2010年、秋。京都。
僕らは朝っぱらから大きな浴槽を運んでいた。
宝ヶ池のコーナンで買った木材で組み立てた、手製の浴槽だ。
早朝の東大路通はガラガラだ。時折すれ違う人が、僕らを不審そうな目で見ているのがわかる。
反対側の端を抱えている友人が「重い…」とうめいている。浴槽は一辺が5メートルくらいの正方形をしている。東大路通は南に向かってやや下り坂になっているから、進行方向に向かって逆の北側を向く友人には辛いだろう。
白いテントの立ち並ぶ吉田南のグラウンドで、僕らはようやく浴槽を下ろした。
京都大学の学祭、November Festival(以下NF)が今日から始まろうとしていた。
もっとも、僕にとってのクライマックスは、すでに終わってしまっていたのだが。
2年前の秋。僕は、NFで「足湯でドクターフィッシュを楽しむ」という企画をやろうと思いついた。
ドクターフィッシュというのは、ご存知の通り、ヒトの表皮をつついて食べる魚である。食べると言っても歯が無いため安全であること、またある程度の高温までは耐えることから、国内・海外の温泉などでアトラクションとして楽しまれている。
僕がそのようなお店を出したいと思ったのは、単純に、「変なこと、おもしろいことがしたい」と思ったからだ。今から思うと、僕が本当におもしろいと感じることは「ユニークなお店を出すようなこと」とは少し違っていたし、「学祭という場で」やる必要性もなかった。まあ、自分のことがわかってなかったのだ。
昔から「人と違う生き方がしたい」と思っていたし、その考えは、京都大学という「変であることが良しとされる風潮のある」大学に入っていっそう強められたように思う。
僕は「変なことがしたい」と考え、学祭でアホなことをやろうと思いついたということだ。
さて、いざドクターフィッシュ出店のための準備を進めていると、運営側から、「衛生上の理由」でドクターフィッシュを扱うことはならぬというお達しが来た。
もともと模擬店の申請時に、ドクターフィッシュについてはOKをもらっていたはずだった。それを急に撤回された。おかしいじゃないかと、僕らは何度もルネで担当者と議論をした。他にも生き物を扱っているお店はあったし、何よりバイト先の居酒屋(和○)で夜通し働いて得たカネを投じて浴槽を作った後だったのだ。後には引けなかった。
しかし、決定は覆らなかった。
もちろん、「衛生的な問題」が生じないよう目を光らせるのは大切なことだと思う。だけど、議論ははじめから「ダメ」の一点張りで、僕らが企画を実現できるようなんとか考えようとする気持ちは感じられなかった。本当に、残念だと思った。
僕は、泣く泣く業態を「足湯たこ焼き」に変更した。浴槽を使うことにこだわる必要はもはやなかったのだが、せっかく作ったし、足湯でも十分おもしろいんじゃね?という安易な考えだった。
まず一つ目に言いたいこと。「おもしろいことを実現化するために最大限可能性を考えてみる」という姿勢を持つのが京大ではなかったか?ということ。
足湯たこ焼きを強行したところ、結果は最悪であった。
たこ焼きを除外した足湯だけの売り上げで見れば、もしかするとNF史上最悪の収益率だったかもしれない。
4日間で足湯に入った人数は、たった5人である。
このうち2人は無理やり入れた知人であり(サークルの先輩と同期だった)、残りの3人というのはお母さんと子ども2人の家族連れであった。
つまり、実質1組しか客を呼べなかった。
さて、1組しか客を呼べなかった足湯の風呂桶であるが、これは僕ら6人が、3万円ほどの費用と5時間程度の制作時間をかけ、かつ事前に飛鳥井町の公園でテストもした、かなりコストのかかった代物であった。
(ちなみにそのテストの時には子どもたちがたくさん遊びに来てくれて、これはもしかしたらいけるんじゃないかと、僕らにつかの間の夢を見せてくれた。子供をターゲットにする。その狙いが当たると、この時は思った。)
足湯は1回50円であった。すなわち、売り上げは250円であった。材料費・工作費が30000円だったとすれば、29750円の赤字であった。
コスト回収すら宇宙の彼方に霞むような赤字である。
たこ焼きのおかげで全体では利益にはなったのだが、アホとしか言いようのない結果であった。
僕の中で、大学生活で一番失敗したことと言えば、この学祭出店だったと思う。
失敗した理由は山のようにあると思うけど、なによりも、「変なことがしたい」だけでは何もできない、というのが一番大きいんじゃないかと思っている。精神論じゃん、と言われるかもしれないけど、要はモチベーションの部分で、僕の場合続かないのだ。
自分が絶対におもしろいと思えるようなものを売れば、当然客引きや看板にも力が入る。愛着が湧いて、もっともっと良いものを提供しようと、商品の改良点をいろいろ考える。それは、そのものの価値を信じていられるからだ。
足湯ではなくドクターフィッシュをやっていれば、成功していたかもしれない。だから運営側に「なんで許可を出してくれなかったんだ」と文句を言いたい・・・。実は、それも違う。
これは今だから言うが、おそらくドクターフィッシュをやってもいいと言われていたとしても、大失敗という結果自体は変わらなかったのではないかと思っている。もちろん足湯だけよりもドクターフィッシュがいた方がおもしろいけれど、どっちにしても僕が「絶対にこのサービスは売れるんだ」という思い入れを持てていなかった以上、うまくいかなかっただろう。
