Rail or Fly

レールに乗るのか、飛び降りるのか、迷っているきみに届けたい。

辛くて目の前が見えない時代は、必ず後で、君の礎になる。

毎日会社で人と話をしていると、「お前は将来何がやりたいの?」的な話になることがある。

 

特に新卒の場合、「なんでこの業界・会社に来たの?」という質問は挨拶代わりのようなものだし、そこから将来やりたいことの話につながるのも、ごく自然なことだ。

 

僕のやりたいことは、ここ最近変わっていない。バーをやりたい。今の日本に必要だと思うから。 で書いた通り、対話のできるバーをつくりたい、というものだ。

 

シェアハウスに友人同士を呼んで会わせたりするのも、こうして毎日ブログを書いているのも、さし飲みが大好きだと公言しいろんな人と飲ませてもらっているのも、そして今広告代理店でメディアの部署にいるのも、すべて「対話のできるバーをつくる」という未来に向かうためのものだ。

 

忙しい毎日の中でも、自分のやりたいことを忘れず心の中に抱き続けて、人にもそれを話すことができる、というのはかなり幸福なことだ。

 

それもすべて、有り余る時間の中、たった一人でずっと悩み続けていたあの時代があったからだ。

 

 

 

就職活動をやめ、海外インターンをすることにして休学届けを出したものの、インドの陰謀に巻き込まれてビザが取れず、出国が半年も延びてしまったあの時期。

 

それから、8人ものインド人たちに囲まれ、たった一人の日本人としてスラムのど真ん中で生活していたあの11ヵ月。

 

周りの友人たちは既に会社で働きはじめ、忙しくも充実した日々を送っている。

 

僕はといえば、毎日クライアントである日系企業の駐在員の方々の豪華なマンションと自分のボロアパートとの差を目の当たりにし、「俺は何のために働いているんだろう」と自問し続けていた。冬には冷水しか出ないシャワーを震えながら頭からかぶり、夏には埃っぽい道を汗だくになって駆けずり回りリキシャをつかまえていた。

 

日曜日にまとめサイトやニコニコ動画を見ていると、遠い日本を思って時々涙がこぼれた。

 

そして相変わらず、「将来やりたいことが見つからない」という悩みは、大学に入る前からずっと変わらず、僕の胸を締めつけ続けていた。

 

それでもお腹は減るし、朝はやってくる。月3万円の給料がなければ、スラムのアパートも追い出されてしまう。感傷にずっと浸っている暇などない。生きるために、がむしゃらに働いていた。

 

 

 

誰かと自分とを比べて落ち込み、やりたいことが、将来が全然見えなくて悩み苦しんでいたあの地獄のような時代があったからこそ、僕は胸を張って、今やりたいことを人に語ることができる。

 

味わった地獄が深ければ深いほど、それが後から君にもたらす力は計り知れないものになる。

 

「将来やりたいこと」というのは、「今どうしてもできずに苦しんでいること」の裏返しなのだ。

 

「昔、勉強がどうしてもできなかった」人は、同じような苦しみを抱える人と一緒に勉強する先生になればいい。

 

「人間関係がどうしてもうまくいかない」人は、その悩みを率直にインターネットで表現すればいい。必ず、共感してくれる人がいる。

 

君ができないということ、君は取りたてて優れてはいないという事実、それこそが、「同じような人たちの気持ちが心の底からわかる」という君の最強の武器をもたらしてくれるのだ。

 

 

 

今、辛くて目の前が真っ暗な時代のまっただ中にいる人たちへ。

 

今直面している地獄は、後になって、必ず君の礎になってくれる。「あの時代があってよかったな」って言える日が、必ず来る。

 

どう礎になってくれるかは、僕にはわからないし、今の君にもわからない。

 

それでも、「いつか必ずこの苦しみがプラスの力に変わる」と信じて、次の電柱まで、また次の電柱までって、マラソンを続けていってほしいのだ。

「広告ビジネス 次の10年」広告に携わるすべての人が読むべき一冊。

先月発売されていた「広告ビジネス 次の10年」(著者:横山隆治、榮枝洋文)を読んだ。

 

著者の一人、横山隆治氏は、広告業界の人間にとっては「業界人間ベム」でもおなじみの方だろう。

 

広告代理店のぺーぺーとしてこの本の感想を一言で言うと、半端ない危機感とワクワク感を同時に抱かせてくれる本だ、というところだろうか。

 

広告に携わるすべての人々に読んでもらいたい一冊だが、特に、これから広告代理店を志す人には、厳しい現実を知るために、そしてそれを乗り越える覚悟を決めるために、読んでもらいたいと思う。

 

 

 

この本では、現在、広告代理店は自らの仕事を「再定義」しなければならない時代にきている、と説く。

 

