Rail or Fly

レールに乗るのか、飛び降りるのか、迷っているきみに届けたい。

「嫌われるのが怖い」人でも自分の仲間ができる、そんなSNSをつくりたい。

昨日は、SNSによって浮き彫りにされる「嫌われたくない」という気持ちとどう付き合うか、ということについて書いた。

 

結論は、「SNSは仲間をもたらしてくれる」という感覚を持つことだ、というものだった。

 

今日は、「嫌われるのが怖い」凡人でも自分の仲間をつくれるような、そんなSNSを開発したい、ということについて書く。

 

 

 

まず、僕がどうしてこのようなSNSを開発したいと思うようになったかを書こう。

 

僕は大学に入ってから、ずっと「自分は一人ぼっちだ」という感覚を抱いていた。

 

将来何がしたいのか、自分はどんな人間なのか…。そういったことが皆目わからなかった。

 

一方で、大学や大学外で出会った友人はみな、そんな悩みなど抱えていないかのように僕には映った。

 

サークルやバイトやインターンシップや…。自分が手を出せることには何にでも手を出し、さまざまな人と出会って話をした。

 

それでも、「自分は一人ぼっちだ」という感覚は、ちっとも消えなかった。

 

だから僕はブログを書き始めた。「お前は一人ぼっちじゃない」と、自分で自分を慰めるために。

 

 

 

ブログを通して、僕は多くの人たちと出会うことができた。

 

進路や人生についての似たような悩みを抱え、さらには身近にそういったことが話せる友人がいないことについても悩んでいる人たちが、想像以上にたくさんいた。

 

自分のために書き始めたブログは、いつしか「自分の向こう側にいる、自分と似た多くの人たち」に向けたものになっていった。

 

最近は、リアルの友人たちにも積極的にブログの更新を告知するようになった。それは、できるだけ広く知らしめなければ、このブログを知られることなく終わってしまう人たちがいるはずだと信じているからだ。

 

そうして、嫌われることを覚悟で多くの人たちに自分のブログのことを発信し続けていると、思わぬ収穫があった。

 

それは、僕が読者として想定していなかったリアルの友人たちが、僕のブログを読んであれこれ批評してくれるようになったことだ。それも、厳しくも温かい言葉で。

 

そして僕は確信したのだ。

 

自分自身とはどういう人間で、どんな人生を送りたいのかを発信し続けていれば、多くの人が自分の味方になってくれるのだと。

 

勝手に「この人は自分の仲間にはなってくれない」などと発信もしないうちから諦めていると、その人と一緒に何かやれる千載一遇のチャンスをみすみす逃してしまうことになってしまうのだと。

 

 

 

君は、一人ぼっちじゃない。

 

君の悩みや葛藤を、自分を大きく見せようなどと思わず率直に吐き出せば、周りの人たちは必ず味方になってくれる。

 

一人ぼっちだなんて、自分で勝手に決め付けちゃいけないんだ。

 

 

 

僕がSNSをつくりたいと思ったのは、こうした理由からなのだ。

 

かつての僕のように、自分は一人ぼっちだと思い込んで、どこにも自分と話のできる人はいないと諦めてしまっている人が、仲間をつくれるツールがあったらいいなと思ったからなのだ。

 

言い切ってしまうが、これは凡人のためのツールだ。

 

周りから「良い大学に行って、志望した企業に入れて、理系なのに文章も書けて語学もできるお前が凡人なはずはない」などと言われることもあるけれども、僕は「世界をこう変えたいんだ」と目をキラキラさせて語れるものなど何も持たない、ただの一般人である。

 

貧困問題の解決でも、アップルのような画期的な商品開発でもなんでもいいが、尖っている人、凡人ではない人というのは、それだけで仲間を集める磁力を持っている。

 

僕は、そういう人たちのようには、一生かかってもなれない。

 

だから、葛藤する。自分が信じ切って語れるものなど何もないから、「嫌われてもこれをやるんだ」と言い切れるものなど何もないから、自分自身をSNSでさらけ出すことにずっと悩み続ける。

 

そんな人たちが、それでも自分の考えていることを発信して、仲間になってくれそうな人たちだけが残ってくれるようなツールがあれば、それぞれの人の人生は素晴らしいものになる。

 

今、僕が味わっているようにだ。

 

 

 

具体的には、かつてのmixiのような形を想定している。

 

つまり、文章メインのコンテンツを、各ユーザーが好き勝手に生み出すSNS(CGM:Consumer Generated Media)である。

 

なぜmixiか。それは、普段僕が文章を書いていく中で、「mixiはすごい」と改めて感じるためだ。

 

推敲も何もしていない書きなぐりの文章を、たくさんの友人が読んでくれる。

 

ブログを書いてTwitterとFACEBOOKで告知しても、実際に読んでくれる人はフレンド数に対して非常に少ない。

 

しかし、かつてmixiが全盛だった頃を思い出すと、日記を書いた時に足あとを付けてくれる友人の割合は、全フレンド数に対して非常に高かった。

 

その「リアルな友人が読んでくれる率の高さ」が、mixiのすごさである。

 

 

 

しかし、それだけではmixiのただのコピーである。

 

僕が考えているSNSには、mixiやその他のSNSには決してない機能を実装する。

 

それは、「仲間になりそうもない人は、勝手にフレンドから外れていく」という機能だ。

 

昨日の記事で明らかにしたように、昨今のSNSでは、ユーザーは否が応にも「嫌われたくない」という自分の気持ちと向き合わねばならなくなる。

 