だから、失敗した理由は「変であること」自体を目指してしまったこと。言い換えれば、自分が心底「おもしろい」と思える商材あるいはサービスを見つけずに模擬店を出店してしまったのが敗因だ。
かくして、3年の時の僕の学祭出店は、大失敗にて幕を閉じた。
二つ目に言いたいことはこれだ。「変人であることを目指しても、何も成し遂げられない。」
さて、先ほど「京都大学では変であることが良しとされる」と書いた。
変というのは、どういうことなのか?それは、京大の歴代の学園祭のテーマを見てみればわかると思う。特に、ここ20年ほどのテーマに顕著である。
・我輩は京大生である 理性はもうない(1995年)
・狂うは一時の恥、狂わぬは一生の恥(1997年)
・溢れる才能の無駄使い(2006年)
・失った常識のかわりに(2009年)
(参照:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%AC%E9%83%BD%E5%A4%A7%E5%AD%A611%E6%9C%88%E7%A5%AD)
もちろん個人のレベルで見ればおのおの違った信条を持っているだろうけれども、京大では全体の雰囲気として、変であること、アホになることが大切である、とされているのだ。
京大生とおぼしき青年が主要な登場人物となる森見登美彦の小説「夜は短し歩けよ乙女」には「韋駄天コタツ」という謎の集団が出てくる。神出鬼没な一団で、構内のさまざまな場所に現われてはコタツで鍋をふるまう。これは明らかに京大に実在するとある組織がモデルになっていると思う(僕の想像が当たっていれば、の話だが…)。この小説を読んだ方なら、「変人であることが大切とされる雰囲気」というのはよくわかっていただけるのではないだろうか。
- 作者: 森見登美彦
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徹マンした翌日に講義を1日全部自主休講にした、一般教養の単位をすべて可で揃えた、飲み会で酔っぱらったあげく鴨川に飛び込んで死にかけた…。
いかに自分が堕落しているか、いかに自分が「普通の」大学生と違う生活を送っているか、そんなことが自慢になるような、そんな風潮がある。それが京大。
それを僕は、悪いことだとは思っていない。「お前もアホやなぁ」と突っ込み合うことができる。それは確かに楽しい。
しかし、常識から逸脱することそれ自体を目的にすると、逆説的に、それは常識に囚われており、そこから抜け出せていないということになる。
変人というのは本来、常識的⇔常識的でない、という一本の数直線の上に乗らないものなのだ。それはもしかするとxy軸をとった時に初めてプロットできる点かもしれないし、もしかすると実数しか表せない座標平面にはプロットできないものなのかもしれない。
講義に出席するのが常識的、出席しないのが常識的でないとするなら、本物の変人はなぜか講義を行う側に回っているかもしれないし、あるいは大学の学籍を取り消されて、そもそも出欠の選択ができない人間なのかもしれない。
この講義、出席点ありますか?そんな問いをしている限り、変人にはなれないということなのだ。
ちなみに、今年の学祭のテーマは「NFって、出席点ありますか?」である。
このテーマの意図するところについては、京都大学EXPRESSのこちらの記事「11月祭統一テーマ決定」を読んでいただければいいと思う。
「NFは、義務感だけで参加するものではない。自分で手に入れたいものを求めてくるべきものである。そしてこの11月祭が、豊かな中身をもったおまつりになることを祈っている。」
この意見には、僕も諸手を挙げて賛成である。
ただ、考えてみてほしいことがある。
この記事の最初の数段落で僕は次の二つのことを書いた。
「おもしろいことを実現化するために最大限可能性を考えてみる」という姿勢を持つのが京大ではなかったか?
「変人であることを目指しても、何も成し遂げられない。」
つまり、
「豊かな中身をもったおまつり」にするための覚悟はあるか?
「豊かな中身」は、単に変なことをするのではなく、各個人が本当にやりたいことをやった結果実現されるものであるということを、学生は理解しているか?
その二点を抑えていなければ、本当にハリボテのテーマになってしまうのだ。
2年前。学祭も、それから僕自身も、形だけ「変人であること」を崇めていたように思う。それは同時に、京大全体に感じることでもある。
アホなことを許容できないなら、統一テーマでそういったことを掲げるのなんてやめちまえ。本当にユニークな学祭を作りたいなら、新しいことがしたいと言っている学生をけんもほろろで追い返すのではなく、実現可能な方法を一緒に考えるべきではないか。
それから。僕は、変人であること、それ自体を至上命題にして、結局何もできなかった。一風変わった店を出して大ヒットを飛ばすことができなかった。せいぜいブログで過去の自分の愚かさを告白するくらいしかできない。「変人でありたい」その気持ちだけでは、何者にもなれやしないのだ。
「人と違うことがしたい」という気持ちは、決して悪いものではないと思うけれども、「人と違う」のが目的になってしまってはいけないのだ。それは、あくまで「したいこと」の結果として、あるべきなのだ。
であるならば。
変人なんて、やめちまえ。
「変人であることは素晴らしい」という、よくわからないアイデンティティを捨てちまえ。
「普通の」「変な」という抽象的な言葉を捨てて、今自分が立っているその場所から歩き出そう。
変人なんて、やめちまえ。
そう、過去の自分に言ってやりたいのである。