もともと、広告代理店の起源は、新聞広告枠の販売業だった。クリエイティブやプランニングといった仕事は、すべてその「広告枠の販売」という、莫大なマージンを得られるビジネスにつなげるために出現してきたものだ。

 

「広告枠の販売」では、主導権は売り手側、つまりメディアの側にある。マスメディアがマスメディアとして機能し、枠が有限かつ貴重なものであった時代には、広告主は決められた選択肢の中から代理店を通じて広告枠を購入するしかなかった(もちろん今でも、マスメディアの枠は貴重なものである)。

 

しかし、インターネットの登場により、インターネット上に無数のメディアとそれに伴う無限ともいえる数の広告枠が出現した。

 

そして、リーマン・ショック後に金融業界から流れ込んできた金融工学のエンジニアたちによって作られたRTB(Real Time Bidding)やDSP(Demand Side Platform)といった仕組みの登場により、広告枠の主導権はメディアから広告主に移ったのだ。

 

(RTBは入札によって最適な人に最適なタイミングや価格で広告を配信する仕組み、DSPは広告主が自分たちでターゲットを設定しそれに応じた広告を発注・配信できる仕組みである。これ以上は読者が各自で勉強してください。インターネット広告の歴史については、アドテクノロジーの歴史(1)【1994年以降のWEB広告史】から順に読んでいくとよいです。)

 

広告枠の主導権が広告主に移ると、それまで自分たちを介してしか広告枠を発注できなかった広告代理店の存在意義は限りなく薄くなる。

 

したがって、広告代理店は自らのビジネスを再定義しなければならない。

 

 

 

ビジネスを再定義する過程で、8割の広告マンが不要になる。いわく、

 

「広告主の前でお天気と株価の話しかできない幹部」

 

「メディアの事情通というだけのメディア担当」

 

「広告主が素人だったので通用していた御用聞き営業マン」

 

「15秒と30秒の広告しか作れないCM職人」

 

「自ら分析できないプランナー」

 

などなど…。

 

耳に痛い話だと思われる方も多いのではないだろうか。

 

 

 

広告代理店がビジネスを再定義する方向性として筆者が述べているのが、サブタイトルにもある「データを制する」ということである。

 

それでは、広告代理店はこれから具体的にどんなビジネスを展開していけばよいのか?

 

そして、そこで働く僕たちはどのようなスキルを身につけるべきなのか?

 

それに関しては、ぜひ本書を購入して内容を読んでみてほしい。

 

現在テレビの世界を勉強させてもらっている僕としては、今すぐテレビ業界においても広告枠売買の主導権が広告主に移行するとは思わないが、今後データマーケティングがどの程度テレビの世界を侵食していくのかについては、興味深く(そして注意深く)見守っていきたい所存である。

 

広告に携わる人が、自分自身や自身の仕事の未来を考えるために、必読の一冊。

 

 

広告ビジネス次の10年

広告ビジネス次の10年

 

 

 

なお、本書に記載されている「オムニコムとピュブリシスの合併」は、2014年5月9日に合併解消が発表されている(米 オムニコムと仏 ピュブリシス、合併解消を発表 - AdverTimes)。この点にだけは注意する必要があるだろう。

 

ちなみに著者の横山氏もそのことについてコメントしている(米オムニコムと仏ピュブリシス、合併解消からの示唆/『広告ビジネス次の10年』 - MarkeZine)。

  

 

 

※下記もぜひご参照ください。

 

「広告ビジネス 次の10年」 補足したいこと その1 - 業界人間ベム 

 

次の10年、広告マンに必要なスキルとは何か? - 電通報

本当の聴き上手は、自分の話ができる人だと思う。

コミュニケーション指南の本やブログによく書かれているのが、「コミュニケーションが上手くなりたいなら、自分の話はせず相手の話を聴け」ということである。

 

「相手の話を聴く」ということは間違いなく大切なのだが、ひたすら相手の話にあいづちをうったり、オウム返しをしたり、相手に質問したりしてばかりでは楽しくない。それに、話している側も、よほどのナルシストでなければ「なんかめちゃくちゃしゃべらされているなぁ…」と疲れてしまう。

 

僕は、コミュニケーションにおいて「自分が話すこと」は「相手の話を聴くこと」と同じくらい大切だと思っている。

 

今日はそんな「自分が話すこと」の効用をいくつか書いてみたい。

 

 


・自分の話をすることで、相手のガードを解く。

 

これはよく言われることだが、自分の失敗談やコンプレックスを話すことは、相手に心を開いてもらうきっかけになる。

 

なんだか怖い人だと思っていた先輩が、昔やらかした大失敗のエピソードを聴いて、なんとなく親しみを感じたことは誰にでもあるだろう。

 

僕は就活をしていた頃、一問一答形式の面接が苦手だった。これまでほとんど言葉を交わしていない、どんな人かもわからない面接官相手に「あなたの挫折経験を教えてください」なんて言われても、どう話していいものかわからない。