僕がそうだったように、凡人が「嫌われたくない」という気持ちと戦って、それでもなんとか発信を続け、仲間になってくれる人が出てくる段階まで行くのには、途方も無い時間と莫大な労力がかかる。

 

FACEBOOKやTwitterでブログの告知をするのがためらわれるのは、今の自分とほとんど交流のない人や、読んでくれそうにない人に対しても、自分のコンテンツを押し付けているように思ってしまうからだ。まさにプッシュ型広告の形で。

 

ではと思って勝手にフレンドを外すと、「何で外したの?」ということでトラブルになる可能性もあるし、何より上で書いた「仲間になってくれる可能性」をみすみす逃してしまう。

 

リアルの人間関係でこのような軋轢があまり生じないのは、気の合わない人とは「フェードアウト」したり「自然消滅」的な形で関係が途絶えたりするからだ。

 

このSNSには、そういったリアルの人間関係から得たヒントを反映させる。

 

はじめから「何度かコンテンツの告知を目の前に出現させて、仲間になりそうになければフレンドから外します」という仕様にする。

 

リアルの人間関係の絶妙さと、インターネットという人の内面が見えるツールの良い部分を、組み合わせるのだ。

 

 

 

どうやって「仲間になりそうかどうか」を判定するかだが、これには、僕がずっと考え続けている「共感の深さ」の指標を用いる。

 

と言っても「共感の深さ」を測定するのは非常に難しい。ページ滞在時間が代表的な指標となるだろう。また、「ページスクロールの頻度」が一定かつそんなに早くなければ、しっかりと文章を読んでくれている指標になるか…と思ったのだけど、スクローリングという行為はサーバーに入力されないらしいのでどうやら難しそうだ。

 

ウェアラブルデバイスが出てくれば、人の視線を読み取って「コンテンツへの共感度」を直接測れるようになるだろう。

 

とにかく、このあたりはまだ考え中である。

 

 

 

「嫌われるのが怖い」凡人が、自分の仲間をつくれるSNS。

 

今はまだ妄想に過ぎないが、もっともっと仲間を集めて、このSNSをつくりたい。

 

そして、昔の僕を助けたい。

 

尖ったものなど何も持たない普通の人間が、それでも納得のいく素晴らしい人生を送るために、こんなSNSがあったらいいなと思っている。

SNS全盛の時代における、「嫌われたくない」感情との付き合い方。

「嫌われたくない」気持ちをどうするか、というのは、現代人の抱える大きなテーマの一つだ。

 

もちろん、人間の本質として「嫌われたくない」という感情は昔から存在していた。

 

しかし、馬が合わない人は物理的に遠ざけておけばよかった昔と違い、今はインターネット空間を空気のように満たすSNSというメディアによって、自分と他者は常に近い場所に置かれることになってしまう。それこそ、光が空間を一瞬にして伝播するように、誰かの息づかいはSNSというメディアを通して瞬く間に僕まで到達する。

 

「あいつ本当にうっとおしいな」という友人のつぶやきに自分のことではないかと不安になり、自分の投稿にいいね!がつかないと何か変なことを書いたのではないかと不安になる。

 

 

 

SNSは、人間の「嫌われたくない」という感情を浮き彫りにする。

 

「そんなに人のことを気にさせるSNSは害悪だ」という指摘もある。

 

しかし、SNSには大きなメリットもある。自分のことをいろいろな人に知ってもらえ、また、いろいろな人のことを自分が知れるというメリットだ。

 

僕はこれまで、TwitterやFACEBOOKを通じて様々な人と出会ってきた。そのうちの幾人かとは、同じ方向を見て一緒に何かをつくっていけそうだなと思っている。

 

つまり、SNSは僕に仲間をもたらしてくれるのだ。

 

そのメリットを無視して、やれFACEBOOK疲れだの、LINE疲れだのと、あたかも「SNS病」のようなものをつくりあげ、SNSを排除してしまうのはもったいない。

 

SNSによって否応なしに自覚させられてしまう「嫌われたくない」という感情と、SNS全盛のこの時代にどう付き合っていけばよいのか?この記事ではそれについて考えてみたい。

 

 

 

SNSと接触することによって生じる「嫌われたくない」という気持ちに対して、僕たちが取れる方法は3つだ。

 

1つ目は、SNSをやめること。

 

2つ目は、嫌われないようなコンテンツを投稿すること。

 

そして3つ目は、嫌われてもいいやと思えるようになること。

 

 

 

1つ目はシンプルである。そして、根本的な解決策でもある。

 

しかし、「仲間をもたらしてくれる」というSNSの威力を強く感じてしまった今の僕は、SNSをやめるということはできそうにない。

 

 

 

2つ目は対症療法に過ぎない。

 

そもそも、「誰にも嫌われないコンテンツ」というのはつくることが難しい。フレンド数が少ない時は大丈夫かもしれないが、それが増える度に、最大公約数を抽出することは加速度的に難しくなる。

 

 

 

僕が、みんながこうなれたらいいと思うのは、3つ目だ。

 

だが、「嫌われてもいいや」という悟りにも似た気持ちは、そう簡単に持てるものではない。

 

僕の経験上、先ほど書いた「仲間をもたらしてくれる」というメリットが「嫌われる」というデメリットを上回った時に、人は「嫌われてもいいや」と思えるようになる。

 

したがって、冒頭に書いた「嫌われたくないという感情とどう付き合うか」という問いに対しては、「仲間をもたらしてくれるなら、嫌われてもいいや」と思えるようになる、と答えることになる。

 

 

 

