「きみにしかできないこと」ってのは、
「誰もやっていないこと」じゃない。
「きみが自分自身を救うためにやるべきこと」だ。
この世から貧困をなくしたいと思って、東南アジアのボランティアに参加するとしよう。
冷笑的な人たちは、きみのことをバカにするだろう。
そんな奴らは、ほっておけばいい。
やってみなきゃわかんないことは、この世界に、確実に存在するから。
大事なことは、
「貧困をなくしたい」というのがきみの根本にある欲求ではない、
ということだ。
きみがそれをやってみようと思う理由は、
「この世界に貧困が存在する、貧しく苦しんでいる人がいる」ということに、
どうしようもなく感じてしまう、心のなかの違和感を解消したいから、
であるはずだ。
それは微妙な、しかし決定的な違いである。
その違いに気付いているかどうかが、
その人が薄っぺらい人間かどうかを決める。
つまり、自分のためにやるわけだ。
たとえそれが、他人のための活動であってもだ。
「利己的な遺伝子」という、生物学の考え方がある。
これは、一見他の個体のために思えるような行動も、
実は自分の遺伝子のコピーをより多く残すための行動なのだ、
という考え方である。
たとえば、親が子を時に命がけで助けるのは、
計算上、親の遺伝子の半分を子が受け継いでいるから、と説明される。
つまり、自分の遺伝子のコピーを救うためにやっているわけだ。
他の人から見ると「誰かのため」になっていることでも、
自分からしたら「自分のため」にやっていること、という点で、
僕が書いていることは、「利己的な遺伝子」と通じるものがある。
(貧困を解消するボランティアやその他すべての人間活動が、「利己的な遺伝子」によって支配されている、ということを言いたいわけではない。あくまで比喩として、捉えてほしい。)
誰もが、オンリーワン強迫症にかかってる。
僕だって、「自分だけの生き方」なんてものからどうにか逃れたくて、
こんな文章を投げつけて、追い払おうとしているんだ。
そんな世の中だからこそ、言おう。
きみを救えるのは、きみだけだ。
それこそが、「きみにしかできないこと」なんだ。
ファインマンにも、トム・ヨークにも、ザッカーバーグにも、誰にも。
きみを救うことはできない。
きみの心のなかの違和感を消し去って、その気持ちよさを感じられるのは、きみだけだ。
「きみにしかできないこと」って、そういうことだ。
きみの人生をめいっぱいつかって、
きみ自身を救うために、
がむしゃらに、もがき続けよう。
その懸命な生きざまを見て、必ず誰か、きみに心惹かれてくれる人がいる。
きみは、凡人だ。
だからこそ、他の人と相通じる部分があるんだ。
「きみにしかできないこと」を、「誰もやっていないこと」だと思っているあいだは、
「自分が凡人であること」は、耐えがたい事実かもしれない。
それを逆手に取ってやるんだ。
きみは特別じゃないんだ。
だからこそ、きみの心のなかの違和感を、同じように感じてくれる人も、きっといる。
そうやって、仲間を集めたら、
みんなでみんなの心を救えるように、なるはずだ。
いつかどこかできみと会えたら、その時には。
聴かせてくれ。
きみにしかできないことを。