 

面接を一問一答の形に整えると、同じ質問に対して様々な答えが返ってくるので、選抜する側からすると受験者どうしを比べやすく、合否の判定がしやすいのだろう。

 

それでも面接を始める前に、ほんの少しでいいから、面接官は自分の失敗談や挫折経験を話してみるべきだと思う。

 

その方が、受験者の素直な言葉を聴けると思うのだが、いかがだろうか。

 

 

 

・自分の話をすることで、相手の具体的な答えを引き出す。

 

原則として、人は相手と同じ抽象度を保って話をしようとする、というものがある。

 

例えば、「人生ってなんだろうね」といきなり相手に投げかけたとすると、相手は「辛いものだよね」とか「すぐに終わっちゃうものだよね」とか、その程度の答えしか返すことができない。

 

つまり、抽象度が高すぎるのだ。

 

ここで、「僕がインド人8人とルームシェアする中で感じたのは、インドでは「お金を稼ぐこと」がすなわち「幸せになること」であり、それが人生の目的になっている、ということ。だけど日本ではそんな人は少ない。僕は、自分がどんなことを幸せだと感じるのか、それを問い続けていくのが人生だと思う」と話しておくと、「確かに、お金を稼ぎたいという気持ちは僕の中にもないなぁ。僕は自分の人生の中で~ということをやっていきたい」と、相手が自分の具体的な話をしてくれるはずだ。

 

一般論ではなく、その人しか語れないことをしゃべらせるのが、良い質問というものである。しかし、そこで具体的な良い答えを引き出すためには、自分の話をするという行為が呼び水として欠かせない。

 

当然のことながら、自分が話しっぱなしではいけない。あくまで相手に振ることを前提に、自分のことを話すのだ。

 

 

 

・自分の話をすることで、共通点が見えてくる。

 

僕たちは、他者との共通点を見つけると嬉しくなる。

 

趣味や所属、あるいは故郷といった共通点は、もちろん相手と仲良くなる上で重要だ。

 

だけど、こういった「浅い」共通点だけでは、例えばさし飲みのような短い時間の中で、相手との距離を一気に詰めることはできない。

 

人と仲良くなるために一番強い力を持つ共通点は、「同じ気持ちになったことがある」というものだ。

 

極端な話、相手と共通の趣味などなくても、「相手の感情や気持ち」にフォーカスし、自分と同じ気持ちになった瞬間を探っていけば、絶対に相手と仲良くなれる。

 

そのためにはまず、自分の感情を語らなければならない。

 

趣味とか今の仕事のこととか出身とかに関しては、二言三言、キーワードさえ出せばいいだろう。だが自分の気持ちというものは、ある程度の長さの言葉がないと語れない(もちろん、いくら長い時間演説しても語り尽くせないものでもある)。

 

自分の趣味の音楽や小説について、「あれいいよね!」と共感し合うだけではつまらない。それを鑑賞して自分はどんな気持ちになったのかを語り、相手はどんな気持ちになったのかをきいてみる。

 

自分は小説が好きで相手は映画が好きなら、「僕はこの小説を読んだ時にこんな気持ちになったんだけど、君は映画を観て同じような気持になったことはある?」ときいてみる。

 

そうすることで、自分と相手がまったく違うバックグラウンドを持っていたとしても、2人は「感情」という共通点で強く結ばれるのだ。

 

 

 

・自分の話をするうちに、自分の話をより深く聴いてもらえるようになる。

 

相手のガードを解いて何でも話せる雰囲気を作り、自分の話の後に相手に話を振ることを繰り返していると、自分が話す→相手が話す、という流れができてくる。

 

そうなると、相手は「この話をした後で必ず自分の番が来るから、どんな話なのか注意して聴こう」と、こちらの話に興味を持ってくれるようになる。

 

これは、特に意識してやってきたわけではないが、「語ること」の苦手な僕がどうやったら自分の話を相手に印象付けるかを考えた結果編み出した、一つの策なのだと思う。

 

僕が昔人と話していてよく言われたのは、「君は話を聴いてくれるけれども、君自身がどんな人なのかはあんまりわからなかったよ」という言葉だった。

 

「聴き上手」と言われる人でも、僕と同じようなことを思われている人は、実は少なくないと思う。

 

だが、演説上手でも話術が巧みでもない僕は、「話し上手」にはなれる気がしなかった。

 

だから、「聴き上手」であることを利用して、相手の関心を自分に引きつけるやり方を模索したのだろう。きっと。

 

 

 

本当のコミュニケーション、なんてものは人と人との関係性の数だけ存在する。

 

だが少なくとも、それは「片方が一方的に話し、片方が一方的に聴く」というものではないはずだ。

 

「聴くこと」だけでなく「話すこと」についても、いろんな人が考えるようになったらいいなと思う。

飛ぶように過ぎていく日々の中で思うこと。

今、会社から帰宅してこのブログを書いている。

 