しかし、仲間をもたらしてくれると信じられるようになるまで、インターネットで発信を続けるということは極めて難しい。

 

僕はこの2年間SNSとブログを絡めてずっと自分の思ったことを発信し続けてきたが、本当にSNSが仲間をもたらしてくれると信じられるようになったのは、つい最近の話だ。

 

そこで次回の記事では、様々な人が「嫌われてもいいや」と思えるようになるのを手助けするSNSについて考えてみたい。

 

僕の知る限り、「人に嫌われてもいいや」と思えるようになることをプラットフォーム側からサポートしているSNSは、まだ存在していないから。

クソマジメな人の戦い方について。

 僕はよく人から「マジメだなぁ」と言われる。

 

その意味するところは、自分でもよくわかっている。

 

どんな物事に対しても、一生懸命仮説を立て、分析し、理由付けしてしまう。

 

あまり手を抜いたりサボったりできず、自分のせいでチームが失敗したりすると非常に落ち込む。

 

人に対しては決して自分勝手に振る舞わず、ややもすると相手ばかり立てて、自分は気疲れしてしまう。

 

アドリブに弱く、会話の流れの中で気のきいたことを言ったり、突発的な事故に素早く反応するのが苦手だ。「これを言っても絶対につまらないだろう」といった想像を咄嗟にしてしまうため、会話に微妙な間ができてしまい、結果としてテンポが狂う。

 

飲み会の出し物を考える時も、どうしても枠にとらわれた発想しかできない。

 

そもそも、こんな文章を書いているのが、マジメである何よりの証拠なのだが…。

 

 

 

僕は昔から、「マジメだなぁ」と言われるのが嫌だった。

 

それは、大阪という場所で生まれ育ったこともあったと思う。よしもとは普通に好きだったのだけど。

 

特に、高校の頃は辛かった。

 

今となっては自分が自意識過剰なだけだったのだろうが、当時の僕は、教室で交わすあらゆる会話に、相手を笑わせる何らかのネタを仕込んでおかなければならないという強迫観念を感じていた。

 

そして、僕はどうしてもそういった会話がうまくできなかった。

 

部活がなければ、僕は学校に行っていなかったかもしれない。それくらい、高校生の頃の僕にとって、自分が「マジメ」であることは消し去りたい己の属性だった。

 

 

 

日本語において、「マジメだ」という言葉は決して褒め言葉ではない。

 

それは、「正直だ」という言葉に似ている。

 

正直の上にバカをつけたバカ正直というけなし言葉があるように、クソマジメという言葉がある。

 

おもしろいことの一つも言えず、愚かしいほどにマジメに、目の前のことに向き合ってしまう。それが、クソマジメ。

 

僕も本当は、サークルの飲み会でバカ騒ぎして記憶喪失して帰ったりしたかった。バカ騒ぎするために、下ネタを無理やり言って周りに合わせるしかなかった。

 

飲み会なんて、各自が楽しくやればいいのに、そこで気を遣って周りを盛り上げようとしてしまう自分が、本当に嫌だった。

 

 

 

同じような人は、きっといると思う。

 

「マジメだなぁ」と、半ばからかい口調で言われ、なんとかして「マジメでない」人間になろうと苦労している人が。

 

でも、薄々気付いていると思うけど、僕たちは絶対に真のおちゃらけ人間にはなれない。

 

じゃあどうするか。

 

 

 

僕は、マジメでいいと思うのだ。それこそ、頭にクソのついたクソマジメでいい。

 

苦手なところを埋めようとしたって、せいぜい平均点が関の山だ。そうではなく、自分の偏ったところをさらに突き詰めていくのだ。

 

人を笑わせることが得意でないなら、別の得意な対人コミュニケーションのやり方を編み出せばいい。

 

人のことを気にしすぎてしまうマジメな人は、1対1のコミュニケーションで相手のことを理解する力が優れているはずだ。相手の話を聴いて、そこに自分の個人的な経験を絡め、さらに相手の深いところの体験を聴きだしていく。それで深いところまで仲良くなれる人が、必ずいる。

 

アドリブが得意でないなら、事前の調査を徹底的にやる。就活の面接でどうしても硬くなってしまってトークの上手い人間に負けてしまうなら、自分はどんな人間で、その会社がどんな会社なのかを面接の前に考えて考えて考え尽くす。それで、絶対に通る。

 

広告代理店なんて「らしくない」と、僕は昔からの友人に言われたことがある。昔だったら、「そんなことないよ。俺だって騒ぐの好きなんだぜ!」的な返しをしていただろう(そしてそもそも選考に通っていないだろう)。でも僕は、「そうだね」と素直に言った。

 

それが、人から見た自分の見え方だから。それでいいじゃん、と。

 

 

 

どんなに頭が柔らかくてトークが上手いヤツが相手でも、僕は僕なりに勝負する。

 

彼らと一緒に何かやるなら、自分のできること、得意な部分を担当する。いくらつまらないと言われようと、論理を詰めたり、分析したりするのは、クリエイティブな部分に負けず劣らず重要だ。

 

かっこつけてるわけでもなんでもなく、既にこの性格が与えられてしまったのだから、それでやるしかないのだ。

 

クソマジメには、クソマジメなりの戦い方がある。

 

自分がクソマジメであることを認めてしまえ。そして、戦うんだ。

働きはじめて改めて感じた、海外インターンに行くべき理由。

入社して2カ月。

 

真っ暗闇の中を手さぐりで歩いていることには変わりないが、少しだけ暗さに目が慣れてきた。そんな感じだろうか。

 

