Rail or Fly

レールに乗るのか、飛び降りるのか、迷っているきみに届けたい。

'何者' / 朝井リョウ - 誰かを肩書きや見かけで判断してあざ笑っても、何者にもなれやしないんだ。

あなたは、「何者」かになりたいと思っている人たちを、バカにしたことはないだろうか?

 

SNSのプロフィールに尊敬する起業家や冒険家といった人たちの名前をスラッシュを交えて並べ立て、「クリエイティブ」やら「ノマド」やら中身のない横文字を大量に含んだポストを連発し、所属している団体や趣味や海外経験についてこれでもかと書き連ねる。

 

そんな人たちを、「意識高い系」と蔑んだ目で眺めていないだろうか?

 

そうやって斜に構えることで「何者」かになった気分に浸るのは、さぞかし気持ちのいいことだと思う。

 

だが、そうやって観察者であり続けても、所詮あなたも彼らと同じく「何者」でもない。

 

誰かの薄っぺらい言葉で自分を飾り立てたり、そんな空虚な人たちに安全地帯から石を投げたりすることをやめ、泥臭くカッコ悪い自分をさらけ出すしかない。さらけ出して、自分自身になることしかできないのだ―。

 

何者

何者

 

 

 

 

これだけ強烈な小説に出会えたのは久しぶりだった。

 

僕自身が主人公と同じく、世の中を観察して分析するのが好きな人間だということもあり、ラスト近くに主人公が友人の女の子から浴びせられる批判が、痛いほど胸に突き刺さった。

 

でも、誰にでもあるんじゃないだろうか?肩書きや見かけで人をこんなヤツだと判断して、実際に話してみることもなく、その人の悪口を言ったことが。

 

世の中には、そんな時のために便利な言葉がたくさん用意されている。「意識高い系」「社畜」「オタク」「リア充」…。完全にテンプレにはまった「意識高い系人間」なんてどこにもいやしないのに、僕たちはさも、彼/彼女をそういった「意識高い系人間」であると断罪し、会話の中で取り扱う。

 

そんなことをやっていてもどこにも行けない。自分のコンプレックスやダメなところを認めて、何者かになるのを諦めて、ようやく人は自分自身になれるのだ―。

 

就活生のみならず、今なんとなく「自分はこんなはずではなかったのに」と感じているすべての人に読んでほしい作品である。

 

 

 

さて、その人自身ではなくその人に付属する情報でその人を判断してしまうのは、僕たちがこれまでよりも遥かに多くの人と知り合いになり、インターネット上でつながれるようになってしまった時代の弊害だ。

 

「影響力の武器」には、以下のような記載がある。

 

私たちは、とてつもなく複雑な環境のなかに住んでいます。(中略)これに対処するには、簡便法を用いることが必要なのです。 たった一日の間に私たちが出会う人や出来事や状況でも、これらすべての特徴を理解し、分析することは容易なことではありません。そうする時間も、エネルギーも、そして能力も私たちにはありません。そこで、ステレオタイプや経験則を使って、まず鍵となるいくつかの特徴によって物事を分類します。

(「影響力の武器」、p. 13)

 

僕たちは、あまりに「会ったことのない知り合い」の数が多い複雑な人間関係を抱えているために、企業名や学歴、趣味、所属している団体、これまでの経験などを「ステレオタイプや経験則」に当てはめ、その人の人となりを判断してしまうのだ。

 

だが、ステレオタイプによる人となりの判断は非常に危険である。

 

僕はインターネットを通じて知り合った友人が少なくとも数十人はいるが、事前に得られた情報から想像した人物像と、実際に会って話した時の感じはかなり異なることが多い。そしてその度に、「どんな人かを想像するより、まず会って話さないとダメだ」と痛感するのである。

 

「意識高い系」や「社畜」という言葉も、おそらく「インターネット上に見えているけど実際に話したことはない人たち」が無数にいる現代だからこそ、出現してきた言葉なのではないだろうか。

 

今日紹介した「何者」には、Twitterのツイートがたくさん引用されている。それは、インターネットでしか知らない人を僕たちは人間関係の中にたくさん抱えているということを象徴しているのではないだろうか?

 

そしてできうる限り、「話したことのない知り合い」の数を減らし、「話したことのある知り合い」の数を増やしていくべきだと思う。

 

SNSのフレンド数やフォロワー数に、ちょっと誇らしげな気持ちを感じる前に。