時刻は22:36。

 

毎朝8:30に出勤して、半日を会社で過ごして、夜はほとんど何もする間もなく眠る。

一週間があっという間に過ぎる。サザエさん症候群になんて、なる暇がないほどに早い。

 

この前、上司に「5月病にはならなかった?」と聞かれて、そういえばもう6月だなんて思って、「全然考えもしませんでした」と答えたのが、もう半月前。

 

それでも、ただ消費するだけでなく、自分の目標とする生き方との外堀を日々埋めている手ごたえはある。

 

一言で言うと、とても楽しい。

 

 

 

会社に入って、少しは「学生時代はよかったなぁ」なんて感傷に浸るのかなと思っていた。

 

もちろん、その気になれば平日の昼間に授業を抜け出して鴨川のベンチに寝転がることのできた大学時代の自由さは、何物にも代え難い。

 

だが、今の生活の充実感は、それこそ大学の時にはなかなか味わったことのないものだった。

 

誰かのために仕事をしてお金をもらい、さらにはその仕事が自分の血肉となってくれる。そして何よりも、楽しい。

 

おそらく、そんなふうに今の生活を楽しめるのは、僕が働き始める「タイミング」がよかったのだろうと思う。

 

 

 

社会の一般的通念では、僕たちは、学校を卒業する年度の3月31日をもって学生を終え、その翌日の4月1日から社会人となる。

 

だが、人間の精神はそんなふうに「今は学生だ」「今は社会人だ」なんてスパッと切り替えられるようにできてはいない。

 

学生と呼ばれる身分であっても既に自立した精神を持っている人もいるだろうし、いくら社会人として働いていてもいつまでも学生気分が抜けない人もいるだろう。

 

さまざまな経験を通して得た覚悟のようなものがいくつか揃えば、人は「もうそろそろ学生はいいかな」と思えるようになるものだ。

 

 

 

最初はやりたくないと思っていた仕事でも、任されたら一所懸命やる覚悟。

 

 

 

第一印象はよくなかった人とも、ちゃんと話をして協力していく覚悟。

 

 

 

自分が余暇時間にやると決めたことは、いくら仕事で疲れていても続けていく覚悟。

 

 

 

一言で言えば、辛さを楽しさに変える精神。

 

 

 

それが、「社会人になる覚悟」だと思う。

 

 

 

「自分の好きなことだけやって生きていく」ことは、世の中の一つの理想的な生き方とされている。

 

だが、「今好きだと思っていることだけやる」というのは、僕からするととても偏狭な生き方だと感じる。

 

好きだと思っていないこと、好きだと思っていない人、好きだと思っていない場所、そんなものたちの中に、必ず「新しい好き」が潜んでいる。

 

会社という、ある意味自分の予想だにしないものを与えてくれるビックリ箱の中で、新しく飛んできたものを目いっぱい楽しむという姿勢こそ、社会人に必要なポジティブさではないだろうか。

 

そうした姿勢が、どうも自分にはピンとこないな…という人は、まだまだ学生をやっていたら良いと思う。「今自分が興味を持っていること」にフォーカスして、なんでもやってみたらいい。

 

辛さを楽しさに変える精神は、そうした「新しいチャレンジ」から生まれてくる。

 

どんなに楽しそうだとか好きそうだとかで始めた活動でも、必ず何かしら自分の気の進まない部分が出てくる。

 

しかし、そういった壁に体当たりし、その向こう側に抜けた時に、「やってみると楽しいものって、世の中にはたくさんあるんだ」と気付くのだ。

 

 

 

ストレートで卒業した人より2年も長く大学にいた僕が心から思うのは、気の済むまで学生でいたらいいということ。

 

場合によってはその延長戦までフルに使って、なんでもかんでもやってみたらいいということ。

 

その経験を通して得た「辛さを楽しさに変える精神」があれば、自然と「そろそろ学生はおしまいだな」と思えるようになるはずだ。

僕たちの周りには、味方しかいない。

僕が昔ブログを書き始めた頃に思っていたのは、「自分のことをわかってくれる人は、本当にわずかだ」ということだった。

 

そう考えていた理由としては、当時周りにいたのがほとんどインド人だったというのもあったと思う。(そして、僕がやっていたインターンが、日本人とインド人は全然違うんだということを日々強烈に認識させられる類の仕事であったことも大きな理由だったと思う。詳しくは 働きはじめて改めて感じた、海外インターンに行くべき理由。 参照。) 

 

ただ、僕はインドに行く前から、「自分のことは自分しかわからない」という諦観を抱いていた。それは、理学部という「研究者になってノーベル賞を取るのが一番偉い」という環境にある中で、どうしても研究に身を捧げられない自分に対する葛藤の末、生じた諦観だった。

 

だが、最近思うことは、自分の周りには味方しかいないということだ。

 

