身が持つその「日本人である」という価値を伝えられるようになる。
だから僕は、この記事の題に「英語さえできればいい」と書いた。
もう一つ、僕が見たありのままを書くと、日系企業は他の国から進出してきた企業に比べ、英語が弱い。英語が話せない方もいる。僕はフランスやイスラエルなど他の国の企業のムンバイ支社とのミーティングにも同席させてもらったことがあるけれど、英語ができないというのはそれらの国ではありえない。
僕はここで、「本当に日本の英語教育はダメだ」とか、「社内英語化も徹底できない日本企業はダメだ」とか、そういった批判を行いたいわけではない。
日本という国は、第二次世界大戦でこてんぱんに叩きのめされたところから奇跡的に復活する過程で、英語を必要としなかった。他の国から材料をもらって、自国内で一流の製品を作るのに、英語は要らない。国家的に英語がダメダメなのは、過去うまくいったしっぺ返しなのだ。
だからこそ、日本人でかつ英語ができることが、これほどまでに価値を持つのである。
たとえば僕がインド人だったとしよう。僕がアメリカに行き、インド企業のアメリカ法人向けのサービスを展開するとしよう。
アメリカ法人で働いているレベルのインド人は、おそらく英語を話せる。だから、インド人の僕のアドバンテージはそれほどなくて、英語ができる人間なら誰でも営業をかけることができるだろう。
実際、僕の働いている会社は、日本だけでなく世界各国の企業のインド法人をターゲットにしているが、それらのインド法人に営業をかけているのは、日系企業を除けば、僕の会社のインド人スタッフである。
日本人が英語を苦手としていること、その事実を、逆に自分にとってのメリットと考えるのである。
上記のことをまとめると、日本人であり英語がそこそこできるというのは、「日本人の気持ちを理解して、それをサービス提供者側に伝えることができる」ということにつながる。
これは、最初のうちこそ単なるカスタマーセンターみたいな仕事を任されるかもしれない。ちょうど僕が、日本人の顧客とのメールや電話でのやり取りを任されているように。
だけど、営業職の人が自分の売る商品やサービスを徹底的に知っていなければならないのと同じように、顧客とのコミュニケーション役であっても、働くうちに自社の製品やオペレーションについて知らざるを得なくなってくる。最終的には、何かしらの専門的なバックグラウンドを持つに至るだろう。
たとえば、現地の不動産仲介サービスについて、顧客から何か聞かれることがあったとする。「どの地域の家賃が安いか」「日本人が多く住んでいるアパートはあるか」「毎月家賃はどうやって支払えばいいのか」etc…。最初のうちは、上司や同僚に聞いて対応することになるだろうけど、次第にそういった知識が蓄積されて、誰かに聞かなくても自分で回答できるようになる。
あるいは、会社が利用している地場の不動産業者と仲良くなって、いろんな情報を教えてもらえるようになるかもしれない。あそこの家主はテナントの要望に敏感だ、あの地域が最近よく売れている・・・。
そういった「地域に密着した不動産の知識」「オペレーションの仕組み」「人的ネットワーク」が、仕事をするうちに身に付いてくる。極端に言えば、5年後10年後、不動産業界のノウハウを知って、独立して「日本人専門のブローカー」としてやっていくことも、不可能ではない。
最初は「自分が日本人であること」それだけを取りえに働いていたのが、次第に専門知識を身に付けていくことができる。「日本人であること」だけではなく、他の「武器」が身に付いていくのだ。
僕が今働いている企業でインターンをしようと決めたのは、別に将来不動産業界で働きたかったからではない。そもそも、大したスキルも持っていないうちから、自分が将来やりたいことを任せてもらえると考えるのは大間違いだ。インターン先企業を選ぶのに、そんな上から目線でいては、雇ってくれるところなどありはしない。まず、自分が今できる最善を尽くして、初めて希望する仕事が回ってくるのだ。
やれ中国人やインド人との戦いだ、やれ国産メーカーが大幅なリストラだ…。僕らの未来は、萎びて縮んでいく一方のように見える。天に向かって力強く伸びるインドのそれとは大きく違って。
ただそれは日本という国単位で見た話であって、干からびる草木や朽ちてゆく大木の周囲には、いくつもの青々とした蔓が顔をのぞかせている。
朽ち落ちるかつての大きな樹から脱しその蔓を掴めるかどうかは、あなた自身のこれからにかかっている。
英語さえできるようになっておけば、そして以前「鈍さを武器と捉えてみる」 で書いたような柔軟性さえ失わなければ、これから何が起ころうとも、日本人がいる限り、僕らは生き残っていけるはずだ。
会計士にも、プログラマーにも、法律家にも、クオンツ部隊にも、マーケッターにも、なる必要がない。
「日本人であること」は、日本にいてはなかなか気付けない、大変価値のある武器なのだということを、僕たちはもっと理解するべきだと思う。
余談だが、僕が書いていることは、渡邊正裕氏が「無国籍ジャングル」「重力の世界」「グローカル」「ジャパンプレミアム」と呼んだ4つの世界のうち、ちょうど「ジャパンプレミアム」にあたる部分である。(参照:10年後に食える仕事)
興味がある方は、以下の本を読んでみることを勧めます。
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