その中で、インドの地獄のようなインターンで学んだことが、いかに僕の日々の業務への向き合い方に役立っているかを痛感したので、今日はそのことを書こうと思う。

 

 

 

海外インターンに行くべき理由は、英語が身につくからでも、裁量の大きい仕事を任せてもらえるからでもない。

 

それは、「いかにクライアントの期待の度合いを適正なレベルに持って行くか」を、本当に死ぬ気で考えるようになるからだ。

 

これは、クライアントの存在するあらゆるビジネスにおいて、必要不可欠となる姿勢である。

 

 

 

なぜ、海外インターンにおいて「期待度を適正にする」姿勢が身につくのかということを説明しよう。

 

海外の企業が、突出したスキルなど何も持たない日本人の学生を海外インターンとして雇う理由は、一つしかない。

 

日本語が話せて、英語が少しわかるからだ。

 

日本人の学生は、日本語のネイティブスピーカーであることを買われて、インターンとして雇われる。

 

多くの場合、同じ日本人である駐在員に対する営業マンとしての仕事を、インターンで任されることになるだろう。

 

ここで、インターン生は日本人クライアントから高い期待を寄せられる。

 

駐在員の方は現地でいろいろと苦労をしている。「同じ日本人だから、日本人の求めるサービスのレベルはわかっているよね」と考えるのは、きわめて日本人的な「普通の」思考だろう。

 

しかし、日本と外国とでは、あらゆる意味で常識がまったく違う。多くの場合、日本のサービス業の「常識」はレベルが高すぎる。

 

かくして、海外インターンにおいては、日本人の学生が「クライアントの期待と現実のギャップ」に苦しむという構図が、きわめて普遍的に見られるのだ。

 

 

 

具体的に説明しよう。

 

僕がインドで働いていたのは、日系企業の駐在員をターゲットにした何でも屋的な会社だった。アパートの紹介やビザの手続き代行、レンタカーの手配、観光ガイド…それこそなんでもありだった。

 

僕はその中でも、アパートの紹介の仕事をたくさん受け持っていた。

 

駐在員の方が住むような高級アパートを紹介し、家主と交渉して契約を結び、家具や家電を手配して住めるような状態まで持って行く…というのが、僕の仕事だった。

 

大学生ではあったけれども、僕はクライアントからかなり期待していただいていたと思う。

 

その理由としては、「日本人が働いているインドの不動産屋」が珍しく、「日本人がいるなら信頼できる」と思っていただけたことや、多くの駐在員の方より僕の方が英語ができたこと(なにしろあの恐ろしいインド英語に24時間晒されているのだから)、スラムに住みオートリキシャを乗り回しているうちにローカルの情報通になっていたことなどが挙げられるだろう。

 

「はじめくん、この前不動産を紹介してもらった会社はひどかったけど、今回は君の会社だし、期待しているよ!」

 

そんな言葉を、何度かけていただいたかしれない。

 

最初の頃、僕は期待してもらっていることがとても嬉しく、「ご期待に添えるようがんばります」などと明るく返していたものだった。

 

数ヵ月後に地獄を見ることなど、知りもせずに。 

 

 

 

不動産仲介における地獄は、契約書を締結したところからはじまる。

 

物件を紹介し、契約を結ぶところまでは、なんてことはない。不動産屋(僕)が大家さんに電話して、クライアントを物件まで案内して、気に入れば大家さんにこちらの条件を伝えて、合意に至れば契約書を書く。日本の場合と、なんら変わらない。

 

しかし、契約を結び、内部の清掃や家具・家電の手配の段階になると、「日本ではありえない」レベルのミスが頻発する。

 

僕の経験上、搬入予定日に家具が揃ったことは一度もなかった。遅れるという電話すらしてこない。「なんでベッドが届いてないんだ!」と電話口で激怒すると、「ボス(彼らはよく「ボス」という言葉を使う)、そのベッドは人気があって在庫を切らしているんだ。代わりの奴じゃダメかい?」などと臆面も無く言う。

 

あるいは、「掃除が終わったぞ」と言うからクライアントを部屋に通してみれば、ハトのフンだらけ、埃だらけの部屋にクライアントは言葉も出ない、といったことは枚挙にいとまがない。

 

「本気で仕事してるの?こっちは学生とは違ってちゃんと仕事してるんだよ」

 

「まだベッドが届かなくて引っ越しできないって、今日ホテルの予約切れちゃうんだけど、延長したらホテル代払ってくれるの?」

 

「今日僕がここで無駄にした時間が、どれだけ会社の損失になっているか知ってる?君、責任取れる?」

 

そんな言葉をぶつけられたことは、数知れない。

 

クソ、俺だって死ぬ気でやってるんだ、そんなに言うならそっちがやってみろ―。そんな言葉を飲み込み、「本当に申し訳ありません」と頭を下げるのが、精一杯だった。

 

 

 

僕には何もできなかった。家具や家電の配達人や、部屋の清掃人は、インドでいう低カーストの人たちだ。英語はほとんどわからないし、場合によってはヒンディー語もできない。

 

彼らの「インド流常識」を覆せるほどの力は、僕にはなかった。

 

だからせめて、「クライアントに期待させすぎない」ことだけを心がけた。

 

インド人の上司がいかにもインド的なスマイルでクライアントに「大丈夫!何も問題なく引っ越しできますよ」と言っても、後から「家具が来なくて引っ越しが遅れることはよくありますから、なにとぞご理解ください」と伝えたり、新築のアパートだからと喜んでいるクライアントに「インドでは、新築のアパートで水漏れすることはよくあります」と伝えたり。