会社で働いている時も、友人と遊んでいる時も、シェアハウスで同居人や同居人が連れて来た知らない人とぐだぐだ話をしている時も、あるいはこのブログを書いている時も。

 

あらゆる場所において、僕が考えたことをしっかりと受け止めてくれ、それが間違っていた時にはきちんと正してくれる。そして、僕のやりたいことを応援してくれる。

 

きっと、僕が昔いた場所も、もしかしたらむせかえるようなインドのにおいに包まれていたあの頃も、僕がきちんと相手と向き合っていたら、その人は自分の味方になってくれたのかもしれない。そんなことを思う。

 

 

 

僕がインドにいた頃、いつも慰めてもらっていたのは音楽だった。

 

大好きだったのは、the pillowsの「1989」という曲だ。

 


the pillows / 1989 - YouTube

 

「Please catch this my song 君に届くように歌っていたのさ」と山中さわおの歌うこの曲は、その歌詞の通り、どこかにいるはずの「君」に向けて、音楽を奏でている。

 

たとえ大多数の人が自分たちの音楽を理解してくれなくても、たった1人の人がわかってくれたらいい…。

 

決してメジャーとは言い難いthe pillowsというバンドが、その長いキャリアの中で得た哲学が、この曲には凝縮されている。

 

そして僕は、自分がその歌詞の中で歌われている「君」だと感じ、周りに理解者のいない当時の自分を、彼らの昔の姿に重ね合わせていたのだ。

 

 

 

音楽や小説や…その他諸々の芸術作品に対して、僕と同じような感情を抱く人は、決して少なくないと思う。

 

そこで語られている物語や出てくる登場人物に、どうしても感情移入をしてしまう。

 

そして、「僕のことは、誰もわかってくれない。わかってくれるのはこの作品だけだ」と感激する。

 

だがその姿は、決して前向きなものではない。

 

僕が今思うのは、そういった芸術作品は、自分の「出発点」「帰ることのできる場所」とすべきなのだ、ということだ。

 

日々の生活がうまくいかなくても、戻っていける場所さえあれば、人はとても強い生き方ができる。

 

僕は、仮に今働いている会社がなくなってしまっても、特にどうということはない。雇ってもらえるのなら、インターンをしていたIT企業に頼み込むという手もある。居酒屋でもう一度ホールスタッフとしてやっていってもいい。最悪、またインドに行って不動産営業をすればいい。

 

「自分のことをわかってくれる芸術作品」も、それと同じだ。

 

自分がいろんなことにチャレンジして、それでも上手くいかなかった時に、もう一度自分の原点を確認する意味で、そこに戻っていけばいいのだ。

 

決して、「誰も自分のことをわかってくれないんだ」と、その世界だけに安住しようとすべきものではないのだ。

 

 

 

2年の歳月をかけて、僕は自分の周りに味方になってくれる人しかいないと感じるようになった。

 

最初から、そう悟れる人もいるだろう。それは素晴らしいことだ。

 

ただ、僕と同じように、「自分のことをわかってくれる人なんてほとんどいない」と嘆いている人がいたら、その人に少しだけ言いたいことがある。

 

あなたが勇気を出して自分のことをさらけ出すことができたなら、あなたが敵だと思っている人のほとんどは、あなたの味方になってくれるということを。

僕が広告代理店に行きたかった理由。

社内メールで回っていた、2016卒の学生さんのためのインターンの案内を見て、もうそんな季節になったのかと思った。

 

2年前のこの時期、雨季に突入したばかりのムンバイで毎日ずぶぬれになりながら不動産を売り歩いていた僕は、自分が広告業界に入ることなど考えてもいなかった(不動産業界に入りたかったわけでもないが…)。

 

その頃は、広告といえば「なんかチャラそう」「マスメディアの力はどんどん弱まっているし、斜陽産業なんでしょ?」「でもなんとなくおもしろそう」「かっこいい」といった、ありがちなイメージを抱いていた。

 

その後8月に帰国し、どのように就活をしていたのかという話については、 大学を2年遅れた男の孤独な就活(広告志望な方にもそうでない方にも) で書いた通りだ。

 

ただ、僕がなぜ広告代理店に行きたかったかについてきちんと書いたことは、おそらくなかったのではないかと思う。

 

今日はそのことについて書いてみよう。

 

 

 

他の多くの学生がそうであるように、僕の志望動機も「たった一つだけ」ではなかった。

 

自分の会社のビジネスをとことん発展させていく「事業会社」ではなく、いろいろなクライアントを扱いヨノナカを俯瞰できる「機能的な仕事」であり、僕は俯瞰的な立ち位置が大好きだから―。

 

広告に携わっている人とは、なぜか話していてフィーリングが合うことが多かったから―。

 