 

1つの案件で「日本の常識ではありえないミス」が生じるたびに、クライアントに怒鳴られながらそのミスを心に焼き付け、次は絶対に先回りして「こういうミスがありえます」と伝えよう―。

 

僕はその一心でインターンをやり遂げ、最後の最後ではじめて、毎回案件の終わりに実施するクライアントのフィードバックで最高の評価をいただいたのだ。

 

 

 

広告代理店でも、「クライアントの期待度」が高すぎて失敗をする、ということはよくある。

 

「これだけ視聴率を取れると言っていたのに、取れないじゃないか」僕がいるテレビの部署では、そんな言葉をよく耳にする。

 

およそクライアントのいるビジネスにおいて(つまりすべてのビジネスにおいて)、「期待の度合いを適正に保つ」ことは、必要不可欠なことだ。

 

もちろん、クライアントの望む以上の結果を出すことは、ビジネスにおいて常に求められていることではある。

 

しかし、過剰な期待を抱かせて幻滅されてしまうというのは、避けるべき最悪のシナリオだ。

 

クライアントの期待度を適切にコントロールするという感覚は、普通の学生生活ではなかなか身に付かない。なぜなら、アルバイトなどではそもそもそこまで期待されないからだ。

 

海外という特殊な環境で否応なしに生じる、「同じ日本人だからやってくれるよね?」という高い期待と現実とのギャップ。

 

その狭間で死にそうになりながらインターンをやりきった経験は、絶対に、必ず、あなたの今後の人生に生きてくるはずである。

タブーだらけの社会人のブログに、存在価値はあるのか。

Facebookで更新告知をし、リアルとかなり近い形で運営しているこのブログには、書けないことが山のようにある。

 

仕事のことや僕の具体的な人間関係のことについては、基本的には今後も書かれることはないだろう。

 

果たして、自由にものを書くことのできないブログに、存在価値はあるのだろうか?

 

僕は「ある」と考える。

 

理由は3つあって、1つは、そのような制約の中でも表現できるメッセージは何で、どのように表現すれば問題ないかを考える練習になるから。1つは、リアルと近付けて形成されたインターネット上の人格は大きな信頼感を得るから。そしてもう1つは、制約の中でもがきながら発信する姿こそが、人間の本質ではないかと思うからだ。

 

 

 

まず1つ目についてだが、これは、少し前にバズっていた下の記事において、“与えられた枠の中で最適なアウトプットを生み出す工夫を凝らすことは、プロの仕事の面白さであり醍醐味”と述べられていることに近い。

 

全てのクリエイターには「中田ヤスタカにとってのCAPSULE」が必要である

 

(この記事では、個人ブログは「自由な表現の場」として挙げられている。しかし、完全にリアルと断絶させて書いているようなものを除けば、多くの人にとって、個人ブログは「自由な表現の場」ではないだろう。)

 

また、テレビCMをはじめとする広告には、「使って良い表現」と「使ってはいけない表現」というものが存在する。特に顕著なのが医療系の広告で、「治る」とか「効果がある」という文言に関しては、非常にシビアな判断が下される。

 

リアルと接続されたブログも、これに似ている。

 

制約の中で、自分には何が発信できるのかを考えることは、必ず僕の仕事(まさに上で触れた広告業)において意味を持つだろう。

 

 

 

次に、リアルに極力近づけた文章を書くことで、インターネットにおける信頼度が向上し、「この人とリアルでお話ししても大丈夫そうだ」と思ってもらえる確率が飛躍的に向上する。

 

実際、僕がこれまでブログで出会ってきた方というのは、積極的にインターネットで(多くの場合異性との)出会いを求める「出会い厨」と呼ばれる種類の人たちではまったくなく、ごく普通の方ばかりだった。

 

その証拠に、「これまでインターネットでブログを書いている人にメッセージを送ったことなんてなかったし、実際に会ってみたこともなかったです」と言われることは非常に多い。

 

おそらく、僕が「広告業界」の人間であるとか、「新卒1年目」であることとかをほのめかしていなければ、このような方々との出会いは実現しなかったのではないかと思う。これが、リアルに極力近付けてブログを書くメリットである。

 

「HUNTER X HUNTER」の念能力は「制約と誓約」によって威力を増すが、それにならって上2つの理由をまとめれば、「制約の中でリアルの事情に配慮しつつ書く」という行為は、自分自身の「制約の中での表現力」や「インターネット上の信頼度」を向上させてくれる、といったところだ。

 

 

 

さて、最後の理由「もがきながら発信する姿こそが人間の本質だから」について。

 

多くの啓発的な書籍やインターネット記事においては、「書きたいことも書けないなら、書ける環境を整えろ(要は『仕事なんてやめちまえ!』)」という煽りが入る。

 

しかし、ほとんどの人にとって、この煽りは現実的ではないだろう。守るべきものがあるなら、そう簡単に仕事など辞められない。

 

ただ、こういったメッセージの書かれた自己啓発書が本屋に山積みになっていることからもわかるように、「自分も自由な場所で好きなことを書けたらなぁ」なんて夢想している人は数多い。

 

僕は、こういった中途半端な姿こそ、人間の本質ではないかと思うのだ。

 

守るべきものがあり、そのために自分のやりたいことを犠牲にする。この時、「すべてを投げうってでも自分のやりたいことをやること」が、本当の自己実現なのだろうか?僕はそうは思わない。

 

「自由な発信がしたいなぁ」と思いつつも、家に帰って家族の顔を見てホッとする姿こそ、本来の人のあるべき姿だ。

 

僕は、制約の中でブログを書き続けるということを通して、「もがきながらでも、書けないことがあっても、表現できることを表現すればいいんだ」と、自分自身や、その向こう側にいるはずの同じ葛藤を抱えた人たちを勇気づけたいのだ。

 

 

 

ただし、「自分のやりたいこと」と「与えられる仕事」を近付けていくためには、「自由な表現の場」は間違いなく必要だ。

 

先ほど引用した 全てのクリエイターには「中田ヤスタカにとってのCAPSULE」が必要である という記事には、中田ヤスタカの以下のような言葉が載っている。

 

自分のやりたいことと、相手から求められていることのバランスがとれたとき、ほんとうに新しいものが生まれると思うんです。

 

僕はまだ駆け出しのペーペーであって、今は「枠の中でどう表現するか」を学ぶことで精いっぱいだが、そのうち「自分のやりたいこと」があまりにもできていないと感じたら、匿名でブログを書き始めるだろう。

 

もしもインターネットのどこかで僕っぽい文体の匿名のブログを見つけたら、「少しは自分に足りないものが見えたんだな」と、そっと見守っていただけると嬉しい。

コミュニケーションはプランできるか?

広告会社に入社してからずっと考え続けているのが、「コミュニケーションはプランできるものなのか?」ということだ。

 

この疑問に答える前に、僕がこの疑問を抱くきっかけになった「コミュニケーション・プランニング」という言葉について説明したい。

 

  

 

昨今、広告業は「コミュニケーション・ビジネス」と呼ばれるようになってきている。生活者に「広く告げる」だけでなく、生活者と企業の「コミュニケーション」をつくりだす必要がある、との認識からであろう。一方向性から両方向性への変化、とも言えるかもしれない。

 

また、「コミュニケーション・プランニング」と呼ばれる仕事や、それを請け負う「コミュニケーション・プランナー」と呼ばれる人たちが出現してきた。これらは、上述した生活者と企業の「コミュニケーション」をつくりだす、その設計図を描く仕事であり、またその描き手である。

 

Wikipediaでは、"Communication Planning"について下記のような説明が施されている。

 

 Communication planning is the art and science of reaching target audiences using marketing communication channels such as advertising, public relations, experiences or direct mail for example. It is concerned with deciding who to target, when, with what message and how.

(筆者訳)コミュニケーション・プランニングとは、例えば、広告やPR、体験、ダイレクトメールなどのマーケティングコミュニケーションのチャネルを用いて、ターゲットとなる生活者に到達する技法のことである。コミュニケーション・プランニングは、誰をターゲットとするか、いつ、どんなメッセージを、どのように届けるかということを決定することに関連する。

Communication Planning - Wikipedia

 

まあ、わかったようなわからないような説明だし、僕も広告マンといえどまだ入社して2カ月のペーペー中のペーペーなので、「コミュニケーション・プランニング」についてのこれ以上の説明は避けたい。詳しく知りたい方は下記のサイトや書籍などを参考にされたい。

 

コミュニケーションプランニングの考え方 - ADK

 

次世代コミュニケーションプランニング - 高広伯彦

 

 

 

さて、いったい「コミュニケーション」はプラン(設計)できるものなのか?というのが僕の素朴な疑問である。言い換えれば、「コミュニケーションを設計し、その設計図どおりのよいコミュニケーションを実現することは可能なのか?」ということだ。

 

これは、上で長々と書いた「広告代理店におけるコミュニケーション・プランニング」がはたして可能なのか、という疑問ではない(入社2カ月でそんな大上段に振りかぶったことは書けるはずがない)。もっと一般的な、シンプルな問いである。

 

人の数だけコミュニケーションの形は存在するが、今回は僕の慣れ親しんださし飲みというコミュニケーションを例にとり、「コミュニケーションはプランできるか?」という疑問に答えてみたい。

 

 

 

結論から言うと、「できない」と僕は考える。

 

さし飲みにおける成功は、「今日は良いさし飲みができた」とお互いが思えることである。

 

(関連記事:良いコミュニケーションは、水のごとし。

 

ここで言う「コミュニケーションのプラン」は、飲む相手を決め、どんなテーマで話すかを決め、何時間話すかを決め、…というふうに、「さし飲みにおける成功」を目指して、理想的なコミュニケーションが進行するようにあらかじめいろいろなことを設計しておくことである。

 

そうして隅々まで計画されたさし飲みがうまくいくかというと、実はそうでもない。

 

自分が自信を持ってコミュニケーションを取れる、慣れ親しんだ人を相手に、自分と相手の共通の趣味や思い出について語り、話す時間も決めておく、というやりかたでは、「お互い気分を害することなく気楽に話した」という経験はできても、「あの人と今日飲めて本当によかった」という気分には、絶対にならない。

 

そうではなく、思いもよらない人と、全然想定していなかったテーマで、必要とあらば何時間も話し込むというのが、いいさし飲みにつながるのだ。

 

 

 

例えば、僕がとあるバイトの友人と飲んだ時のことだ。

 

彼は、とても頭がよく、また場を盛り上げるのが上手で、バイトの飲み会ではいつも輪の中心にいた。バンドを真剣にやっていて、いつも女の子とデートしている…そんなイメージの男だった。

 

一方僕は、飲み会で場を盛り上げるというのが苦手だ。人とどこまで距離感を詰めていいのかわからなくなる。高校の時も、おもしろいヤツが良いヤツだとされるスクールカースト的な人間関係に苦しんでいた。部活がなければ、学校に行けなかったかもしれないくらいに。