広告の仕事では「人はなぜこのような行動をするのか?」といったことを常に考え続けるわけで、僕は対象が何であれそういった行動原理を考えるのが大好きだから―。

 

などなど、数え出すときりがない。

 

ただ、一つだけ、一番大切な理由を挙げろと言われたら、決まっている。

 

「自分の届けたいメッセージを、届けたい人に届ける術を身に付けたかったから」だ。

 

これは、広告代理店志望者の中では、割と珍しい志望動機だと思う。

 

 

 

広告代理店は、長らく「世の中」を相手にしたビジネスを行ってきた。それは、マスメディアが全国に情報をあまねく行き渡らせていた時代とリンクする。

 

「世の中を楽しくさせたいから」「自分の好きなものを世に広めたいから」「広告で世界を変えたいから」広告代理店志望者にこういった志望動機を語る人が多いのは、そんな時代があったからだ。

 

そういう意味で、僕の「届けたい人に届かせたいから」というのは、やや異質な志望動機ではある。どちらかといえば、検索エンジンを経由して興味を持ってくれた人だけが見てくれるインターネットや、読者層が非常に限定されておりそれゆえに熱烈なファンの多い雑誌のようなメディアの世界観に近いように思う。

 

それでも広告代理店に行きたかったのは、「届けたい人に届かせる過程では、幅広く知ってもらうことが必要不可欠だから」と考えているからである。

 

僕は、自分のメッセージが多くの人に受け入れられるものだとは思っていない。でも、仮に地球上のすべての人が僕のブログを知ってくれたなら、その中に必ず、僕の文章を読んでちょっとは気が楽になる人がいるはずなのだ。

 

(その意味では、そのうち英語で文章を書く必要があるのだろうなぁ、と思っている。)

 

 

 

余談ではあるが、「広く知ってさえもらえたら、必ず救われる人がいる」というのは、傲慢だと思われるかもしれない。

 

だが、人が納得のいく人生を送るためには、自分のやっていることの価値を信じてあげなきゃいけない。信じられる何かを、見つけなきゃいけない。

 

幸い、僕はブログを通して、自分の書いているものが誰かにとって必要とされているということを、徐々に信じられるようになってきた。今働きつつ書き続けていられるのも、自分のやっていることは誰かのためになっていると、信じているからだ。

 

自分のやっていることを知ってもらえたら、もっと楽に生きられるはずの人たちに、まだ知らせることができていないこと―。そういった機会損失をなくしたいから、僕は広告代理店に行きたかったのだ。

 

 

 

さて、ESや面接では、当然、悩んだ。

 

「届けたい人に届ける」というのは、広告代理店のこれまでのビジネスの一番核心的な部分ではないからだ。

 

だからといって、「世の中」をどうこうしたいという気持ちは僕の中には微塵もなかった。そんな人間が、本気で世の中を変えたいと思っている人と同じことを語っても絶対に勝てない。

 

だから正直に話した。「広く知らしめることは目的ではなく、届けたい人に届けるための手段です。僕はその手段を学びたいのです」と。

 

僕にとってラッキーだったのは、今の時代が、たまたま広告代理店が「届けたい人に届ける」ということを意識し始めた時代だった、ということだった。

 

例えば、テレビの視聴率は、世帯視聴率さえ取れたらいいという時代や、年齢・性別といったデモグラフィックな指標でターゲットを大まかに区切る時代を経て、より具体的なイメージ(ペルソナ)を設定する時代になりつつある。

 

そういった業界の変化と、自分のやりたいことを重ね合わせられたことは、僕にとってとても幸運だったと思う。

 

かくして、僕は今の会社から内定をもらうことができたのだ。

 

 

 

もし僕のように、「世の中をどうこうしようと思う気持ちはまったく無いけれども、届けたい人にメッセージを届けたいんだ」という人がいたとしたら、広告代理店はあなたにとってぴったりな場所だと思う。

 

広告代理店は今、これまでの「メディアの中間卸売業者」的ビジネスからなんとか脱却しようともがいている。

 

最新のアドテクノロジーを学び、インターネット広告のスペシャリストになりたいというなら、IT系の企業を受けた方がよいだろう。そこは、代理店ではなかなか追いついていない部分でもある。

 

だが、広告代理店にはこれまで積み重ねてきた「マスメディア運用のノウハウ」が詰まっている。

 

本当に、あらゆるメディアを縦横無尽に駆使し、「届けたい人に届ける」ことを目的とするならば、その前段として「広く知らしめる」ことが必要となる。それを学ぶ場所として、広告代理店は非常に良いチョイスだと僕は思う。

 

この記事を読んで広告代理店を志望してくれる人が1人でもいればいいなぁと願って、今日は終わりにしよう。

「好奇心を持つこと」のススメ。

自分自身を人と比べて何が違うかと言えば、非常に強い好奇心を持っていることだと思う。

 

学生時代は理学部、現在は広告会社と、いずれも好奇心の強い人たちが集まる場所にいると思うのだが、その中でも自分の好奇心旺盛っぷりは少し極端だと思う。

 

もちろん、「好奇心がある」と言ってもその言葉が意味するところは人によって違う。

 

僕の「好奇心」は、「さまざまなものの原理や因果関係や結び付きを知りたがる」ということだ。

 

今日は、そんな好奇心を持っているとどのようなよいことがあるのかをいくつか書いてみたい。

 

 

 

1、話せる人の幅が広がる。

 

再三このブログでもテーマとして取り上げているさし飲みが象徴しているように、僕は人のことを理解するのが好きだ。

 

世の中には、一見自分とは絶対に話の合わなそうな、話してもくれなそうな人がたくさんいる。

 

だが、人は自分に興味を持ってくれる人のことは、決して邪険には扱わないものだ。

 

その人は、自分の仕事についてどう思っているのか、好きなアーティストのどういった点が素晴らしいと思っているのか、自分は何が苦手だと思っているのか…。

 

なんでもいい、その人のストーリーを「自分の経験を絡めることで」聴き出し、その人を動かしている「根本の価値観」を理解することで、自分の中で「この人はこういう人なんだな」と捉え直す。

 

そうすることで、人を表面的な好き嫌いや直感的な相性で判断することがなくなる。その人に何かやってもらう時や、その人が自分に対して何か言ってきた時に、その人の身になって気持ちを想像することができるのだ。

 

そうすれば、自分の人間性の壁を超えて、様々な人と仲良くなることができる。その人付き合いの幅の広さは、自分の財産になるはずだ。

 

 

 

2、仕事がうまくいく。

 

僕は今広告会社の1年生として日々仕事をしている。

 

正直、今はまだ責任のある仕事を任せてもらうことはできない。

 

番組の視聴率を拾ってきてエクセルにまとめたり、過去のCMを延々とキャプチャしてパワポに張り付けたり、とある広告主の雑誌の広告ページをスキャンして取り込んだり…。

 

これらは、典型的な「雑用」なのかもしれない。

 

だが、どんなに「雑用」に見える仕事であっても、それが「なぜ今のタイミングで」「どうしてこのアウトプットの形で」「誰のために」やっているのかを常に考えていると、ビジネスの全体像がおぼろげながら掴めてきて、非常におもしろい。

 

例えば、視聴率をエクセルにまとめるという作業からは多くのことが示唆される。

 

「番組の視聴率がどの程度か知りたいということは、営業の人が、その番組の前後にCMを出さないかとクライアントに提案するのだろう。営業の人がパッと見て理解できるような言葉の使い方をすべきだな」

 

「なぜこの番組なのだろうか。バラエティだから、ターゲットの若者が見ている可能性が高いからだろうか。同じターゲットが読んでいる雑誌には何か広告は打つのだろうか。打つとしたらこの番組と似たテイストの雑誌に、テレビCMと似た感じのクリエイティブを出すのではないか」

 

「エクセルにまとめるということは、後に何らかの(おそらく相加平均等の)計算を加えるということだから、(セルをすきまなく1列に並べるなど)計算のしやすいようにまとめるのがよいだろう」

 

などなど。

 

もちろん、これだけでは単なる「妄想」に終わるので、仕事を指示する上司に「自分はこう考えたのですが、本当のところはどうですか?」と確認してみる。

 

いかなる仕事からでも、自分の身になる重要な知識は引き出せる。同じような仕事をこなしていても、その積み重ねが自分と人との差をつくるのだ。

 

 

 

3、世の中に退屈しない。

 

僕はもともと活字が好きで、小説やビジネス、エッセイ、はてはサイエンスの本に至るまで、様々なジャンルの本を読んできた。マンガも好きだ。

 

その後は音楽に興味が移り、ポップスからロック、大学のサークルではクラシックと、あれこれつまみ食いして楽しんできた。

 

今は新しく映画を勉強している。小説や音楽といった「映像が出てこない」カテゴリーのものとは違い、映画には映画のおもしろさがあると日々痛感している。

 

小説、音楽、映画に共通しているのは、「系譜がある」ということだ。1つの作品は、必ず過去の別の作品に影響を受けている。それぞれの芸術のカテゴリーには、そういった系譜が植物の根のように張り巡らされていて、その根をできるだけ大きく想像していくのがとても楽しい。

 

もちろん、作品に自分を投影し、「ああ、昔同じようなことで泣いたなぁ」などと感じ入るのも、僕にとっては昔を省みるとても大切な時間だ。

 

好奇心を持って芸術作品に親しんでいると、自分は死ぬまで絶対に退屈しないことを確信できるのだ。

 

 

 

4、逆境や変化をプラスに捉えられる。

 

好奇心があるということは、与えられた環境がどのようなものであれ、その場所のことを知って順応しようとする姿勢があるということだ。

 