 

彼は、間違いなくスクールカーストの上位にいた人間だった。だから、僕は彼と楽しく話ができるか少し不安だった。

 

ただ、彼はいつでもどんな人に対しても平等だった。「ノルウェイの森」に出てくるキズキをもっとオープンにしたようなエンターテイナーだった。だからきっと、話してくれるだろうと思っていた。以下、キズキについての説明。

 

彼には場の空気をその瞬間瞬間で見きわめてそれにうまく対応していける能力があった。またそれに加えて、たいして面白くもない相手の話から面白い部分をいくつもみつけてくことができるというちょっと得がたい才能を持っていた。だから彼と話していると、 僕は自分がとても面白い人間でとても面白い人生を送っているような気になったものだった。

(ノルウェイの森、p. 48~49)

 

僕は、彼がなぜ「イケてる」人間であるにも関わらず、どんな人に対しても変わらず接していけるのかを、飲みの席で聞いた。すると、こんな答えが返ってきた。

 

「俺も昔は外見で人を判断して、自分と同じようなチャラい奴としかつるんでなかったんよ。だけど、中学の時の先生に『どんな人とも一度はきちんと話をしてみろ』と言われて、それで人それぞれ面白い部分があるって気付いたんよね」

 

彼を外見や雰囲気で判断し、さし飲みというコミュニケーションをすることがなければ、一生知ることはなかったであろう彼の内面だった。

 

この話の後は、バンドとブログの共通点、特に「自分の好きな音楽なりメッセージなりを発信し続けていると、一定の数の人からは嫌われる」ということについて盛り上がった。

 

正直、バンド活動とブログに共通点があるなど思ってもみなかった。「テーマをあらかじめ設定しない」からこそ、このような話の転がり方が生まれてくるのだ。

 

僕自身は、「とても良いさし飲みができた」と心から思ったものだった。

 

 

 

少し例が長くなってしまったが、かように「良いコミュニケーション」はなかなか設計できるものではない。

 

ただ、もし設計できる部分があるとすれば、それは「良いコミュニケーションが生まれる環境をつくる」ということかもしれない。

 

それは、さし飲みで言えば、2人で落ち着いて話せるお店を選ぶことであったり、あいづちや質問などによって相手が話しやすい雰囲気をつくることであったりするのだろう。

 

「コミュニケーションはプランできるか?」という疑問に対しては、「完全にプランすることはできないが、良いコミュニケーションが生まれる環境を整えることは可能だ」というのが、ひとまず現段階の僕の回答である。

 

これからもこの問いはずっと問い続けていくことになると思うが、いつか広告の仕事における「コミュニケーション・プランニング」について語れるような、そんな広告マンになれたらいいなと思う。

どこでもドアが開発されても、僕は電車で通勤するだろう。帰りだけね。

くたくたの頭を抱えて、帰りの地下鉄に乗る。

 

この瞬間が、1日で一番好きかもしれない。

 

仕事のために回していた頭が冷えていく。会社にいる間は否応なく晒され続ける、多数の視線から解放される。

 

電車の中にいる人たちはみな、僕と同じスーツ姿で、僕と同じように心地よくくたびれているように見える。

 

オフィシャルからカジュアルへの突然のスイッチではなく、グラデーションを伴ったカジュアルダウン。これがいいのだ。

 

会社用の頭や身体というのは、そう簡単にオフ用に切り替わるものではないから。

 

 

 

電車というのは、基本的にはA地点からB地点に移動するための手段として捉えられる。

 

新幹線や、現在開発が進められているリニアはその典型だ。できるだけ早く、正確な時間に、目的地に着くことがよしとされる。

 

一方で、「移動手段」だけでなく「休憩所」や「娯楽施設」としての機能を持った電車というものも存在する。

 

だが、世の中の流れとしては、「移動手段」に特化した電車が求められているようだ。それは、下記のような寝台列車引退のニュースを最近多く目にすることからもわかる。

 

トワイライトエクスプレス 来春廃止へ

 

 

 

もはや電車という乗り物は、純粋な「移動手段」としての能力を高めていくしかないのだろうか?

 

僕はそうではないと思う。

 

会社から家に帰るための電車において求められるのは、「移動手段」よりも「休憩所」である。

 

なぜなら、上にも書いたように、オンからオフに頭が切り替わるためには、一定の時間が必要だからだ。

 

激しい運動を行ったあと、しんどいからと言ってすぐに寝転がってしまうと、身体に異常をきたすことがある。しっかりと休息を取るためには、その手前に軽く走ったり歩いたりといったクールダウンの段階を取り入れる必要がある。

 

「戦闘服」を身にまとい、背筋を伸ばしてケンケンガクガクの議論をやりあっていたビジネスシーンから、羽根を休められる家に戻るまでの道すがらで、そのクールダウンができれば最高だ。

 

 

 

では、「移動手段」にとどまらない「休憩所」としての電車とはどんなものなのだろうか?

 

一つ考えられるのは、「禁止ではなく許可をする電車」である。

 

最近は、電車に乗る際に、女性しか乗ってはならないとか、携帯電話を使ってはいけないとか、とにかく何かを禁止されることが多い。

 

そうではなく、窓に絵を描いていいとか、筋トレをしていいとか、何かをしていいという許可を与えるのである。

 

ただ、先ほどから想定しているのが「クールダウン」用の電車であることを考えると、ある程度の節度は守る必要がある。電車に乗ったとたんにバキの登場人物みたいなオヤジが筋トレに励んでいたらどっと疲れがたまるだろう。

 

そこで考えるのは、カバンをどこかに片づけてしまえる電車である。

 

ビジネスバッグというのは、かさばるし重いし、かといって床に置くのはなんとなくはばかられるという代物である。また、スーツに靴にカバンというのは、ビジネスパーソンとしての三種の神器みたいなところがある。

 

その三種の神器の一つを身体から離してしまうことで、「カジュアルダウン」をはかるのである。さすがにスーツの下は脱げないし、靴も脱ぐのはめんどくさいだろう。

 

一応今でも網棚はあるが、カバンを一時預ける場所として有効利用されているとは言い難い。ドア付近に棚みたいなものを作り、乗降時に出し入れする方が効率的だ。

 

ついでに、会社のケータイとか名刺入れとかも全部一緒に預けてしまって、電車の中で小さな解放感を味わいたい。

 

 

 

と、妄想ばかり展開してしまったが、もしカバンを預けることのできる電車があれば、僕は絶対に利用する。

 

僕のアイデアはどうでもよいが、会社帰りの電車は「移動手段」よりも「休憩所」である、という認識は、多くの人が持っているのではないだろうか?

 

退社後、電車ですごすひとときは、けっこう僕にとって大切なものだったりする。

 

そういう意味では、仮にどこでもドアが開発されたとしても、僕は電車で通勤するだろう。

 

もちろんそれは、帰りだけだけど。

はてなブックマークは、人を殺す。

もちろん、比喩的に。

 

 

 

僕がこのブログを書き始めて一月ほど経った、2年前のことだ。

 

何の気なしに書いた、英語を話せても代替不可能な人間になんてなれやしないんですよ という記事が、たまたまホッテントリ入りしてしまった。

 

インド・ムンバイのアパートの、南京虫の潜むその貧相なベッドに寝転がりながら、またたくまに指数関数的に増えてゆくアクセスを目撃して、僕は少し怖くなり、同時に誇らしい気持ちになったことを覚えている。

 

この体験は、僕のブログに対する姿勢に大きな影響を与えた。

 

つまり、心のどこかで「またホッテントリ入りしないかな」と期待しながら、ブログを更新するようになってしまったのだ。

 

 

 

「もう一度、いろんな人に読んでもらえるような記事が書きたい」という願いを抱きながらブログを書くと、どんな過ちを犯してしまうのだろうか。

 

いろいろあると思うが、一つ僕の経験から書くと「自分がイメージできない人にメッセージを投げかけてしまう」ということがあるように思う。なぜなら、いろんな人に読んでもらおうとすればするほど、自分のよく知らない、ただ噂やニュースでしか聞いたことのない人たちにもメッセージを届かせる必要があると思ってしまうからだ。

 

何かを伝えようとする人にとって、自分がイメージできない人にメッセージを投げかけることほど、やってはいけないことはない。

 

だからこそ広告代理店は、お金を払ってインタビューをせっせと行い、生活者の生の声に耳を傾けるのだ。

 

たとえ性別や年齢といったデモグラフィック的な属性がわかっていたとしても、自分がこれまで出会ったことも会話したこともない、具体的なイメージの湧かない人を相手にメッセージを届けることはできない。それを無理にやろうとすると、誰に向かって発信されているのかわからない、耳に心地よく響くだけのお題目となってしまう。

 

「意識高い人」が揶揄されてしまうのは、誰に呼びかけているのか自分でもわからないまま、「グローバル化に備えて英語を学ぼう」「これからはプログラミングと会計がわからないと話にならない」などと語りかけてしまうからだ。

 

僕はいわゆる「啓発」という行為がとても苦手だが、これも、「誰に呼びかけているのかわからない」啓発が本当に多いからだ。

 

誰に向けたものかわからないメッセージを量産していると、次第にコンテンツはやせ細り、もともといたファンまで離れていってしまう。

 

そうして、おととい 昔の自分は他人だ。 で書いたような、どうにも筆の進まないスランプに陥ってしまうのだ。

 

 

 

以前 生きることは、発信すること。コミュニケーションの未来とは。 という記事でも書いたが、僕は生きることはすなわち発信することだと考える。

 

上の記事を簡単に説明すると、熱の放散やエントロピーの減少、あるいはSNS上でのつぶやきやメッセージといった現象を鑑みると、生きることと発信することは、限りなくイコールで結ばれるのではないか、ということであった。

 

この論でいくと、はてなブックマークは人を殺しうる。

 

はじめはしっかりと地に足をつけて文章を投稿していた人間が、突然の爆発的なアクセスによってそのバランスを失い、スランプに陥ってやがて消えてしまう。はてな界隈でも時たま目にする光景だ。

 

それは、あたかもはてなブックマークによって生存(すなわち発信)をやめてしまったかのようだ。

 

 

 

もちろん、僕は今でも自分の記事にはてなブックマークがつくと嬉しいし、がんばって書こうという気持ちになる。また、ビジュアル的にも白黒の画面にほんのり赤い数字が光っているのは息抜きになる。はてブは精力剤であり、また清涼剤でもある。

 

だが、どれだけ力になる薬でも飲みすぎると身体の毒になるように、はてブを追い求めて記事を書いてしまうと、本来の自分の想像の範囲を超えた、上滑りしたメッセージになってしまう。

 

大量のアクセスは、すべてを洗い流す大波のようなものだ。それを経験した後にぽつんと残るものこそ、自分がブログを通して表現したいもののはずだ。

 

はてブに殺されないように、はてブを味方にできるように、これからも文章を書いていきたい。