僕は、インドに渡って自分の住む予定のアパートに最初に足を踏み入れた時、すぐさま日本に帰りたくなったことを覚えている。

 

スラムのど真ん中で、インド人9人と住むことになっていたのは、さすがの僕にとっても青天の霹靂だった。

 

しかし、こんな経験ができるヤツはほとんどいない、インドの吹き溜まり生活はどんなものなのか、いっちょ体験してみようじゃないかと思いなおしたのだ。

 

その結果、ムンバイに集まってくるインドの若者たちとラッシー(インド的飲むヨーグルト)でさし飲みをし、インド人の価値観を自分なりに知ることができた。英語の通じないスラムの医者にかかってケツを丸出しにしたり、いろいろと表ざたにできないインド的謀略に巻き込まれたりした。

 

そのすべてが、僕にとっては興味深かった。

 

きっとこれからも、予想もつかない出来事が自分の身に起こったとしても、僕は飄々とその変化から面白みを見つけ出していけると信じている。

 

逆境や変化に対するしなやかな強さを、好奇心は与えてくれるのだ。

 

 

 

以上のように、好奇心を持つといろいろといいことがある。

 

とはいえ、「持て」と言われて持てるものではないことも、重々承知なのだが…。

 

ただ、気の合わない人と話をしなければならない時や、つまらない仕事を任された時、友人に強引に興味のないコンサートに連れてこられた時、いきなり転勤を命ぜられた時などに。

 

「もしかしたらここにおもしろいものがあるかもしれない」と思ってみることは、必ずあなたの人生にプラスになるはずだ。

「自分のために書いている」では、ブログを書き続けられない理由。

あなたは、誰のためにブログを書いていますか―。

 

そう尋ねられたら、何と答えるだろうか。

 

昔の僕なら、こう答えただろう。

 

「自分のために書いています」と。

 

「誰かにわかってもらう必要はありません」とも。

 

ところが、「自分のために書いている」にもかかわらず、こうしたブログはそのうち更新されなくなり、インターネットの片隅に忘れ去られてしまうことが多い。

 

 

 

今の僕なら、冒頭の問いにこう答えるだろう。

 

「自分のために書いています。だけど、それは自分自身に向けて書いているわけではありません。僕と同じような考え方をしていて、でも僕とは違うどこかの誰かに向けて書いています」と。

 

キザな言い方をすれば、同じ遺伝子を持っている人に向けて書いている、とも言えるかもしれない。僕と同じ遺伝子を共有している人は世界中にごまんといる。だが、彼らは「今この瞬間、このブログを書いている僕自身」ではありえない。

 

「自分のため」に書いてはいても、それが必ず「誰かのため」になっていると確信できること。自分の文章は、自分には似ているけれども、自分ではない誰かに必要とされているのだと確信できること。

 

僕が何の見返りもなく毎日せっせとブログを更新できるのは、こうした宗教じみた確信を抱いているからである。

 

 

 

もしあなたが、「自分自身のためにブログを書いている」と思っている場合、その気持ちのままでブログを何年も書き続けるのは非常に難しいだろう。

 

「自分自身のため」に書いているのなら、なぜウェブに文章を書いているのだろうか?ノートに日記をつけるのではダメなのだろうか?

 

書いた文章をウェブに公開するという選択をしている時点で、どこかに「自分のことを誰かに知ってほしい」という気持ちがあるはずだ。

 

僕は、大学1年生の頃は毎日紙のノートに日記をつけていた。

 

しかし、2年生になってからは、「文章で発信する」という行為の舞台はインターネットに移った。

 

その頃は否定していたけれど、本当は、誰かに認めてほしかったのだと思う。

 

やりたいことがわからない、自分は何が好きでどんな人間なのか見当もつかない、これといった主張もなく、のめり込めるものも見つからない―。

 

そんな、暗闇を1人手探りで歩いているような気持ちを、誰かに共有してほしかった。わかってほしかった。

 

「僕は誰かに語りかけたいんだ、今の気持ちを誰かにわかってほしいんだ」

 

自分の気持ちを、そんなふうに再定義するところから、「ブログを書き続ける」ことは始まるのではないだろうか。

 

 

 

今、僕がブログを書き続けていられるのは、読んでくれるいろんな人からのフィードバックのおかげである。

 

昔、一匹狼を気取っていた頃には、「誰かのために書くことがモチベーションになる」なんて、思ってもいなかった。

 

それが自分に似た人でも誰でもいい。「誰かのために書いているんだ」と確信できたなら、それ以降はもう何のインセンティブもなしにブログを書き続けていけるはずだ。

 

「ブログは自分のために書いている」という全ての人が、あとほんの少し踏み出せば、もっと多くの人の言葉がこの世にあふれてくるはずだ。

 

そんな日を楽しみにして、僕は今日も僕のブログを書き続けていきたい。